2001年9月9日 敬老祝福礼拝
「天国のたとえ」
マタイによる福音書25章1-13節

鵜飼 勇(うかい いさむ)
日本基督教団銀座教会名誉牧師
1922年
 銀座教会牧師館に生まれる
1942年
 青山学院高等商業学部卒業
1952年
 日本基督教神学専門学校卒業
 鎌倉教会伝道師就任
1955年
 米国エール大学神学校修士課程修了
 神学修士(S.T.M.)
1956年―1998年
 銀座教会主任教師

1994年

 米国シンプソン大学(アイオワ州)
 より名誉神学博士号(D.D.)
 を受ける

 敬老の日の礼拝を共に守ることが出来て感謝である。18名の方が新しく杖友に加わ り、また喜寿11名、米寿4名と長寿の方々の喜びも加え、杖友会は232名で教会員のお よそ1/3となる。正に高齢者の教会である。私も昨日79歳の誕生日を迎えた。感謝で ある。

さて、数年前の「杖友」に「『杖友』適齢期を迎え、人生の最終局面の少し手前、 杖友時代(これが結構長いようです)の生き方について自由に考えてみたい…どんなに 年をとっても、会いたい人がいること。これは私にとって『イエス様に他ならない』」 とあった。「天国のたとえ」によって信仰の課題を共に学びたいと思う。  「天国のたとえ」は「だから、目を覚ましていなさい」と結ばれているが、これは 私達に大切な問題を提起し、全ては神が知り給うというメッセージと共に、この地上 に許される日の間、どのような信仰の姿勢で歩むべきかについて厳粛に問いかけてい る。  

  ユダヤでは10人が共に生活する時は集会の為に会堂を建てる定めになっていたとの こと。そしてこの会堂に花婿メシア(キリスト)を迎える準備の為に選ばれた10人の 乙女たち、ある者は賢く、ある者は愚かである。10人の思慮深い乙女と、思慮浅い乙 女とが人生の機会に対応する様子が巧みに描かれていて暗示的である。賢いものはメ シアの来臨を信じて常に準備し、愚かな者は信じないでこの世の生活を続けていた。 しかし、前者は約束通り喜び迎え、後者は天国の饗宴に加わる幸いを失ったというの である。人生には計画どおりに行かない。予定通り花婿は来なかった。夜は更けて10 人とも皆眠ってしまった! 夜半になって花婿が着いた。皆で迎えに出た時、賢い乙女 は灯を灯して迎え、思慮の浅い乙女は灯りが消えかかったので、思慮深い乙女に油を 分けてくださいと頼んだが「私たちとあなたがたとには足りないでしょう」と言わ れ、思慮の浅い乙女が油を買いに行っている間に婚宴の部屋の戸が閉められてしまっ た。後で「どうぞ、開けてください」と言ったが「私はあなたがたを知らない」と主 人は答えた。その後で「だから、目をさましていなさい」との声が聞こえる。簡単な 筋であるが信仰者には警告に満ちた福音と言うことが出来よう。「神の国が近い。 その日、その時は誰も知らない。ただ父だけが知っておられる。気をつけて目をさま していなさい。その時がいつであるか、あなたがたには分からないからである」 (マルコ13・33)。ただ思慮深い乙女は大きな喜びの日のために、灯りと共に壷の中に 油の用意をしていたのである。その時は何時か私達には分からない。それは今日であ るかもしれない。キリスト者として持つべき信仰の姿勢は、その時を今か今かと神経 質になって待つのでなく、現在なすべきことに全力を尽くして祈りつつその日の業に 励むことではなかろうか。  

  目を覚ましているということ。待っている間に賢い乙女たちも、愚かな乙女たちも 皆眠ってしまった。しかし、主イエスは教えを続けられる。「少し休みなさい」と呼 び掛けられる主は人々に休養の必要なことをご存じなのである。我々は一日中働き、 祈り続けることは出来ない。主の約束は必ず成就すると信じて、その時を待つ賢い乙 女たち!主を待望しつつ静かに横になっているのは、神に信頼する弟子の印だと言わ れる。賢い乙女たちはその時のために「それぞれのともし火と共に壷に油を入れて 持っていた」のである。詩編に「見よ、イスラエルを守るものは、まどろむこともな く、眠ることもない」(詩121・4)とあるが、大切な信仰の基盤である。

 その用意されていた油とは何か。キリスト者が主の来臨に備える祈りであり、信仰 の呼吸としての祈りである。主の祈りは日毎に新しく捧げられなければならない。祈 りの生活の油も尽きそうになったり、信仰生活が闇に閉ざされる時もあろう。しかし 蓄えられた油が尽きるのは、よく考えてみると御言葉に聞き、祈る時間よりテレビや 新聞など、この世のニユースに気を惹かれ、いつの間にか単調な電報のような祈りを している。ある先生は主の祈りの中の個々の祈願を祈る場合、ただ抽象的に祈るので はなく、自分自身に当てはめて祈る事が大切である。例えば我らの罪を赦し給えと祈 る時「わたしが再三肉の欲に引きずられたことをお赦し下さい…道端に倒れている人 を見ながら向こう側の通行人になってしまいました。あなたの教えから離れたことを お赦し下さい。わたしの嫉妬と名誉欲をお赦し下さいと詳しく述べる。こうすること によって、祈りは生き生きしたものになる」と述べられた。この意味で毎日の生活の 中に静かな祈りの時を真剣に戦い取ることによって油は絶えることなく、希望に満ち たキリスト者であり続けることが出来るのである。この意味で祈りはキリスト者が目 覚めていることの印である。

 人生の危機に対応することの出来る備えを日常生活の中で私達は確りとしているで あろうか?信仰は借り物では役に立たない。信仰者は「我らの国籍は天にあり」と信 じている。主イエスはそのご生涯の終わり(十字架)が近づくにつれて、繰り返して 弟子たちに「目を覚ましていなさい」と教えられた。ゲッセマネの園でも「わたしと 共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われた。その響きは初代教会にも受け継 がれ、使徒パウロもペトロも「目をさましていなさい」と繰り返して教えている。ま だ大丈夫ということは、信仰の自己免許に過ぎない。信仰の油は決して他人から借り ることは出来ない。主御自身からしか頂けないのである。

 この譬えの中心的メッセージは我々は人生の決定的瞬間にどのようにして備えてい るかということである。神の国は必ずやってくる。祈りつつ、主に任せて祈り続ける ことによってこそ信仰生活に勝利が与えられるのである。他の何物に乏しくとも信仰 の油は豊かに蓄えたいものである。霊的緊張を欠いた生活は禁物である。

 先日、奥田先生をお見舞いしたおり、会いたいのは「ジーザス・クライスト」と一 言仰ったと伺った。またある婦人をホスピスに見舞った折、明るい顔で「先生、今度 は天国でお会しましょう!」と静かに囁かれたこ とが忘れられない。キリストの再臨を信じる者として「目を覚まして」共々に主の御 前に立つ日に備えたい。



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