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棚村 重行(たなむら しげゆき)
東京神学大学教授
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スペインのバルセロナには、日本人客が訪れるローマ・カトリック教会の「聖家族贖罪教会(サグラダ・ファミリア)」があります。天に聳えるトウモロコシ風の尖塔で名高い教会です。この聖堂の主任格の彫刻家は日本人、外尾悦郎さんという方です。彼はガウディというカトリックの建築家が120年ほど前に夢見た「石の聖書」としての聖堂の幻に感激し、30年もスペインに滞在しノミをふるっています。「石の聖書」とは聖書の様々な場面を彫刻で再現する聖堂建設をめざす言葉なのです。
スペインでこの聖堂建設が本格化した120年前、1890(明治23)年に銀座教会の前身、メソジスト(美以)銀座教会が誕生しました。『銀座教会百年史』によりますと、築地にあった母教会の人びとが銀座の一角に「家付き売り地」を発見、当時の小方仙之助牧師はじめ信徒の方々が祈り献金を集め、四月にはあっという間に銀座教会が捧げられたとあります。その姿は創世記23章13節が記すイサクに代わって用意されていた犠牲の羊を見出し、それをアブラハムが神様に捧げた物語と重ね合わされます。こうして、銀座教会はただみ言葉により恩寵のみにより誕生したのです。皆さんの先輩方の教会の幻は「石の聖書」ではない。「生きざまの聖書」だったのです。無論その後銀座教会も立派な会堂を建築されました。でも皆様の幻は一貫して「み言葉の被造物」であり、キリストにある「新しい被造物」です。そこで創立百二十周年記念礼拝を今朝守るにあたり、私たちの教会の福音主義的公同的な生い立ちを聖書から共に再確認させていただきましょう。
さて今朝の第二コリント書5章16節で、使徒パウロはコリント教会の人びとに語ります、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今ではもうそのように知ろうとはしません」と。当時あの教会には「肉に従って」、つまり生前のイエスの振る舞いなど外面的知識を持っていると自慢する人びとがいたらしい。彼は17節で反論します。真のキリストを知る知識は「肉に従う」あり方では得られない、「キリストにある人は誰でも新しい被造物だ。古いものは過ぎ去った。ご覧なさい、新しいものが生まれているではないか」と。
だが考えて見ますと使徒パウロも他人のことを批判できるでしょうか?若き日に彼も「肉に従って」しかキリストを知らなかったのです。いや考えようでは一層悪質なキリスト教会の迫害者でした。そんな途轍もない肉の人があのダマスコ途上の回心で天上の復活の主イエスに出合い、キリストの福音を全世界に宣べ伝える伝道者パウロへと造り変えられた!だから彼は「恥ずかしながら私こそキリストにあって、キリストの恵みによって敵対者から味方へと造りかえられた新しい被造物の一員だ」と本心では付け加えたかったのではないでしょうか。
ではどんな神のご決断が驚くべきこのような新しい創造の奇跡をもたらしたのでしょうか?18、19節の言葉が鮮明にしています。原文に近く訳すとこうなります、「だがすべては神から出ています。その神はキリストを通じて私たちをご自身と和解させ、和解の務めを私たちに与えられました。神はこの世界の罪過を彼らに負わせぬことで、キリストにおいて世界をご自身と和解させ、和解の言葉を私たちの間に置かれたのです」。この短い箇所で四回も使用された「和解させ」、「和解の」という言葉はいずれも同類の表現です。元来「へと変革する」「へ交換する」という動詞に由来します。そこから「和解させる」という意味にもなります。