| 2008年7月27日 第44回 教会全体修養会 「苦難をつらぬき」 |
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正しい事をして、なぜ苦しむか、古い昔からあった問い。そんなに悪いこともしていないのに、なぜ苦しまなければならないか。 むろん、自分が絶対正しいなどとは思っていない。しかし他の人間にくらべて特に悪いとも思えない。なぜ自分がこんな試練を受けるのか。誰の心にもある思い。 さて、ここにヨブという人がいます。ヨブは正しい人であったということが最初に記されています。「無垢な正しい人で」というのは、ただ行いが正しいというだけでなく、その心も純な人だったという意味であります。 その正しい人、そのゆえに恵みを受けていたヨブが、ある日突然、一朝にして、その持っていたもの全てを失いました。牛がシェバ人にすべて奪い去られてしまったという報告が入ります。羊と羊飼いが天からの神の火が降って死んでしまったという報告が入ります。「天から神の火が」、いやな言い方です。神への批判の思いが含まれています。そのあとまた悪い知らせ、カルデヤ人がらくだの群れを襲い奪い去ってしまった。その上に決定的な悪い知らせ。ヨブの仲の良い子どもたちが突風に襲われ、倒れた家の下敷きになって死んでしまった。仲が良かったばかりにムザムザ全員死んでしまった―そんな言い方です。 ヨブは打ちのめされていました。それから「ヨブは立ち上がり」ました。「衣を裂き」というのは悲しみと悔い改めの表現です。「髪をそり落とし」というのは過去を捨てて、再出発を表明する行為です。 信仰者は試練に打ちのめされるのですが、同時に試練によって原点に立ち帰らされます。違う形で神にもう一度出会わされます。 ヨブは神の前にひれ伏して言いました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。その御名はほめたたえられよ」。 ヨブはすべてを失ってわかったことがありました。人生には失って初めて見えることがあります。失わなければ見えない真実というものがあります。 「裸で生まれた、裸で帰る」。それは誰でも知っていることです。しかし、すべてを失って初めて身にしみてそのことがわかりました。 詩編四九編二一節「人は栄華の中に悟りを得ることはない。」人は成功や栄達において人生の深い知恵を得ることはできないのです。 なにかを失った地点で、挫折において人間としての根本的なことを悟らされるのです。 「主は与え、主は奪う。その御名はほめたたえられよ」。ヨブは、この試練の中で神がどういう方であるかを思い起こします。「主は与え」る方、裸で母の胎を出たヨブ、なにによって生きてきたか。神に与えられてであります。 わたしたちの人生もそうです。与えられてきました。偶然にではなく「神が」与えてくださった。その時、その時、神が必要と思うものを与えてくださった。親が子どもに与えるように。ですから「主が与え」ということの中に、主のみ心が込められているという意味で大きな恵みがあるのです。 それだけではありません。「主は奪う」。神は与えてくださる方であるだけではなく「奪う」方でもあります。ときには、私たちにとって絶対必要だと思うものをも取り去られます。なぜなのか、わたしたちにはわかりません。しかし、そこにも主のみ心があるのです。それはわたしたちを配慮するみ心であります。神の都合のためではなく、わたしたちのために意味があるのです。「主の御名はほめたたえられよ」。 裸で生まれた。裸で出る。元どおりになった。そういうことではありません。与えてくださった神、奪われた神、その神は残るのです。与え、取り去られる神、その神はわたしたちと共に残るのです。 詩篇二三篇「たとい、わたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(口語訳)。 人生は苦難の道です。しかしわざわいではないのです。わたしたちを追い詰め打ち倒すものではない。主が共にいてくださる。 神はこのわたしたちと共に歩くために、この世に来てくださいました。 この主イエスと共に歩きながら、試練の人生を歩きながら―だんだん深く神を知るのです。いよいよ深く神の愛を知るのです。 主はほめたたえられよ。アーメン。 |
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