野にひびく恵みの福音













 

野外説教とメソジスト会の形成−

  この頃、ウェスレーはホーリークラブ時代からの旧友G.ホイットフィールドと再会する。ホイットフィールドは名説教家であったが一部の国教会から会堂での説教を締め出され、やむを得ず野外説教を試みて大勢の聴衆を集めていた。ホイットフィールドは再びアメリカ伝道に出発するため、その野外説教をウェスレーに継いで欲しいと要請した。

 ウェスレー自身も同じころ国教会での説教を締め出されていたが、もともと誠実で秩序を重んじる彼は当初は教会の外での説教には大きなためらいを覚えていた。しかしまた、聖書に忠実であろうとしたウェスレーは、山の上や湖畔で人々に説教された主イエスに倣おうと、この試みに加わることをあえて決断した。

 ブリストルの街で始められたウェスレーの野外説教は、毎回数千人の熱狂的な聴衆に迎えられた。それは農業社会から工業社会への移行期にあった当時の英国で、故郷の農村から切離されて工業労働者や炭鉱労働者として都会に流れ込んだ人々は、故郷の教会からも切離され、魂のより処を失っていたからであった。彼らにとって都会の国教会は高い身分の人たちの教会であって敷居が高く、説教者自らがそこへ訪れて野外で開かれる説教集会はまさに心に沁みる何物にも換え難い恵みの福音だったからである。

 ウェスレーは各地に野外説教の輪を拡げ、その日暮らしで荒んで行く人々の心に再び信仰の灯をともし、生活の規律改善を指導して歩いた。こうして地域ごとにメソジスト会(ソサエティー)という組織が作られて行った。

 しかしウェスレーは、これらの活動を決して国教会の外の活動とは思わず、あくまで国教会の中の一つの信徒運動として捉えており、学びと交わりはメソジスト会で行っても聖礼典は国教会で受けるよう人々に奨めた。しかし現実には貧しい人々はなかなか都会の国教会には入れず、やむを得ず司祭の資格を持つウェスレーたちホーリークラブのメンバーが各メソジスト会で聖礼典を執行することもまれではなかった。


父サミュエルの墓上説教
1790年当時のブリストルの
Kingswood Schoolの銅版画
前へ



All Rights Reserved, Copyright Ginza Church.1999-2004.