創造者なる父なる神が「キリストを通し」、神に敵対する反逆の世界と我々を敵から味方へと変革された、チェンジされた! だから「キリストの十字架を仰ぎなさい、そこに神の和解のみわざの根拠がある。神はあのキリストの苦難を通しこの世界の罪過を御子に身代わりに負わされ、断じて「彼らに負わせぬことで」和解をなしとげられたのだのです!こうして、あのパウロの反逆の罪の赦しと神との和解をも含め、一切が「神から出ている」のであり、人間の側の何ら価値ある努力とか、神と人の救いの合弁事業の決断にさかのぼることは断じてないと言うのです。
皆さんの中に旧約の出エジプト記から題材をとった『十戒』というスペクタクル映画をかつてご覧になった方もおられると思います。この映画の監督はセシル・B・デミルという人です。活劇物以外に聖書を題材にした映画作品をかなり残した大物でした。この映画でモーセ役を演じた俳優故チャールトン・ヘストンが、DVDの付録映像の中である撮影現場を回想しています。それは、偶像の金の雄牛を祀って騒いでいたイスラエル人にモーセが怒って石の十戒を投げ入れ厳しく民を裁く場面の撮影時でした。何千人ものエキストラの中で緑のベールをかぶった二人の女性が撮影中におしゃべりしていて、監督がめざとく見つけました。監督は怒って二人の女性を前に引き出し、スピーカーをもたせて「撮影中何をしゃべっていたか正直にいいなさい」と迫りました。おびえながら女性らは答えました、「もうランチタイムなのにあのじいさんいつまで撮影続ける気なのか」です。それを聞いていたへストンと数千人のエキストラは一瞬凍り付いたようです。(監督が怒ったモーセのごとく「お前ら仕事は首だ」と裁くに違いない!)と思いきや、デミル監督は大声で叫んだ、「ランチだ!ランチにしよう!」緊張が吹き飛び、大爆笑が現場全体に響いたそうです!へストン自身がそれは楽しそうに話しておりました。
私はこの監督の「ランチだ!」という宣言の中に、「神はこの世界の罪過を彼らに負わせぬことで、キリストにおいて世界をご自身と和解させ、和解の言葉を私たちの間に置かれた」という使徒の言葉のシンプルで温かい注解書を読んだような気分になりました。勿論あの撮影現場には苦難のキリスト役はいません。でも二人の女性の罪過に対し、監督は彼女らにそれらを負わせず、赦しと和解を寛大にユーモアで包み宣言したからです!アメリカ社会の面白さは教会外の世俗で宗教的な用語は使わずユーモアやジョークを通し聖書的な罪の赦し、和解の心、弱い人間性への思いやりを表現できるスケールの大きな人に時々出会えることです。あの監督も「石の聖書」ではない、パウロの和解の福音を反射する「生きざまの聖書」たらんとしていた一人ではないでしょうか!ちなみにデミル監督の口癖は「聖書を2ページ見せてくれ。そうしたら映画を一本作ってみせよう」だったそうです。
さて続く第二コリント書の20節を読みましょう、「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストの代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。これはなんとも不思議な表現ではないでしょうか。なぜなら私たち現代人の感覚だと、「神様はすでにキリストにおいてこの世とご自身の和解を実現された。だからあなたちは神の和解をモデルにし平和を創り出しなさいよ」と積極的に求めたくなるからです。8月の教団の平和聖日標語流に言えば「平和を、和解を創り出す人たれ」です。ところが原文の言葉は受け身の形の二人称複数の命令形です。「キリストのために勧める、神と和解されるように」または「神の和解を受けるように」という表現なのです。なぜこんな消極的、受身的な表現を使徒はここで選んでいるのでしょうか?
