| 1999年9月19日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教 神に仕える生き方 コリントの信徒への手紙 二 6章1〜10節 (イザヤ書49章7〜10節) |
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慰める神 さらに「うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によってわたしたちを慰めてくださった」と神による慰めを心から感謝している。ここで一人の信仰の友の来訪が使徒パウロをどんなに慰めたかという一点を見逃してはならない。伝道者も打ち萎えることがある。その時、神は一人の信仰者の訪問によって慰めて下さったことをパウロは手紙に記すことをわすれなかった。これは神の僕としての尊い証である。わたし自身、牧師として牧会の任にある間、実に多くの方々との出会いによって慰められ、励まされたことを感謝して思い起こすのである。 神の僕としての道 さらにパウロは続けて「神の僕」として自分を表す為には「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛」が必要だと言っている。すなわち「真実とは感覚的な刺激を其の働きの中に混入っさせない純粋さであり、知識は人物と事柄を鋭く把握する明敏な洞察を意味し、寛容は他人の意地悪さを、怒りを抑えてよく忍耐して全ての人に仕える姿勢であり、喜びを分かつ慈愛、さらに聖霊の賜物としてこの務めの遂行を支える力」などを与えられて、見せかけの演技では到底なしえない神に仕える者の姿を克明に描くのである。 歴史の証言 この様に初代教会の人々が300年余りにわたって「神に仕える生き方」を守り通したことによって重大な歴史的事件が起こった。当時ローマ帝国はキリスト教を禁じていた。創設されたばかりの教会は言語に絶する迫害を受け、虐げられ打ちのめされた。しかし、迫害の嵐の中に主イエスの教えが守り抜かれたと言うことは実に驚くべき事で、遂に紀元313年にはコンスタンチヌス大帝はキリスト教を公認したのである。或る人は、迫害者達は迫害に倦み疲れ、キリスト者の実力の前に敗北してしまったと言う。当時のキリスト者の愛と真実と忍耐は、周囲にいた異教徒達の心を次第に捕らえ、遂にローマ帝国の政治的権力までも内側から征服してしまったのである。 いつものように 一週のはじめの日、主イエスは「いつものように」(ルカ福音書4章16節、マルコ福音書10章1節)会堂に入られ、聖書を朗読し、み言葉に聞き、主を讃美して安息日をお守りになったと福音書の記者は記している。「いつものように」という小さな言葉を何気なく読み過ごしてしまうが、これは信仰生活の原点を指し示している大切な言葉である。この世の生活に流されて変形している姿をみ言葉に照らして点検し、正しい信仰の姿勢を整えることは信仰者の大切な課題である。我々は好むと好まざるとに係わらず慌ただしい社会や壊れた世界の中に生きて、不自然に歪んでしまった生活を強いられている。使徒パウロは「伝えられた教えの基準に心から服従して罪から解放され、義の僕となり、さらに自分の肢体を義の僕として捧げて清くならなければならない」(ロマ書6章17〜19節)と書き送っている。主イエスも「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」と教えられたが、清潔な信仰生活はウェスレーが勧めたメソジストの生活指針でもある。何時のまにか日常生活の忙しさに紛れて聖書日課を読むことから遠ざかり、祈りの時間やテレビによって片隅に追いやられて行く。御言葉の光に照らされてこのような惨めな姿勢を正され、静かに在るべき姿勢を祈り求める恵みの時、すなはち礼拝の「今」こそ重要なのである。 中断される人生 近藤先生の「中断される人生」と言う著書がある。教えられることの多い信仰書の一冊である。その本の最初に『「中断される人生」は、実は万人の真相だと言ってよい。キリスト者は「中断される人生」を特別な仕方で生きている人ではないでしょうか。まさにその人生の中断においてこそ、私達の知るべきことがあるのではないでしょうか。人生の主は自分自身ではなく、神こそわが人生の主であるという厳粛な事実を、そこでこそ学ぶのです。人生におけるこの日曜日ごとの中断をもって、私達は神こそわが人生の主だ』と断言して、神に仕える者の姿勢を具体的に記されるのである。 本物の弟子 イエスは「信じた人々」に向かって「もし、わたしの言葉のうちに留まっておるなら、あなたがたは本当の弟子なのである。」(「なんじら、もし常に我が言葉におらば真に我が弟子なり」《文語訳》、ヨハネ福音書8章30〜31節)と言われた。信じて弟子になるだけでなく、その時から刻々、常に主の言葉にしっかりと留まっているものが本物の弟子なのである。私達はいつも「本物の弟子」としてあだ名を付けられるほどに徹底した信仰的な生き方をして、そのような教会を形成したいと祈り求めている。今こそ救いの日である。アドヴェントを迎え「神に仕える者」として更に信仰の歩みを進めて行きたい。 |