2004年8月1日 第40回教会全体修養会・主日礼拝説教
「永遠の命の言葉」

ヨハネによる福音書6章60〜70節

鵜飼 勇(うかい いさむ)
日本基督教団銀座教会名誉牧師
1922年
 銀座教会牧師館に生まれる
1942年
 青山学院高等商業学部卒業
1952年
 日本基督教神学専門学校卒業
 鎌倉教会伝道師就任
1955年
 米国エール大学神学校修士課程修了
 神学修士(S.T.M.)
1956年―1998年
 銀座教会主任教師

1994年

 米国シンプソン大学(アイオワ州)
 より名誉神学博士号(D.D.)
 を受ける
 日本基督教団の信仰告白が制定されましてから50年、色々な戦いがあり困難がありましたけれども、主に導かれて、教団がこの信仰告白に立ち続けることが出来るということはまことに感謝でございます。同時に、教会全体修養会は第40回目にあたります。今日こうして教会で、修養会を覚えながらなかなか遠くへ行かれない方も共に、80歳、90歳に近い方も一緒に、神の家族として礼拝を守り、聖餐に与り、礼拝後も修養会を共にすることが出来ますことはまことに感謝でございます。

 「銀座の鐘」にも記しましたが、その当時、教会の中の色々な団体がそれぞれの計画に従って修養会を開き、生活を共にし交わりを深めて参りました。三井牧師の急逝によって非常に大きな責任を与えられました私は、教会が本当に一つの教会としてこの地に立ち続けるために、神の家族として一つの修養会を持つことが出来ないだろうかと提案を致しました。誇り高い学生達は「青年会と一緒に修養会が出来れば今世紀の奇跡だ」と宣言、なかなか皆の意見をまとめることは困難でありました。しかしなんとか話し合いを重ねて、40年前の1965年8月、第1回の教会全体修養会が実現しました。池袋西教会の福井二郎先生を講師としてお迎えし「福音にふさわしく日を過ごせ」とのテーマで、軽井沢の東洋英和追分寮に90余名が集まり2泊3日の修養会をしたのでございます。当時はまだ碓氷峠が電気化されていませんで、いわゆる蒸気機関車が前と後ろについて列車を引いておりました。あの10幾つのトンネルが来る度に窓を降ろして、また窓を開けて、やっとの思いで旅をして、山の冷たい水で煤だらけの顔を洗ったその清々しさ。横川駅の峠の釜飯も懐かしい思い出の一つであります。その1回目の名簿が出て参りました。九十余名の方々のお名前を拝見しますと、その内の30余名が既に天に召されました。しかし一方、20余名が、今日この第40回の修養会に出席をしていらっしゃいます。他の教会に移って信仰生活を続けている方も少なくありません。40年前、私も若かったのですが、当時の若い青年も家庭を持ち、そのお子さん達が信仰の跡継ぎとして育ってきていることはまことに感謝でございます。

 私はこの第一回修養会の時、今は亡き伝道委員長でありました井戸さんと、朝早く森の中で祈りました。「この修養会が、神の家族としての教会を形成する基となることが出来ますように。教会が一つとなって、銀座の地において託された使命を果たすことが出来ますように。どうぞ一人一人を育て導いて下さるように…」。静かな朝の祈りは、思い起こすと今も心にじーんと響くものがございます。心配しておりました百名近い方々の共同生活も何の事故もなく、福井二郎先生のご指導によって「福音にふさわしく生活をする、日を過ごす。ただ日を過ごすのではなくて、神の国の市民として、その使命ある、責任ある、日ごとの歩みを進めていく」との思いを定めて、第1回目の修養会が無事に終わったのであります。

 その修養会が今日まで40回、委員は日曜日毎に準備に追われ、交通手段その他も便利にはなって参りましたけれどもなお人数を整えるということは大変なことでありました。しかし、日曜日の朝の1、2時間を共にし、1週間が経ってまた「こんにちは」ではなくて、修養会で朝から夜まで一緒に生活をする、喜びを分かつ、祈りを合わせる。教会という信仰共同体を形成する非常に貴重な機会であったと私は思い、これからもこの教会がここに立ち続けるためには、その信仰における一致がなければならないと思っているのであります。

 ある年のハンドブックに、私は次のような言葉を記しました。『修養という言葉は我々日本人になにか特別の感を与える。特性をみがき、人格を高めると辞書にある。修養し胆力を鍛錬し、喜怒哀楽の情を抑え、身を責め欲を制するというような、凡人には出来ないことをするために山にこもる! このような考え方が教会の中にも、いつの間にか入ってきてはいないだろうか? 内村鑑三先生は「キリスト教の修養とは、そんな不自然なものではない。修養と称して聖人君子となることではなくて、あたりまえの人になることである」と言われる。…慌ただしい社会、こわれた世界にいて不自然にゆがんでしまった信仰生活を点検し、ごくあたりまえのクリスチャンとしての生活を整えることが修養会だ…』と。「修養会? いや、私はもう大丈夫」ではなくて、心すべき大事な点ではないかと思うのでございます。

