2002年6月23日 聖霊降臨後第5主日礼拝
「十字架の言葉」
コリントの信徒への手紙一 1章18〜25節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」。
「十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です」。
17節、18節のパウロの言葉です。コリントの信徒の手紙を記すパウロのただ一つの願いを表す言葉です。コリントの教会には多くの問題があったことはよく知られています。その一つ一つに丁寧に対応するパウロの願いは、コリントの教会に十字架の救いの福音が確立するということでした。

コリントの教会

コリントの教会の創立については、使徒言行録18章に記されています。第2回目の伝道旅行の成果です。この旅行はパウロにとって予想外の出来事の連続でした。出発のときに、バルナバとの決別がありました。「御言葉を語ることを聖霊から禁じられ」るという経験もしました。やむなく、パウロは海を渡り、ヨーロッパに足を踏み入れることになったのです。フィリピで、テサロニケで、ベレヤで、見るべき伝道の成果がありました。アテネのアレオパゴスの評議所でおこなった伝道説教の挫折はパウロを失望させ不安に陥らせました。逃げるようにして来たコリントでアクラとプリスキラに出会いました。彼らも、クラウディウス帝の迫害でローマを追われてコリントに来たのでした。礼拝のために家を提供したユスト、住居と職業を提供して伝道を支えたアクラとプリスキラ夫婦、これもパウロにとって新しい経験であったに違いありません。

人の知恵、人の賢さ

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(21節)とあります。自分の利益のために知恵を用いたり、賢さを生かしたりということをあげつらっているのではありません。「神を知る」というより高い、根本的事柄のために用いられる知恵、賢さを問題にしているのです。

それにしても現代人は、「神を知る」ことに関心を持ち、努力を払っているでしょうか。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)と述べたペトロの言葉を改めて語らなければならないのかもしれません。

今日の御言葉でパウロが問題にしているのは、人間の力で神を知ろうとする努力の空しさです。より高次の事柄と取り組んでいるため、そこで味わう人々の挫折、むなしさはより深いものであったにちがいないと思います。時代の闇は深いのです。

ユダヤ人はしるしを求め
ギリシャ人は知恵を捜す

ユダヤ人とギリシャ人、この二つの人たちが、当時の人間の生活を代表していました。

しるしとは奇跡による証明です。ユダヤ人は、神に選ばれた民であることを誇りながら、その歴史は、神に背く歴史かと思われるほどでした。神の恵みを受けながら、神のなさることを信じることができませんでした。それで彼らはいつも、神の恵みが与えられているということの証拠を求めていました。

それに対して、ギリシャ人は、知恵を求めました。彼らに起源する哲学、フィロソフィーは「知恵を愛する」という字であります。人間の理性に基づいて考えることこそ、生きがいでした。

この二つのあり方は、今の時代のわたしたちの考え方でもあるのではないでしょうか。まことに疑い深く、信じること遅く、いつでも何らかの証明を欲しがります。奇跡かと思われるような驚くべきことを求めているのです。また、ギリシャ人ほど徹底して思索することはありませんが、理屈に合わないと、信じられないというのもわたしたちの姿です。

そのような人々にとって、ナザレの大工ヨセフとマリヤの間に育ちたもうイエスを神の子、救い主と信じることは到底不可能でしょう。処女からの誕生などもってのほかということになります。

十字架の言葉

17節で十字架と言っているのに、18節でなぜ、「十字架の言葉」と言い換えているのでしょうか。それは言葉のない十字架は、力にならないと考えたからにちがいありません。キリストが十字架にかけられた時、ゴルゴダには、3本の十字架がたっていました。キリストを真中に、2人の盗賊が同じように十字架にかけられていたのです。真中の十字架は両脇の十字架とは比較にならない意味を持っていました。

ルカはこう記します。『「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」』(ルカ福音書23章33〜34節)

パウロはこう記します。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(コリントの信徒への手紙二5章14〜15節)

わたしたちはキリストの十字架の意味を理解しているでしょうか。キリストが十字架上で父なる神に訴えかけられた言葉を心に刻んでいるでしょうか。

努力しても神に近づけなくさせているのは、人間の罪です。十字架にかけられたもうキリストを信じるだけでわたしたちが救われ、神の愛のうちに招き入れられるのは、キリストが十字架上にわたしたちの罪を引き受け、罪の赦しを得させてくださっているからです。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」とパウロが述べるのは、「神が宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと」お考えになっておられるからです。

わたしたちも教会に十字架の言葉が確立するように、祈り求めてまいりましょう。



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