2005年7月31日 第41回教会全体修養会
「旧約から奥義を悟る」
コリントの信徒への手紙J10章12-13節

小友 聡(おとも さとし)
東京神学大学助教授
1956年 青森県に生まれる。
東京神学大学、
ヘーゼル神学大学に学ぶ。
東京神学大学助教授、神学博士。

 私たちは人生において思わぬ試練に遭うことがあります。健康そのものであった人が突然、大病を患う。あるいは、順調そのものであった事業が突然、破綻してしまう。それまで順調であったのに、思わぬ苦しい経験を余儀なくされるということがあります。

 与えられている聖書の御言葉の最初にはこう記されています。「だから、立っていると思う人は、倒れないように気をつけるがよい」。これは、パウロの言葉です。大都市コリントの教会に集まっている人々の中には、役人や事業家、商人など有力な人々がいたに違いありません。パウロはそういう教会の人たちに、倒れないように気をつけなさい、と語りかけます。恐らく、「倒れる」という経験をした人たちがいたのだと思われます。そのことをパウロはよく知っています。この12節の直後に、パウロは試練について記します。

 試練は私たちだれもが経験する、いや、経験してきたことです。試練がやってくる。その時、人は思います。なぜ、自分だけがこういう目に遭うのだろうか。なぜ、あの人、この人ではなく、自分だけがこんなつらい目に遭うのか。懸命に人一倍努力してやってきたのに、特に不正をしたわけでもないのに、なぜ、自分だけがこのような試練に遭わねばならないのだろうか。これは、試練に遭うときの私たち自身の正直な思いでもあります。そういう試練について、聖書は何を私たちに語っているのでしょうか。

 パウロはこう書き記します。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」。パウロはまず私たちの目を過去に向けさせます。ほら、思い出して御覧なさい。これまであなたがたが耐えられないような試練はありましたか。そういう試練はなかったはずです。いつだって、あなたはその試練に耐え抜いてきたではありませんか。パウロは、そういうことを語って、次に、実に不思議なことを言います。パウロは「神様は真実な方です」と神に対する告白をする。なぜ、こんなことをパウロはここで突然、語るのでしょうか。これは、ひょっとして、試練というものが神から来るということをほのめかす言葉なのではないでしょうか。

 興味深いことに、パウロは試練について語るこの個所において、旧約聖書のことを語っています。10章の初めに記されるいろいろな実例はすべて旧約聖書からの引用です。これは明らかなことです。そこで、私たちにとって注目すべきことがあります。それは、旧約聖書で「試練」はバーハルというヘブライ語で表現されるということです。バーハルはもともと「選ぶ」という意味の言葉です。例えば、申命記7章6節以下に、神がイスラエルの民を選んだことが書いてあります。神はすべての民の中からイスラエルを選んだ。それは、主がイスラエルをひたすら愛するがゆえであった。あなたがたはどの民よりも貧弱であったけれども、主はただあなたがたを愛するがゆえにあなたがたを選んだ、そう書かれているのです。この「選び」を意味するバーハル。この言葉は、実は同時に「試練」をも意味するのです。イザヤ書48章10節を見るとよくわかります。そこにこう書いてある。「見よ、私は火をもってお前を練るが、銀としてではない。私は苦しみの炉でお前を試みる」。私は苦しみの炉でお前を試みる、とイザヤが預言した神の言葉。この「試みる」という言葉は、「選ぶ」という言葉なのです。聖書では、神が「選ぶ」ということは、神が「試練を与える」という意味になります。聖書において、選びと試練は一つにつながるのです。

 この旧約聖書の言葉によって、試練についての謎が解けてきます。神は私たちを選び、私たちを愛するがゆえに、私たちに試練を与えるのです。神の選びが私たちにおいて明らかになるために試練があるのです。選ばれた者こそが試練を受ける。これは、旧約のダニエルの場合を考えるとわかります。ダニエルは神に選ばれた人物です。神に愛された人です。そのダニエルは友人たちと共に次から次に耐えがたい試練に遭います。王の夢を解き明かせと命じられ、燃える炉の中に投げ込まれ、ライオンの住む洞穴に投げ込まれる。これでもか、これでもかといわんばかりにダニエルに厳しい試練がやってきます。なぜ、ダニエルは試練に遭うか。それは、ダニエルが神に選ばれているからです。彼が神に選ばれた人であることが明らかになるために、試練がやってくるのです。

 パウロは、旧約聖書におけるこのような試練の奥義を知っていたに違いありません。それゆえに、「神は真実な方です」と告白するのです。私たちを愛し、私たちを選ばれる神は真実な方です。その神が無意味な試練を私たちに与えるはずがありましょうか。パウロはこう続けます。神は「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。神が私たちに与える試練には、すでに神によって逃れる道が備えられている、というのです。

 私たちにとって試練は耐えがたい、ただ苦しいだけの辛いものに思えるかも知れません。けれども、この試練は神の選びの御計画にあるものです。それならば、いや、それだからこそ、私たちの試練は決して苦しいだけで終わるはずはありません。試練に遭うということは、その人が神に選ばれ神に愛されているからだ、ということを旧約聖書から確かめることができる。私たちに対する神の選びが明らかになるために、私たちに試練があるのです。私たちが試練を超えていかなければ、神の選びは確かなものとはなりません。もし、私たちが試練でくじけてしまうなら、神の選びは完成しないのです。

 私たちに試練を与える神は、御自身が苦しむお方です。神は私たちのために御子イエス・キリストを十字架に掛け、私たちの身代わりとして死に至らせるほどに、私たちを愛して下さいました。それほどに私たちを愛して下さる主。それほどまでに私たちを愛し抜いて下さった主。このお方がしっかりと私たちを支えて下さるのです。主によって支えられている私たちは決して見捨てられることはありません。逃れる道が必ず備えられています。そのことを私たちははっきりと悟ることができるのです。




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