| 2007年9月30日 聖霊降臨後第18主日 「みことばは地の果てまで」 詩編19編2〜17節、ローマの信徒への手紙10章8〜13節 |
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自然と神の栄光 詩編一九編は雄大で美しいためハイドンの作曲した「創造」という作品の曲で讃美歌などに入っているくらい有名です。一九編を書き残した詩人はどういう態度で宇宙を眺め大自然を見ていたかが分かるでしょう。特に七節までは天体の美しさを詠う文学作品としてみられてきました。しかしこの詩は自然讃歌ではありません。宇宙を、大自然を造られた創造の神の栄光、偉大さ、尊厳を詠っている詩であることはだれにも分かります。 以前の翻訳では「もろもろの天」と訳されていますが、天が沢山あるというのではなく、日や月や星が輝く天体を指し、「大空」は地上に近い空間のことをいうのでしょう。古代世界では天の万象が神々とみられていましたが、聖書では人格化した表現を用いていてもそれらは明確に神の業と見ていました。 新約聖書でパウロがローマの人々に送った手紙でこう告げています。「神について知りうることがらは彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(一章一九節、二〇節)。自然を通しても語りかける神様です。 福音書で主イエスは「空の鳥をみよ、野の花をみよ」(マタイによる福音書六章二六節、二七節)といわれましたが、鳥や花の生き方から信仰の姿勢を学びなさいと言っているのです。 大都会にいると見えるのは高層ビル、立派な橋、早く走る新幹線です。それらに目が奪われ神を見失い、何でも人間の力でできるのだという錯覚に陥ってしまいます。逆に自然のなかで生活する人でも美しい山や木々を見て、神の御業に感動するとは言えません。ネパールでヒマラヤの姿に見とれている私に村人は、呆れていました。彼らにとって高山は厳しい風を送るものなのです。 神の栄光を見るには信仰の目や耳が必要なのです。昼や夜が語り合うことも、生まれながらの耳には聞こえないでしょう。天と大空は神への讃美を語りかけ、また言葉と知識とを啓示するものとして人間に語りかけます。このように被造物を通して御自分を現すことができるのです。 太陽の動きについては誰でも知っているのですが、詩人はとても興味深い表現をしています。「幕屋を設けられた」とはどういうことを言うのでしょうか。古代の人は昼の間天空を移動した太陽は、夜になると地下の世界に沈みそこにある幕屋で一夜を過ごすと考えました。そして朝になると、再び太陽はそこを発ち天空を走ります。「天蓋」は寝屋または休み場のことでしょう。この舞台は設定したのも創造の神です。当時太陽を神のごとく拝んでいた周りの世界とは、全く違っていたことは明らかです。いや、実は私も、生ける神に出会う前は、朝ごとに太陽参拝をしたことがあります。聖書によりそれが間違いと知り、悔い改めて完全に創造主なる神を拝するようになりました。 み言葉が全世界に伝わる 詩編の五節「その響き」はとあります。神様は生きた人格者でご意思を伝えておられます。神のメッセージは自然を通じ、聖書を通して人に伝えられます。内村鑑三は「神の書いた書物が二つある。聖書と自然界である。両者を知りて、はじめて神を知ることが出来る」といいました。神の声は「全地に」響いています。正に今日、み国の福音は地球上の全てのところに伝えられています。文書により、電波により、そして宣教師や、あらゆる地へ行く人によって伝播されるようになりました。神の音信を聞こうとすれば、今の時代は砂漠でも海上でもジャングルでも聞けるのです。 地の果てに届く福音 私たちがネパールの辺境地に行って住み、伝道していたとき、ある老人がぼろぼろになっていたルカの福音書を見せてくれ、驚きました。こんな奥地に誰がその本を届けたのでしょう。あるいは外の地域に行って手に入れたかも知れません。いずれにせよ、福音の伝達が起こったのです。一九二五年に印刷されたものでしたからかなり古いものです。ただ残念なのは、この人はネパール語を良く分かりません。それで私たちがその地域言語であるカリン語を学び、分かる言葉で神の音信が届くように、腰をすえ、カリンの言葉で福音書を翻訳し始めました。マルコ伝ができあがって、それを先の老人に手渡すと彼は一人で読み出し、「これなら分かる」と言ったのです。後に彼は死ぬ前に「死んだらあの日本人がいつも話していた天国へ行くのだ」と告げたそうです。 それから何年かたって村の長老がラジオを聞くと、そこからクリスマス音楽が流れてくるではありませんか。このような奥地まで!電波の力に驚かされました。今年の春、昔住んで奉仕した村々を訪ねて帰る途中、泊まった所にテレビがあり、画面からイースターの讃美歌が聞こえ、知っている人が讃美しているではありませんか。 カリンの村はエベレスト山の南側にある山岳地帯です。道は傾斜が急で平らを歩く人にはとてもきついのです。村人はこういいました。王様の使いもきませんのに、イエス様はきてくださったと。 「そのことばは世界の果てに」とありますが、「地の果て」ともいいます。地理上から、文字通り世界の端というでしょう。確かにそのような所はいっぱいあり、私たちが行った所もそのような所です。そこに今でも人が住んでいるのです。恐らく、日本にきたカトリックの宣教師たちも、ジパングは地球の端っこと思ってきたことでしょう。彼等は苦労して難しい日本語を学び、罪の告白を聞いたということです。 今、私たちの住む日本、ここにも地の果てがあることをご存知でしょうか。遠方にいかなくても、地の果てはあるのです。自分たちの周りをみてください。今日学びました創造主なる方を知らない人々が沢山おります。家族に、友人に、隣近所にと数え切れないほどです。先に恵みを受けた私たちが黙り続けたらその方々はどうなるでしょうか。主イエスは「一人も滅びずして永遠のいのちを得るため」といわれました。「独り子」イエスを信ずる機会を閉ざしてはなりません。 ローマへの手紙を見ましょう。「みことばはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」とあります。一〇節に「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」 この福音が私たちの周りに、そして遠方にまで届き、共に主を讃美できる日を待ち望もうではありませんか。そのとき「太陽の熱や温まりを受ける」ように神の恵みが多くの人々に行き渡るでしょう。
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