 さて、このことを心に留めながら私はあらためて、新約聖書ヨハネによる福音書6章、主が5つのパンと2匹の魚でおよそ五千人の人々を養われたという出来事を読み直しました。カファルナウムの会堂で、ついて来る人々に「命のパン」について教えられ「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と主がおっしゃった、そのことをあらためて示されるのでございます。教会において共に聖餐に与りました神の家族の交わりは非常に重い意味がございます。今朝も共に聖餐に与りますが、このパンとぶどう酒のことを心に留めますと、主の御言葉がハッキリしてくるのではないでしょうか。御自分の命を、世の救いのために十字架に捧げる「命のパン」だと言われる主イエスの言葉を聞いて、弟子たちの多くは「実にひどい言葉だ」と言って主のもとを離れ去り「もはやイエスと共に歩まなくなった」と記されております。信仰の大事な養いである命のパンとぶどう酒とが軽んじられる。「だれがこんな話を聞いていられようか」とつぶやき、イエスから離れて行こうとする。そして驚くべき言葉は、そういう大事な教えをなさった後でイエスが、残った12人の弟子に向かって「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたというのであります。ある人は「まさか君たちまで行ってしまうつもりではあるまいね」と訳しております。まさか君が、この交わりから離れていく、そんなつもりはないだろうね。このような言葉を弟子に向かっておっしゃることは、主イエスにはどんなに悲痛なことであったでありましょう! それを聞いて弟子の一人のシモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と答えます。これこそ、ペトロが代表して表明した信仰の決断の表れであり、まさに信仰の告白でございます。

 しかし聖書は「12人の1人でありながら、その1人が主を裏切ろうとしている」と主が言われたと記します。実に恐ろしい指摘であります。ドイツの聖書学者アルブレヒト・ベンゲルは、福音書の注解書を書きながら、この部分でふと筆を置いて、「主イエスよ、あなたのどんな言葉にも苛立つことがありませんよう、わたしを支えてください」と祈ってペンを続けたというのであります。主イエスは今も、教会に集まっている人々に「まさか君たちも行ってしまうつもりではあるまいね」と問われているのではないでしょうか。先程申しましたが、40年前に共に神の家族として生活をしたその中で、既に主のみもとに召された30余名の他に、20余名の方々が今も同じように神の家族として共に主を讃え、今日も共に主の聖餐に与ろうとしておられます。主の周りにいた弟子達におっしゃった時と同じように「まさか君たちも行ってしまうつもりではあるまいね」と、主は今日も私達一人一人に問いかけられているのではないでしょうか。

 1917年の「聖書の研究」に、内村鑑三先生は『このことは決して単なる古き物語ではない。教会の名簿に記されたる信者の数のみをもってしても決して少なくない。しかしながら、それらの多数の信者中、今日真にイエスを信じて世の前にはばかるところなく「われはイエスの僕なり」と表白し得る者は、はたして何人あるであろうか。多くの人がイエスを信じたが、また多くの人が彼を捨てたのである』と記されました。名前は残っているけれども、教会の交わりから離れていった人も少なくないのであります。聖書は記し、主イエスは警告されたのであります。

 また、私の親しい友人であります前国際基督教大学教授の古屋安雄先生も、最近の著書「日本のキリスト教」で『わが国に多い、いわゆる「卒業信者」は、受洗後まもなく教会に行かなくなる。これはその人々が自称する便利な言葉で、信仰の平均寿命は2.8年という統計もある』と指摘しておられます。まさかと思われるかもしれませんが、まことに悲しい現実であります。日本の国の伝道が進んでも進んでも、教会が、強く、伝道に、教会形成に、そして地の果てまでも福音を宣べ伝えよという主のご委託に、本当の意味で応えることが出来ない現実であります。あらためて私は、主が我々にも同じように「まさか君たちまで行ってしまうつもりではあるまいね」と問われるその声を、真剣に聞かなければと思うのであります。自らの信仰をあらためて省み、心から主に祈り求めます。「主よ、死に至るまで信仰を持ち続け、仕え、服従し、礼拝し、賛美を続けさせて下さい。死を超えて栄光に至るまで」。

 主のみもとに立つ日まで、私達は、この「命のパン」をいただき、主の霊に導かれ、潔められ、この世の旅路の終わりまで、神の家族として、共に歩んで参りたいと思います。教会全体修養会が一人一人の心の内に知恵と力と命を与え、信仰の姿勢を持ち続けたいと思うのであります。銀座教会にとって最も重大な課題は「教会に加えられた一人一人の信仰生活は現在どうなっているだろうか?」ということであります。信仰告白について「学ぶ」のではなく、「真に信仰告白にふさわしく生きる」ことが、我々の責任ではないでしょうか。主の聖餐に与る時、真剣に自らの信仰の姿勢を問い、主に従う思いを正していきたいと願うのであります。祈りましょう。





 



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