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銀座の鐘

「主の再臨を待つ信仰」

説教集

更新日:2021年11月28日

2021年11月28日(日)待降節第1主日 家庭礼拝 協力牧師 近藤勝彦

フィリピの信徒への手紙3章20~4章1節

 待降節、アドベントの第一主日礼拝を迎えました。アドベントは「到来」という意味で、イエス・キリストが来臨されるのを待つときです。主イエスはすでに来られた方であり、十字架につけられ復活し、そして復活者として現在すでに私たちに来臨し、共にいて下さいます。主イエスは復活された方として今朝も私たちに来臨してくださっていますが、同時に世の終わりに目に見える形で再び来られるという再臨の約束をなさいました。そこで待降節には、クリスマスの主の誕生による来臨を思い起こすと共に、キリストの再臨を待つことが求められます。お読みいただいた聖書の箇所は、パウロが牢獄に捉えられたとき、彼の身を案じて援助の手を差し伸べたフィリピの人々に当てた手紙です。彼らは心細さと不安に陥っていました。その人々に対しパウロが逆に獄中から慰めの言葉を記しました。「わたしたちの本国は天にあります」という言葉がその慰めの言葉です。キリスト者は、地上の人生を歩んでいますが、本国を天に持つ者として歩んでいると言うのです。今朝注目したいのは、続いて記された御言葉です。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」とあります。神の国の民とされて、主イエス・キリストがそこから再び来られるのを待っている。それがキリスト者だというのです。
パウロが今いる牢獄の中は、希望のない場所です。牢獄は将来が広々と広がっていると言えない閉ざされた環境であり、人が孤独にされる場所です。パウロは実際、この牢獄が自分の最後の場所で、ここで殉教の死をもって人生を終える、その可能性が大きいことを覚悟していたようです。この立場に立てば誰でも、「待つ」と言えば、自分の死を待つ以外のことは何もないと思うでしょう。私たちの人生には獄に捉えられるのでなくとも、死を待つばかりの状態になる時があるものです。私も高齢になってきました。人生百年と言えば、まだ将来は暫しあるとも言えますが、しかし将来は次第に狭まって見えます。高齢の方々の中には、あと何回礼拝に出られるかという思いで、礼拝に出席している方もおられるのではないでしょうか。それだけ真剣な礼拝とも言えますが、しかし主にあっては、死を待つだけといった思いになってはならないでしょう。主にあっては、待っているのは死でなく、天の本国からキリストが来られることです。パウロが獄中で死を目前にしながら「私たちはキリストの来臨を待っている」と言ったとおりです。自分一人のことでなく、「私たちは」と言っています。キリスト者は本国を共有して共に生きる者たちです。そして、主を待つことは、今日の私たちのあり方、生き方を変えます。
ですから、今朝の御言葉によれば、自分は死を待つだけと言ってはならない。自分の死で将来が閉ざされていると思ってはなりません。私たちは皆ともに復活者キリストの来臨を待ち、終りの時の主の再臨を待っています。どんな時にも死ではなく、キリストの来臨を待つ者です。そこから、将来が広々と広がっています。本国である神の国が広がっています。
イエス・キリストの再臨を待つことは、「救い主」を待つことです。キリストの再臨は、神の国と神の義をもたらす審判者の来臨として聖書に描かれます。しかし審判者である主イエスが私たちのために十字架につけられ、私たちに代って裁きを受けました。それによって主イエス・キリストの再臨は、私たちの罪過や重荷を負ってくださった「救い主」の来臨に変えられました。キリストの再臨は、救い主の来臨により救いが完成されるときになりました。そういう救いの完成としての将来が私たちはあると言うのです。
キリストの再臨による救いの完成とはどういうものでしょうか。このことを今朝の聖書は伝えています。それが 21 節です。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」と言われています。
キリストは今、復活された方として、また神の右の座に就かれた方として「万物を支配下に置くことさえできる力」を保持しておられます。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずく」(フィリピ2・10) と言われ、キリストは「天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・1 8)とも言われます。キリストに起きた復活と昇天が、この権能、神的な力を持 っていると言われる根拠です。その神の力によって、主キリストは再臨の時、私 たちの「卑しい体」を御自身の栄光ある体と同じ形に変えてくださると言うので す。それが救いの完成です。