そこで今朝の旧約エゼキエル書の2章1、2節に眼を移しましょう。神がエゼキエルを召された時「人の子よ、自分の足で立て」と命じられました。神はまるで近代人・現代人の大好きな自分の足で立つ自律的人間たれと言われたかのようです。でも神のエゼキエルを召し真の預言者に造りかえるやり方は全く違っておりました。それが証拠に2節にこうあります、「彼〔神〕がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足でたたせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」と。自律じゃあ全くない、霊が彼を空っぽにし受身的に変え、主客を転倒させ、霊が「自分の足でたたせた」のです!だから他律でも自律でもない、霊律、ティリッヒという神学者流に言えば「神律」、神のみに立てられる!そこで彼は初めて真実にみ言葉を聞くことができたのです。
新約でも似ています!使徒パウロも「皆さん、一切が神からでているのです。主にあって和解の神が行動されたのです!だからあなた方は主客転倒され、神の和解の福音をただ信じ、神との和解を受けなさい」と受身的に勧める以外に表現はない。私たちが空っぽにされ、神の和解行動を受けたとき初めて、和解の神と主にあって神律的・霊律的な仕方で結びつけられます!そこから私たちは日常世界の傷つけ傷つけられる難しい人間関係のただ中で、「神との和解を受けよ」との命令あればこそこれに単純に服従し、その結果関係を修復する勇気を神様からの贈り物としていただき実行できるのです。
私事にわたり恐縮ですが、1年半前私は消化器系の手術を受け2週間入院しました。息子の一人が会社の帰りに見舞いに立ち寄ってくれました。ふと息子に一度尋ねて見たいことを思い出しました。何十年も前米国留学時代に幼かった彼と野球をしていたとき。当時勉強に明け暮れていた私は課題のレポートの締め切りにあせり、途中で息子との野球を止め机に戻りました。「部屋へ行くよ」と言ったとき、幼かった彼の眼には「お父さん、もう行くの」という悲しみの色が浮かび、私の心に罪責感のように焼きついていたのです。そこで息子に「あの時のこと覚えているか、どんな気持ちだったの」と勇気を出して尋ねました。すると彼は少し驚いた顔をした後、笑って答えました、「えっ、そんなことあったっけ、おぼえてないよ」と。私はもうそれ以上根掘り葉掘り尋ねる必要はないと感じました、彼との関係で心残りのことは過ぎ去ったと思いました。あのコリント第二の手紙5・17の言葉を用いれば、「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」思いにされました。
あの主キリストにおいて神が実現された大宇宙的な救済と和解のみわざの想像のおよばぬ壮大なスケール!それに比べて私たちの人生の小宇宙で私たちをうじうじ悩ませる罪の悩みの限りなき小ささ。しかしそんな私たちの小宇宙の中でさえ、今日もまた継続されている主の和解・罪の赦し・罪人を義とする壮大希有な「新しい創造」のみわざの確かさ!この神のみわざに私たちが福音ゆえに与れる幸いは何と素晴らしいことでしょう! このみわざに参与する唯一の条件は他でもない、父・子・聖霊のお働きによってあの預言者エゼキエルのように、そして使徒パウロの福音と福音的命令に生かされることでしょう、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」という勧めに対して、その通りに生かされることなのです。
今朝皆さんとご一緒に耳を傾けましたコリント信徒への手紙二、5・16〜21節と、只今引用しました17節は、銀座教会が教会合同以前に所属していた旧日本メソヂスト教会、その18世紀の創始者ジョン・ウェスレーの有名な説教「新生」の中で引用されている聖句の一つなのです。そして今朝の聖書箇所の一つの立派な重要な解説を提供してくれていますので、最後にご紹介したいと思います。「それ〔新生〕は、魂が『キリスト・イエスにおいて新たに造られ』(コリント信徒二、5・17)る時に、また魂が『義と神の聖において神の像にかたどって新たにされる』(エフェソ信徒4・24)時に、また世に対する愛が神に対する愛に変えられる時に、神の全能の霊によって魂全体の中に造られる変化である。その時に、傲慢は謙遜に、激情は柔和に、憎しみや妬みや悪意は真実な・優しい・全人類に対する私心を離れた愛に変わるのである」と。見事に深く、でも平明で具体的で霊的力溢れる言葉であると思います。ウェスレーもあの預言者たち、使徒たちに倣い従う「み言葉の被造物」「新しい被造物」の一員でありました。それゆえに公同的ですが、ローマ・カトリック的でもギリシャ正教的でもありません。福音主義的で公同的なキリスト者群の一人に他なりません。
この信仰的方向性に従い、今朝教会創立120周年を迎えられる銀座教会の皆様たちもまた、「教会─新しい被造物」の共同体の一員でおられます。あのスペインの「聖家族贖罪教会」の「石の聖書」ではない。「生きざまの聖書」の理想を担う一員として、次の130周年、150年、いや200周年をめざし力強く前進されますように。またこの日本基督教団の再生のために皆様の良き信仰の遺産と現在の霊的資産を発揮していただきますように、父・子・聖霊なる神の新しい創造のお働きがますます増し加わりますように切にお祈りしてやみません。
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