「与うるは受くるよりも幸いなり」
                   使徒言行録20章35節(文語訳)













 

日本の社会福祉に生涯を捧げたバット博士−

  メソジスト教会は、ウェスレー以来の伝統を受け継ぎ、日本に於いても貧困や病苦に悩む人々に対する福祉事業に熱心に取り組んだ。

 カナダメソジスト教会は、教会の形成と並行して、下谷、江東地区など主として東京の東部にいくつかの施設を開き、乳幼児保育、通学できない児童の教育、母親たちの経済自立のための授産所、今日でいうホームレスのための仮宿泊施設や無料診療、さらには婦人ミッションによる売春街から逃れた女性たちの救済施設などを次々と展開した。これらは東京東部ミッションという組織に統括されていった。

 G. アーネスト バット宣教師は1892(明治25)年カナダの熱心なメソジスト信徒の家庭に生まれ、献身して牧師を志し、また第一次大戦に一兵士として従軍して戦火の下での民衆の苦しみを目のあたりにしたことから、社会事業に深い関心を抱いた。彼は1921(大正11)年日本への宣教を志願してカナダメソジスト教会宣教師として来日、甲府の基督教青年会館、東京の中央会堂( 現在の日本基督教団本郷中央教会)などで宣教師として仕えるかたわら東京東部ミッションの活動に熱心に奉仕した。

 1932(昭和7)年には、カナダミッションにアメリカのメソジストミッションも加わって東京メソジスト社会事業連盟が組織され、バット師はその中心となって働いた。当時、市民に広く呼びかけて古着や中古用品の献品を募る「愛隣袋」運動が行われていたが、バット師はカナダの母教会から贈られたオートバイを自ら駆ってこの愛隣袋の集配にあたり、また深夜まで働く施設の職員を自宅へ送り届けるなど、常に率先し一身を捧げて奉仕にあたられたという。

 やがて日本は戦争の時代に突入、日本を愛するバット師は最後まで日本に踏みとどまることを望んだが果たされず、やむなく交換船でカナダに帰国した。カナダに於いても対日感情の緩和のために働き、また日系人の保護活動を続けた。トロント大学は1943(昭和18)年、彼に神学博士号を贈った。

 戦争が終わると、アメリカとカナダの教会はアジア救済活動に動き出し、カトリックや多くの教派、団体を含めた教会世界奉仕団が組織された。バット博士はその代表の一人として1946(昭和21)年に再来日し、戦後の学校給食などでおなじみのララ物資*の北米側公式代表として、救援物資の適切公正な配分のために日本全国を飛び廻るかたわら、戦争で壊滅した東京東部の諸施設の復旧に心血を注いだ。その過労のゆえか、1952(昭和27)年脳溢血のため60才で日本の地で天に召された。

 博士を記念して、教会関係者のみならず厚生省、全国社会事業団体も加わって「バット博士記念基金」の募集が行われ、これを基にバット博士記念ホームが世田谷に設立され、その後町田市に移されて博士の志が今日も受け継がれている。

*アジア救済公認団体 Licensed Agencies for Relief in Asia の頭
文字をとってLARAと呼ばれた
戦後最大の民間ベースの救援物資活動。


ララ委員会でのバット博士(右端)
到着したララ物資第一号とバット博士
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