2005年5月15日 聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝説教

「聖霊による教会創設」

使徒言行録2章37〜47節

 
鵜飼 勇(うかい いさむ)
日本基督教団銀座教会名誉牧師
1922年
 銀座教会牧師館に生まれる
1942年
 青山学院高等商業学部卒業
1952年
 日本基督教神学専門学校卒業
 鎌倉教会伝道師就任
1955年
 米国エール大学神学校修士課程修了
 神学修士(S.T.M.)
1956年―1998年
 銀座教会主任教師

1994年

 米国シンプソン大学(アイオワ州)
 より名誉神学博士号(D.D.)
 を受ける
 私達は今日ペンテコステの礼拝を守り、聖霊の導きにより教会が創設された出来事を記念し、「キリストの体」である教会の使命を共に負う思いを新たにし、主の約束された「聖霊」に導かれ、今日まで形成されてきた教会の尊い信仰の遺産を正しく受け継いで歩みたいと願っている。

 最近ローマ法王パウロ二世が亡くなられると、東京のある教会に全然関係の無い近所の方が法王の死を悼んで香典を持ってこられたので、その牧師は大変恐縮なさったことを伺った。また私が現在診て頂いている医師が「先生、ローマ法王が亡くなられて大変ですね」と言われた。このように、この世の人々はカトリック教会もプロテスタント教会も区別なくキリストの教会と考え、法王は全世界に対して「キリストの大使」の様に考えていることを思い知らされた。教会がこの世に存在していることは私達が考えている以上に社会に大きな光を、力を与え、託された使命を果たす責任を問われていることを深く感じ、改めてこの混沌とした時代に私達の教会の使命を確認させられた。今日はプロテスタント教会もカトリック教会も同じようにペンテコステの礼拝を守ります。

 さて、初代教会の信仰者の生活を最も端的に記しているのが使徒言行録で、そこにはクリスチャンになったばかりの人々の喜びがあり、悲しみがあり、人間の弱さ、脆さ、汚点までもあらわに記されている。特に注意を惹かれるのはペトロの最初の説教の直後、人々は「私達はどうしたら良いのでしょうか」と問い、ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と明白に答えたことである。

 信仰者にとって良い説教を聞いて信仰を養われることは大切であるが、説教を聞いて「ああ、よかった」と表面的に理解したり、「これで礼拝の責任を果たした」などと言ったりするのは間違いで、その福音によって自分たちはどう生きて来たか、どう生きることが求められているのか、悔い改めて赦されなければならない罪とは何か、救われるために何をなすべきか、などと真剣に自らの信仰を検証し、悔い改めて福音に相応しく生きる事を学ぶことが大切で、それによって一人一人の信仰は成長し、確立することを心にとめなければならないと思う。また主の恵みによってのみ聖徒の交わりは清められ深められ、教会は形成されて行く。正に初代教会は聖霊の力によって創設され、エルサレムに始まった教会は今や全世界に広められ、今日この日を覚えてペンテコステの礼拝を守っている。聖書は復活した主イエスが使徒たちに向かって「『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』と記している」(使徒言行録1章8節)やがて主が天に上げられ姿が見えなくなると、使徒達は途方に暮れ、今後如何に歩むべきかと婦人たちやイエスの母マリヤ、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、熱心に導きと霊の力の与えられることを祈り求めていた。

 ペンテコステ(五旬節)はユダヤ教の三大祭りの一つでイスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念する祝いの祭りで、過越祭から数えて50日目に当たり、離散していた多くのユダヤ人が世界中からエルサレムに集まって来て主の約束の成就されることを祈り求めていた。ユダヤ教の人々は今日でも旧約聖書に従って主の来臨を待ち望み、エルサレムの嘆きの壁に向かって上からの霊的力が与えられる日を祈りつつ待ち望んでいるのである。

 この日、ペトロは主イエスの事を聞いて導かれるままに声を張り上げて説教し、全地の民に救いの福音を宣べ伝え、地の果てまで伝道しなければならない事を勧めた。二千年前の出来事は全世界に伝えられ、今日では諸教会において主の御名を讃えつつ伝道の使命を果たそうと努めている。また、私達もこの銀座の地においてその使命を共に負いたいと願うのである。