私たちの「卑しい体」と言われているのは、肉体をさげすんでいるわけではありません。そうでなく「卑しい」と言うのは、死を免れられない意味で、弱さと困窮の中にある体のことを言い、私たちの現実を語っています。「体」はただ肉体だけでなく、私たちの現在の生のすべてを言い表していると語っている人もいます。繰り返し言いますと、この時パウロは牢獄にいました。その中でたとえ肉体は牢獄にあっても、心と精神は自由だと、パウロは語りませんでした。パウロが語る救いは心の問題だけではないからです。心だけの救いでよいのであれば、神の御子は人として肉体をとって誕生する必要はなかったでしょう。まして十字架に架かり、復活する必要もなかったでしょう。栄光の体を持って来臨する必要もないでしょう。悟ればよいだけの話です。しかし救いは心だけの問題でなく、精神のあり様といった程度のことではありません。そうでなく、この体、弱く困窮しているこの体が、主キリストの栄光の体と同じ形に変えられる、そのとき私たちの身も心も含めてその全体が、そして私一人だけでなく、「わたしたちの」と言われるように「私と共にある者たち」の救いを含めて、私たちの生全体が救いに入れられ、生全体が、キリストの栄光の体に似た形に変えられるのです。「わたしちの卑しい体」を救い主イエス・キリストの栄光の体と同じ形に変えてくださる、その偉大な変化が救いの完成であり、それが主イエスの再臨によるとパウロは伝えます。「主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。この信仰が、私たちの常日頃の信仰です。
そのとき一つの勧め、あるいは一つの命令が語られます。その信仰にしっかり立つように、思いやりに満ちた仕方で命令が下されます。「わたしの愛し、慕っている兄弟たちよ、わたしの喜びであり冠である人たちよ、このように主にあってしっかりと立ちなさい、愛する人たちよ」というのです。私たちの聖書の訳でははっきりしていませんが、「愛する人たちよ」という呼びかけは、二回記されています。一つは命令の前、もう一つはその後に記され、この命令を囲んでいます。愛する者たちよという言葉に囲まれた中に一つの命令が記されます。それは単純な「主にあってしっかりと立ちなさい」という命令です。「主にあってしっかりと立ちなさい」。それは、どんなときにもこの信仰、救い主イエス・キリストの再臨を待つ信仰に生き抜きなさいということでしょう。救い主イエス・キリストの再臨を待ち、主イエスにあって主の栄光の体と同じ形に変えられるのを待つ、それが「主にあってしっかり立つ」こと、この信仰に生き抜くことです。そのことはまたこの直後に出てくる勧めの言葉で言うと、「主において常に喜びなさい」ということでもあります。どんな時にも主の再臨を待つことは、主にあってしっかりと立つことであり、そして主において常に喜ぶことです。あなたは何を待っていますか、あなたは何に望みを置いていますか。そう問われたなら、キリストが再び来るのを待っている、そしてわたしたちの体がキリストの栄光の体と同じ形に変えられ、まったき救済にあずかるのを待っていると答えることができます。このキリスト再臨の信仰こそ、「主にあってしっかりと立つこと」であり、「どんなときにも喜ぶ」こと、信仰による喜びのうちに生き抜くことです。祈り ましょう。

 憐れみに富みたもう天の父なる神様、天に本国を与えられ、そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを待つ者とされましたことを感謝いたします。主キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの痛み、病み、死ぬ体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる、とお聞きしました。どうぞこれを信じて、この信仰と望みによって、主にあってしっかりと立つことができますように。試練を受けている人、弱っている人、疲れを覚えている人の上に、あなたの憐みが与えられますように。主の来臨を信じる信仰と希望のうちに待降節の日々を過ごすことができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。