2004年10月10日 神学校日・伝道者献身奨励日礼拝説教

「教会の祈り」

エフェソの信徒への手紙1章15〜23節

鵜飼 勇(うかい いさむ)
日本基督教団銀座教会名誉牧師
1922年
 銀座教会牧師館に生まれる
1942年
 青山学院高等商業学部卒業
1952年
 日本基督教神学専門学校卒業
 鎌倉教会伝道師就任
1955年
 米国エール大学神学校修士課程修了
 神学修士(S.T.M.)
1956年―1998年
 銀座教会主任教師

1994年

 米国シンプソン大学(アイオワ州)
 より名誉神学博士号(D.D.)
 を受ける
 「祈りは信仰の呼吸である」と言われる。御言葉の糧をいただいている教会、日毎に祈りつつ聖書を読み、誠実な生活を進めている信仰者に信仰の歓びと確信とが溢れて来ないのは何故であろうか。現代の教会の信仰診断をすると「呼吸不全」という余り聞き慣れない病名が付くのではなかろうか。英国の神学者フォーサイスの記した『祈りの精神』(一九一六) に「全ての宗教は祈りにおいて試みられ、内容が測られる。宗教的であるということは祈りを重んじることであり、宗教的でないという事は祈りの不能を意味する」とある。彼は「今日の教会がこの世に説得力をもって罪を語れず、それ故に悔い改めにも導けず、希望も喜びも生きる意味も示すことが出来ないとするなら、それは自らが福音によって変え続けられる祈りの欠乏によるものではないか」と説いている。

 さて、今日のテキストは使徒パウロが遺言のようにエフェソの教会に書き送った「獄中書簡」と呼ばれる手紙の一つで、特に異教の町の伝道を始めた教会の為に、パウロは託された使命を果たすように熱心に祈ったのである。この祈りは現代の銀座教会の為にも捧げられていると思われる。

 彼は祈りの度ごとにエフェソの教会を思い起こして絶えず感謝している。教会の背後には伝道者の祈りがあり、信仰の友の祈りがあり、主にある諸教会の祈りが何時も捧げられている。

 @「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」(一七節)  

 わたしたちの教会は果たして「神を深く知る」ために真剣に祈っているであろうか。信仰に入った時に比べて、信仰の知恵は増し加えられたか?神に就いて正しく理解せず、此の世の知恵や浅薄な聖書の理解、孫引きでは到底サタンの誘惑に打ち勝つことはできない。「残念ながら、信仰については誠に寛容で、神についての教えや神への忠誠心など、明確な区別をしていないのである」。『日本語をさかのぼる』(岩波新書大野晋著、参照)教会は正しく神について教える責任がある。洗礼を受ける時には一応の理解をしても、それ以上深く求めて、自ら聖書を学ぶ方は必ずしも多くないのが実情である。神について、救いについて聖書はどう記しているかを明確に理解しているか。パウロの祈りについて、真剣に聖書を学び続け、信仰生活の姿勢を正しく整えることが大切である。

 一人ひとりの信仰者として原点に立ち返り、神を一層深く知ることに務めよう。誠実な礼拝者であるか、聖書の真理に堅く立っているか、祈りの生活を日毎に共に続けているかなどに思いを馳せる事によって、教会形成の課題を共有することができるのである。

 A「心の目を開いてくださるように」(一八節)  

 「老人に眼鏡が必要なように、聖書という眼鏡をかけなければ、人間には神のことが分からない」と言われる。わたしたちが想像して気紛れから編み出す理論や、空疎な思想ではない。神御自身が自らの啓示によってわたしたちの中に創造される知識と確信は、人間の感覚や努力によって得られるのではなく、主の霊を通して分け与えられる。わたしたちが神を知ることができるのは、身体の目を通してではなく、心の目すなわち内なる人に与えられる御言葉によってである。即ち主の御言葉が内なる人に注がれ、愛と恵みとが与えられ、そこで神のご計画(摂理)を理解することができるようになるのである。パウロは神が教会の人々の内なる目に主の光を送り照らして下さるように祈り求めている。われわれクリスチャンの交わりは、年とともに深められ、友の信仰の証しを通して励まされ、慰められて親しくなるように、神との交わりも信仰の目を開かれることによって確信を与えられ強くされるのである。

 教会では様々な働きがなされている。総会で選ばれた役員をはじめ、組会のために奉仕する組長その他、訪問担当、週報発送担当、各委員会の委員、基礎集団の責任者,聖歌隊、教会学校教師など十指に余る諸活動が活発に進められている。しかし、信仰者は教会の中で奉仕するのみではない。日常の生活の場でキリスト者として御言葉によって目を開かれて福音に相応しく生きる使命を果たすことができるのである。これが伝道である。キリストの身体としての教会が立てられる為に、神は全ての人を必要とされ、その一人が欠けることは教会の痛みであり、一人一人は掛け替えのない存在である。この意味で全ての会員に神の栄光に与るに相応しい生き方が求められる。牧師として心から祈り求めることはキリスト者一人一人の「心の目が開かれて」豊かに与えられた命を主の栄光の為に捧げて、やがて御國の民に加えられる日を待ち望み、祈りつつ信仰の旅路を終わりまで歩み続ける事にある。

 B「わたしたち信仰者に対して絶大な働きなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(一九節)     

 神は独り子主イエス・キリストを世に下さる程に全力を傾けて救いの道を示された。信仰の目を以て見るならば、信仰者の為に神は力強い助け手を備えていてくださった。主イエスにおいてこそ神の強さ,即ち死にうち勝つ復活の約束が明らかに示されるのである。イスラエルの人々はエルサレムの神殿が存在し、礼拝が行われ、ダビデの王座が保持されている間は神の守りがある印として安心していたが、他民族の襲来によって国家が崩壊したことによって目を覚まされたと旧約聖書の歴史は教えている。内面的、霊的な希望の根拠は何であるかを彼らはその経験を通して教えられ,信仰を試された。

 バブルの崩壊、社会情勢の変化によって教会は現在一つの危機に直面しているが、私はこの時こそ、主から託された使命を果たすために神の力がどれほど大きなものであるかを悟らせて頂く機会であると思っている。それ故、祈りを合わせ、教会の使命について、伝道について信仰的問題と取り組み、正しい解決の与えられるのを待たなければならないのである。

 二二年前の会堂建設の時代を思い起こしていただきたい。旧会堂が老朽化し、建て直しを建設省から勧告され、他方一階の銀行について様々な考え方があり、建設委員会を改組し検討しなおさなければならなかった時、教会を挙げて祈りを合わせた。ある意味では大きな厚い壁に直面したように思われた。「百年史」を開いて当時の情況を見ると、「奇跡的に」と言っても過言ではない豊かな恵みを頂いて献堂の喜びと感謝とを共にしたのである。人の思いに優る神の恵みの豊かさと大いなる力を頂いたことが記されている。

 現在銀座教会として正に祈りの最も必要な時であり、神の大いなる力を悟らせて頂くことによって、困難な課題を解決する希望を与えられると信じている。百年余の歴史を導かれた主は必ずやこの地の伝道の使命を果たすために必要な力と知恵とを与えて下さるであろう。その為にも熱心に祈り求めよう。



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