 主イエスの昇天後、エルサレムを離れ霊的孤独感を味わっていた人々にとってペトロの説教はその肺腑を突く鋭い言葉であった。(使徒言行録2章)その最後は「だからイスラエルの全家ははっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシヤとなさったのです」。これを聞いた弟子達はイエスを十字架に追いやった人達の中に自分自身の姿を見出し、大いに心を打たれ「私達はどうすればよいのですか」と自問した。これまでイエスを十字架につけて殺したのは一般のユダヤ人やローマの兵卒たちで、自分たちはその中に数えていなかった。しかしペトロは「あなたがたがイエスを殺したのだ」とはっきり断言し、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば聖霊を受ける」と勧めた。

 洗礼を受けるということは、古い自分を神様に明け渡して清めていただき、神の民としてキリストの恵みの支配下に新しい生き方をさせて頂くことである。その日、洗礼を受けて仲間に加わったのは三千人程であり、彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂く事、祈ることに熱心で、そこに教会が創設されたのである。

 悔い改めると言うことは、自分の心を開いてそこに主を迎え入れることで、全てを主に明け渡してお任せすることである。客を迎えても此処だけは入らないでと、奇麗な部分のみを案内するようでは、主に明け渡すことにならない。全部を主にお任せして、古い自分は死んで、主の恵みによって新しく生かされること。これがクリスチャンとしての悔い改めであり、信仰の第一歩である。今日、洗礼を受けて教会に加わる方々がこの意味で全てを主に明け渡して、新しく主と共に歩み出すことを心に止めて頂きたい。

 「聖霊によらなければ誰もイエスを主と言うことは出来ない」と聖書は記している。代々の教会は聖霊の知恵と力とを与えられて、あらゆる試練と困難を乗り越え、地の果てまで福音を伝える使命を果たして来た。日本の伝道の歴史も迫害の中に「肉体を殺しても魂を殺すことは出来ない者を恐れるな」と。我々は教会を形成してきた信仰の先達の生き方の原型とも言うべきものをここに見出し、その信仰を受け継いで歩みたいと願うのである。

 歴史家ギボンは「ローマ帝国衰亡史」の中で初代教会が激しい迫害に遭いながら非常に早く福音を世界中に広めたのは、クリスチャンが盛んに個人伝道をしたことによる事を指摘し、それは、新たな改心者が主イエスから受けた救いの恵みを家族や友人たちに伝えることが最も尊い使命であると自覚したことによった」と述べている。初代教会の伝道者達はみな主の恵みによって、罪赦されて生まれ変わったクリスチャン達だった。無学な普通の人と呼ばれたペトロはガリラヤの漁師であり、マタイは徴税人であったが、主から受けた恵みを携えて、聖霊に導かれて「イエスは主である」との救いを証し、命懸けで伝道して回った。彼らは厳しい迫害を受けたが、殉教者の血の流される所に記念の教会が建てられ、教育と訓練が行われて教会は段々に確立して今日に至った。銀座教会も同じような歴史を持っている。先達たちはこの都心に教会を建て、福音の宣教に努め、信徒の教育と訓練に努めてきた。今日洗礼を受ける方の中には親、兄弟の信仰を受け継いでいる方々が少なくない。教会が持ち続けてきた地の果てまでも福音を述べ伝える使命を心に確りと受けとめて頂きたい。

 聖書を続けて読んでいくと、ペトロの説教を聞いた人々は「心を打たれ」、文語訳では「その心刺さるるが如し」と訳されている。感動するとか、感じた程度ではない。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる。神の前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ人への手紙4章12節、13節)

 「胸を刺し通す」という訳語は欠くことの出来ない信仰の訓練の鍵であり、厳しい表現である。また、まるで釘が心の中に刺さったように、魂にキリストの十字架が突き刺さって打ちのめされる。そこで古い自分が死んで、主にあって新しく生かされる。そういうキリスト者が初代キリスト者の強さであった。単に反省するのではなく、神の前には立つことが出来なくなり、罪の恐ろしさにおののき、主の贖いによって生き返る、そういうキリスト者が初めて十字架の主の贖いを理解することが出来る。聖霊の助けと神の恵みの取り成しによってのみ赦されて、救いに与る事が出来る。真剣に救いの道を求めて信仰の歩みを進めることによって教会は此の時代に立ち続けるのである。

 旧約聖書の知恵文学の箴言に「心を尽くして主により頼め」と記されている。箴という字は「針の用をする細い竹」を意味していて、昔は治療の為につぼに針を刺した様に、これを戒める格言として神の民が数百年に亙って集め、守って来たものである。特にギリシャ文化の中で喧嘩せず、妥協せず、正しい信仰生活を送る大切な教え、信仰の知恵として重んじられてきた。主を恐れ、その御旨に全く服従することが人生の最上の航海術であることを聖書は教えている。

