| 2002年9月1日 聖霊降臨後第15主日礼拝 「最高の道・最大のもの」 コリントの信徒への手紙一 12章31b節〜13章13節 |
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愛の讃歌 コリントの信徒への手紙一の13章は「愛の讃歌」として知られています。「愛がなければ無に等しい。何の益もない」との1〜3節の主張、「最高の道」との導入、「最も大いなるもの」との結語、8節に記されている愛の永遠性、人を未熟なものから、成熟へと育てる愛の力。どれを取り上げても、ここに記されている言葉、思想は、愛の讃歌といわれるにふさわしい内容をもっています。
愛なる神への応答 コリント教会の過ちにもかかわらず注ぎつづけられる神の愛、恵みを語りつづけてきたパウロが、心を注ぎだすようにして語り始めた信仰の応答、愛の神への生き生きとした告白が、この13章だからです。 パウロの告白 「異言」「預言」「神秘」「知識」「信仰」これらはコリントの人々の誇りでした。しかし、「愛がなければ」とパウロは述べます。「シンバル」は、異教の礼拝で、人を恍惚状態に導くために激しく鳴らされていました。それは判断力を奪い、人を破滅へと導きます。「どら」は、舞台の下に置かれ、音響効果を増大させるために用いられていたブロンズの壷のことだと考えられています。役者の言葉は観客に届けられなければなりません。しかし、何を言っているのか理解できない異言の音量をいくら増大させても騒々しさが増し加わるに過ぎないというわけです。 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしには何の益もない」との言葉には、天幕作りで生活を支え、無報酬で行われたパウロのコリント伝道を、彼の使徒性を否定する根拠にしたパウロの敵対者たちの存在をうかがわせます。 「愛がなければ」と繰り返すのは、パウロのコリントの兄弟姉妹への働きかけは、愛の動機以外のなにものでもないことをわかってもらいたいからです。 「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。「愛がなければ、無に等しい」(13:2)。「愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)。愛がなければとパウロは繰り返します。愛が失われた世界、愛喪失がすべてを無化していく現実の中で、パウロは愛がどこにあるかを知っており、それを確信をもって宣べ伝え、その愛に応えていくのだとの強い思いが示されているのです。 ローマの信徒への手紙5章8節で語っています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。キリストの十字架に、父なる神のわたしたちへの愛が示されている。キリストは神の愛そのものであられるのです。 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」との12節の言葉は、神の愛の力強い働きかけと、それに触発されて、愛を知り、愛に生き、意味ある歩みを開始した伝道者パウロの経験が裏付けにあります。 コリント教会の反省 「忍耐」については、一日働いてかけつける兄弟姉妹を待つことができずに、飲み食いし終えてしまった11章を思い浮かべることができます。空腹にすら耐え得ない弱さ、それは愛のない姿です。 「ねたみ」については、3章3節で「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」とパウロはすでに警告しています。 「高ぶり」については、8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語っています。パウロ、ペトロ、アポロを比較して、自分が誰についているかで優位を競い合うコリントの教会員の姿に、人を育てていく知恵も、愛もないことは明らかです。 「礼を失せず」は、実際には恥ずべき行いを避けることを意味し、この点でコリント教会は多くの問題を抱えていたことはよく知られています。 「自分の利益を求めない」についてもすでに、10章33節で「 わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」と述べています。 パウロの言葉に、わたしたちも自己を省みて見なければならないのではないでしょうか。 教会形成の努力 教会形成の努力も似ているのではないでしょうか。荒々しい姿、取り除かれねばならない多くの問題、しかし、すでに主イエス・キリストはおられるのです。臨在したもうキリストの姿が日増しに明確になるように、もし愛がなければと自省する時を持ちましょう。 キリストは神の愛そのものであられますから、愛のない教会はありえないのです。「愛がなければ」とは、愛の主がおられるからこそ言える教会の言葉であることを自覚しましょう。
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