2002年3月24日 棕梠の主日夕礼拝
「主よ、救いを」
マルコによる福音書11章1-11節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 主イエスは子ろばに乗ってエルサレムに入られました。過ぎ越しの祭 りを祝うために各地から集まっていた「 多くの人が自分の服を道に敷 き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

ホサナ。
主の名によって来られる方に、 祝福があるように。 我らの父ダビデの 来るべき国に、 祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」 と聖書に記されています。この日を「しゅろの主日=パーム・サンデー」 と呼び、大切な受難週の日曜日に守ります。アメリカでは子供たちがしゅろ の枝を聖壇にささげる習慣があると教えてくれた人がいます。その枝は翌 年まで保管され受難節の初めの日に燃やして、灰の水曜日の記念とするの だそうです。

しゅろ
「しゅろ」とされている植物はイスラエルの景観を飾る樹高30メートルに もなるナツメヤシで、樹齢200年にも及ぶこの樹の大きな鳥の羽のような枝 は、仮庵の祭りの時には小屋の屋根を覆う枝として用いられるイスラエル の繁栄と喜びの象徴だということです。聖書事典には「日本語でしゅろ、 というと扇形のわじゅろ、とうじゅろが想像される。しかし、ここに記さ れているしゅろはなつめやしのことであって、葉の形は、鳥の羽状をなし ている。今日観葉植物として、どこにでも見られるカナリーやし、または しんのうやしの類と思えばよい。」とあります。

ろばの子に乗って
礼拝のために集う人々が徒歩でエルサレムに入る中、子ろばに乗って入場 する主イエスの姿は目を引いたことでしょう。人々が自分の服を道に敷き、 また、枝を道に敷いたのには理由があります。上着ですが、列王記下9章13節 に「彼らはおのおの急いで上着を脱ぎ、階段の上にいた彼の足もとに敷き、 角笛を吹いて、『イエフが王になった』と宣言した。」とあります。イエ フは、最も長い間イスラエルを統治した北イスラエルの10代目の王で、ア ハブ以来オムリ王朝の目にあまる暴虐ぶりに対して、それを滅ぼすために 選ばれた器でした。木の枝もそうです。150年前、マカベア家のシモンが イスラエルの敵を打ち破り、エルサレムへ行進した時、人々はしゅろの枝 を振り、歓呼して彼を迎えたのです。民衆はローマの支配からの脱却の夢 を子ろばに乗ってこられる主イエスに描いたのでした。ろば、聖書の中で、 神の御旨との関係で、非常に興味深い役割を果 しています。アブラハムが 神の命令に従って、イサクを連れてモリヤの山に出かけた時、荷物をろば に積んでいきました(創22・3)。イスラエル最初の王サウルが、父のいな くなったろばを探しに行って、神の人サムエルに会い、王として推薦され たこと(サムエル記下9・1以下)なども興味深い出来事です。 主イエスのろばに乗ってのエルサレム入城はゼカリヤ書9章9節の預言の 成就とされ、
「娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、
歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、
勝利を与えられた者
高ぶることなく、
ろばに乗って来る
雌ろばの子である
ろばに乗って。」
とある通りです。馬の方が騎乗用としてははるかにろばにまさり、昔から 戦争に用いられましたが、「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく」 (詩147・10)とあるように、主イエスは、エルサレム入城のとき、平和な 仕事のためにくびきを負って使役されているろばを選ばれたのです。それは、 平和の君である主イエスが乗られるのに最もふさわしい乗り物です(イザ9・6、 ゼカ9・10) 。

ホサナ
ホサナの原意は、詩編118・25にあるように、「どうか主よ、わたしたちに 救いを」です。この言葉を叫び、上着を敷き、枝を道に敷いて主イエスを 迎えた人々が、主イエスに、イエフを、また、マカベア家のシモンを思い 描いていたことは、大きな錯誤です。民衆の誤りは、また、指導者のそれ でもあります。11章11節に「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に 入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、12人を連れ てベタニアへ出て行かれた。」とあります。これは、神の宮は外から見る と堅固で堂々としていても、中に入って見ると、神の子である主イエスの 留まることのできない場所であったことを示しています。主イエス誕生の とき、ベツレヘムの「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とのルカ福 音書の言葉を思い起こします。この世は主がおられるのに、信じようとし ない罪の世であることにおいて、主イエスの誕生のときから、死のときま で一貫しているのです。

救いとは何か
翌日、主イエスは、いちじくをのろい、宮清めをされました。枯れたいち じくに驚く弟子たちに、「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれで もこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わ ず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、 言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうす れば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨 みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天 の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」(11章22-25節)と教えて くださいました。救いは力にではなく、主イエスを信じる信仰にあり、解 決は、人間の手にあるのではなく、神のみ手にゆだねられているのです。 従って、父なる神への祈りこそ最も大切で根本的であることを主は教えて くださっておられるのです。ろばは、神へのささげ物とはならない動物で、 初子が生れた時は、代りに羊をもって贖わなければならない(出13・13、34・20) ということも憶えておきたいことです。わたしたちはみな、ろばです。 神の子羊でありたもう主が、「お入り用なのです。」と招いてくださって います。ここに救いがあります。



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