 このように聖霊降臨日(ペンテコステ)は使徒ペトロの説教によって信仰的な回心に導かれた弟子たちが、全く新しく主の証人として歩み出した記念すべき日なのである。この意味で回心・悔い改めとは一八○度の方向転換をすることで、日毎に恵みを受け、感謝しつつ主に仕えて歩む事を許される大切な日である。

 以前一度お話した本で、戦後のベストセラーの一冊に笠信太郎氏の「ものの見かた」という本がある。国際連盟事務局長であったスペインの外交官、マドリヤーガ氏が「祖国を思う名著」と評したと言われる興味ある一冊である。彼は言う「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で歩き出す。そしてスペイン人は走ってしまってから考える」と。それに加えて「ドイツ人は何処かフランス人に似ていて、考えた後で歩き出すとともに、歩きだしたらもう考えない」とも言っている。私はそれを読んで、信仰者の在り方について深く考えさせられた。

 ドイツ人は一度走りだしたら考えようとしないと笠氏は言うが、キリスト者の中にも一度洗礼を受けて信仰の道を歩きだしたらもう天国は約束されているから余り考えること、深く学ぶこともしない所謂「卒業信者」になる人が少なくない。そうなっては困る。

 この五月二四日はジョン・ウェスレーが回心して英国国教会の中に信仰復興運動を始めた記念日である。彼らは英国教会で聖書が読まれない、社会は乱れ喧騒に満ちているその中で時を定めて聖書を共に読み、祈りを合わせ、聖い生活を送るために常に励まし合い、もし御旨に叶わないことがあれば、互いにそれを指摘して戒め合っていた。世の人々は「あれはメソジスト(几帳面屋)だ」とあだ名を付け、蔑んでいた。このメソジストと呼ばれる人々の信仰復興運動が遼原の火の様に燃え上がり英国全土に広まって行った。同じ頃ドーバー海峡を越えたフランスではルイ王朝の流血の革命が起こっていたが、英国は革命を経ないで近代に至った。彼らの聖い、互いに励まし合う生活が英国を変えたと言われている。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい」(コロサイ3章16節) 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(マタイ一八章一五節)とあります。信仰の友に忠告をした経験をお持ちでしょうか。教会は決して完全な人ばかりの集まりではありません。弱い、脆い私達は、いつも主の助けと、信仰の友の祈りと愛による忠告と慰めがなければ、強く生きることが出来ないのです。

 わたしは昨年のクリスマス礼拝の説教の折、喉の調子が悪く、体調が整わず、これで説教が出来るだろうかと躊躇していたとき、家内から「あなたは信仰が在るのですか。神様が力を下さいます。」と強く言われ、思い直して講壇に立った。祈りつつ講壇から会衆の顔を見回して原稿に目を向けた時、全く不思議なことにあの一言に押し出され、言葉が湧き出るように語ることが出来た。後であの説教は自分がしたと言うより、御言葉に励まされて、導きを頂いて責任を果たすことが出来たと実感し、改めて主の導きを感謝した。

 ペトロの説教を聞いて「この曲がった時代から救い出されなさい」という言葉を受け入れた人々は「ひたすら使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンをさき(聖餐)、祈りをしていた」のが初代の教会生活の姿で、こうしてすべての人々に「畏れの念」が生じた。「畏れの念」を失っては力を失います。惰性的な教会生活はサタンの絶好の餌食となるのです。聖霊を受けた教会の素晴らしい面が沢山聖書に記されている。然し他方、人間的な弱さや躓きも明らかに述べられている。もう遅すぎる事はない。今日という日のうちに悔い改めなさい。清められ,強められて出発する日がペンテコステであり、またウェスレーの回心記念日に近い時に、その信仰の遺産を継ぐ銀座教会にとっては信仰の姿勢を正す最も相応しい良い機会ではないでしょうか。

 教会はこの世の罪や悪の力が激しく攻撃をする標的の一つで、バニャンの「天路歴程」の最後の部分、すなわち「天国の入り口」は悪魔の攻撃の最後のチャンスであることが良く描かれている。真剣に教会生活を進めようとする時、蛇の様に賢く誘う声が聞こえてくる。然し、教会はそのような闘いをする人々が御言葉によって訓練され、救い主の力によって支配され、誘惑と闘いつつ生かされる聖所である。

「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブライ人への手紙12章28節)

 主の日を待ち望み、魂の故郷に永遠の憩いを与えられる日まで御言葉を学び、祈りつつ信仰の歩みを共に進めたいと切に願うのである。




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