銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「神が宣言する勝利」

説教集

更新日:2025年08月23日

2025年8月24日(日)聖霊降臨後第11主日 銀座教会・新島教会主日礼拝  副牧師 岩田 真紗美

創世記 32章23~33節

 聖霊降臨後、第11主日を迎えています。
 私たちの教会は先月、教会の創立記念日を覚えながら祈りをささげ、またこの8月には平和を祈る思いを増し加えつつ歩んでまいりました。旧約聖書の『創世記』に聞く主日の朝の礼拝も、いよいよ本日を含めてあと二回となりました。暑さの残る日々に在りまして、本日の31節のヤコブのように、 「わたしは(顔と顔とを合わせて神を見たのに、)なお生きている!」と驚き、神への感謝を抱きながら信仰の歩みを進めてまいりたいと思います。苦しみ悶え、自分の罪に飽かされ、悔い改めの祈りの声がかすれるような夏を、私たちは過ごしています。しかし今日はまた、今日与えられた新たな光の中で我々は、なお生かされています。神によって与えられた新たな一日は、先ほど讃美歌でご一緒に歌いましたように、どんなに苦しい中で目覚める者にとっても主に在る平和と喜びの日です。共に、この礼拝から心して信仰生活を始めたいと希います。さらに9月の声を聞きますとすぐに、第一主日に教会は、身も心も主によって新たに奮い立たされる「振起日」を迎えます。この日から福音主義教会連合の定める聖書箇所は『出エジプト記』に進みます。昼は雲の柱、夜は火の柱で神の民イスラエルを強く確かに導かれる神は、私たちの教会を「イスラエル」と呼び、あのヤコブに告げられたように神と人々と闘い「あなたは勝ったのだ」と宣言されます。『創世記』32章は、ヤコブが必死に神からその勝利の宣言を受け、祝福を受け継ぐ物語で、私たちの教会の尊い歴史とここに集う信仰の家族の、掛け替えのない神さまとの歩みに重なるものがあります。
 「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」と「その人」(創32:27)は言いましたが、ヤコブはこの人のからだを離れません。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(同)家族の手を取って共々に皆を渡らせた後の川のほとりに、ヤコブだけが独り残った晩、泥まみれになって何者かと彼は激しく闘いました。それが神なのか、神の使いなのか、詳しいことは分かりませんが、「祝福」を授ける者であったことを聖書は語り伝えています。「格闘」という意味を持つヘブライ語を、旧約聖書がここにしか残していないことも、非常に私たちの胸を揺さぶります。神、あるいは祝福をお与えになることが出来る「何者か」と、互いに力がせめぎ合うほどに激しく格闘したヤコブは、26節で既に「腿の関節」を打たれて身体的にも精神的にも大きなダメージを受けています。しかしまだ、闘い続けるのです。夜が明ければ、ヤコブのほうこそ、もう生きては帰れないかも知れない不安の中へ歩み出さねばなりません。自分がかつて祝福を奪ってしまった兄、エサウとの再会を控えているこの大事な時に、両足で踏ん張ることが出来ない状況になってしまったヤコブは、なお「何者か」と格闘を続けます。この夜、繰り広げられた格闘を聖書は鮮明に語り継いで、最後にヤコブに新しい名前を与えた神の言葉を残しています。「お前の名前は、もうヤコブではない。」(29節)あなたはこれから兄に会いに行くけれども、もう兄のかかとを掴んで産まれてきたという立ち位置からは離れて良いのだと、神は彼に新たに生きる新生の道と名前を現わされました。そして、「お前は神と人(直訳:人びと)と闘って勝った」から、「これからはイスラエルと呼ばれる」(29節)と宣言されました。 「腿の関節がはずれ」て(26節)以前よりも身体的に弱さを抱えたヤコブに対して神は、 神に闘いを挑む人の敗北を宣言するのではなかったのです。神の目からご覧になっても、人々の目から見ても明らかに「あなたは負けて3いる」という状況のヤコブを、なぜ神が「これからはイスラエルと呼ばれる」と宣言されたのか、この物語を聞く信仰者たちは不思議に思ったことでしょう。そしてその打たれた腿の関節の上にある腰の筋を食べないという言い伝えを子孫に語り、33節で最後に聖書が語るのは足を引きずって和解を求めて兄に会いに行く、神に勝てるはずがない人間の、自らの罪と負い目に必死に喘ぎ悶える姿です。そこに創造主なる神は、夜明けを宣言する「太陽」(32節)を昇らせました。希望の光の中を歩み出すヤコブの名前は、「イスラエル」と改められてからも随所で聖書の中に響いています。私たちが一番よく耳にするのは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という私たちの神の存在を明らかにする御言葉です。「アブラハム」のことは「アブラム」とは呼ばないのに、「イスラエル」のことは以前の名前である「ヤコブ」と呼び続けるのが私たちの聖書なのです。 「ヤコブ」の名だけが何故ここまで残るのでしょうか。
 ここに私たちは今日、礼拝の場に射し込む光の中で、聖霊の助けを受けつつ信仰の眼を向けたいと思います。それは、この敗北の姿にこそ明らかにされる神の祝福に、私たちの罪のために十字架による贖いを成し遂げられた主イエス・キリストの御姿を見るからでもあります。神と人々との間に立って闇の中で闘い、「腿を痛める」どころか全神経に激しい痛みを負って苦しまれ、呪われた者として木に架けられた主イエスが、命を懸けて神と人々との完全な和解を完成させてくださったからこそ、私たちには洗礼の恵みへの道が開かれました。神を信じるすべての者に、神は惜しみなく恵みを与え、新しい名前で歩む新たな人生をお与えになりました。兄エサウとの和解は、決してヤコブが軽々しく考えてはならないものでした。兄への贈り物を完璧に用意し、兄の元への近づき方も念入りに考えた挙句、なお彼は不安に駆られています。独りで危険な闇の中に残ったのは、本気で神に独りで祈り続けたかったからでしょう。もう一度だけ最後に、神からの決定的な赦しと守りをいただきたかった彼に神は、痛みの伴う祝福と勝利の宣言をお与えになりました。私たちの信仰生活と、ここは良く似ているように思います。もし、あの時の苦しみや痛みが無かったら私は神と「顔と顔を合わせる」(31節)ように出会っていなかったという瞬間が、皆さんの人生の中にもあることでしょう。或いは、あの時の私たちの教会の神と格闘するような祈りがあったからこそ、神の祝福の重さを身に堪えるように皆が知ったという歴史が教会の中には必ずあります。表面的に見ればこの世に負けているように見えるその時にも、神は勝ちを宣言されます。教会の、そして神の民イスラエルの信仰の根は、その神の勝利宣言を聞きつつ深まっていくのです。共に祈りをささげましょう。(祈祷)

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