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銀座の鐘

「大きな光が射し込んだ!」

説教集

更新日:2024年04月27日

2024年4月28日(日)復活節第5主日 銀座教会 礼拝(家庭礼拝)伝道師 山森 風花

マタイによる福音書 4章12~17節

 本日の聖書箇所の直前には、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、また、荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝たれたことが記されています。神の御子であられるイエス様が受けられた洗礼と悪魔の誘惑への勝利というこの二つの出来事は、どちらも天の父なる神様の御心に適うものでした。それはイエス様が洗礼をお受けになられた時、神の霊が鳩のようにイエス様の上に降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の父なる神様の声が聞こえたこと、そして、イエス様が悪魔の誘惑に勝利された時に、天使たちがイエス様のもとに来て仕えたことからも明らかにされています。
 マタイによる福音書の冒頭に示されたこの二つの出来事からも、イエス様こそが、天の父なる神様の愛すべき御子であり、神様の目に正しく、神様のご計画に従順に歩まれるお方であることが私たちに宣言されています。このようにイエス様が神の御子であり、神様のご計画に従順であられるお方であることが天の父なる神様によってはっきりと示された後、ついにイエス様が公の活動、公生涯を始められるお姿を、私たちは本日与えられた聖書箇所マタイによる福音書 4章12-17節から目撃することがゆるされているのです。
 イエス様の公生涯の始まり、それは伝道によって始められました。神の御子であられ、まことのユダヤ人の王、救い主イエス・キリストの伝道のはじまりの場所。その舞台に相応しい場所として私たちがまず思い浮かべるのは、聖なる都エルサレムではないでしょうか。それはこのマタイによる福音書2章に記されたクリスマスの降誕物語において、東方からやってきた占星術の学者たちが、生まれたばかりのまことのユダヤ人の王、イエス様に会うために、聖なる都エルサレムにやってきたように、私たちも、エルサレムこそ、イエス様の伝道開始の場所に相応しい場所だと思うのではないでしょうか。しかし、クリスマスの日に都エルサレムではなく、ベツレヘムでお生まれになったイエス様は、その伝道の始まりの舞台として、聖なる都エルサレムをお選びにはなりませんでした。それは本日の聖書箇所の小見出しに、「ガリラヤで伝道を始める」とはっきりと記されている通り、ガリラヤにおいてイエス様は伝道を始められたからです。
 さて、当時、イエス様が伝道を開始されたこのガリラヤを支配していたのは、ヘロデ・アンティパスという領主でした。彼はマタイによる福音書2章において、幼子であるイエス様を殺そうとした、あのヘロデ王の息子です。このヘロデ・アンティパスが領主として支配していたガリラヤにおいて、イエス様が伝道を始められたというのは、まことに驚くべき事でした。なぜなら、それは本日の聖書箇所の冒頭、12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」と記された、この洗礼者ヨハネを捕らえた人物、それがヘロデ・アンティパスに他ならなかったからです。彼が洗礼者ヨハネを捕らえた理由、それはヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻と結婚したことについて、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヨハネが批判したためでした。私たちは、このマタイによる福音書を読み進めていくと、ヘロデ・アンティパスによって殺される洗礼者ヨハネの残酷な死をも目撃することになります。
 今朝、私たちは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞いてイエス様がガリラヤに退かれた、と記されていることに注目したいと思います。なぜなら、洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者だからです。すでにマタイによる福音書は、洗礼者ヨハネがイエス様の先駆者であることを示してきました。そして、ここでも、イエス様のこれからを指し示すものとして、洗礼者ヨハネが捕らえられたことが記されているのです。それは「捕らえられた」、「引き渡す」、と訳すことが出来るギリシャ語がここで使われていることからも明らかです。なぜならこの言葉は、イエス様が十字架のご受難を受けられる、その歩みの中で、何度も用いられている言葉だからです。
 このように、これからイエス様が歩むべき道を指し示す、洗礼者ヨハネが捕らえられた出来事を聞いて、イエス様はガリラヤへと向かわれるのです。マタイによる福音書は、イエス様がどのような思いで、聖なる都エルサレムから遠く離れた地、この洗礼者ヨハネが捕らえられた危険なガリラヤに退かれて、伝道を開始されたのかについて一切記していません。しかし、イエス様がガリラヤで伝道されたことは、旧約聖書においてすでに預言されていた神のご計画に適うものであったということが、14-16節にこのように記されています。
14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
15「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、
16 暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

 これはイザヤ書8章23-9 章1 節からの引用です。ここで言われているゼブルンの地とナフタリの地というのは、異邦人の地域に接していた北ガリラヤ地方全体を指す言葉です。これらの土地は、かつては北イスラエル王国の領地でした。しかし、紀元前732年には、アッシリア帝国に占拠され、奪い取られてしまい、そのために、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたこともありました。
 ここで私たちは「異邦人」という言葉が、当時のユダヤ人にとって、どのような意味を持っていたかを改めて覚えたいと思います。異邦人、それは神から遠い者、神に敵対する者、つまり、神から選ばれない者と見なされ、また、厳格なファリサイ派の人々は異邦人との接触は汚れをもたらすと考えていました。このように、人々の目から見れば、神の御子が伝道を始めるのにまったく相応しくない場所、それが「異邦人のガリラヤ」なのです。神の愛すべき独り子であるイエス様が、この地で伝道を開始される、それだけでも驚くべき事なのに、更に驚くべき事が13節には記されています。
 13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
 このように記されているように、マタイによる福音書は、イエス様が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたこの地方にある、カファルナウムという町に住まれたということ私たちに伝えているのです。異邦人の地域と接していた「異邦人のガリラヤ」に属する、このカファルナウムという町には、非ユダヤ人の軍隊が駐屯し、また、収税所があったことをこの福音書を読み進めるとき、私たちは知ることができます。聖なる都エルサレムの人々から見れば汚れた場所であり、救い主など現れるはずもない、この「異邦人のガリラヤ」。しかし、この「異邦人のガリラヤ」においてこそ、旧約聖書においてすでに示されていた、私たち人間の思いなど遙かに超えた神の驚くべき愛、救いのご計画が、神の御子イエス・キリストによって今、世へと示されるのです。なぜなら、このお方こそが、まことに神のご計画に最後まで従順に歩まれるお方、神の愛すべき御子であり、神の御心に適うまことの救い主だからです。
 さて、イエス様がこの「異邦人のガリラヤ」にある町、カファルナウムに住んでくださったということは、神から遠く、救いに与ることなど決してないと思われていた暗闇、死の陰の地にまことの光なるお方が来てくださったことをはっきりと示しています。しかも、イエス様は観光者のように、ただ一回だけ来てくださった、というわけではないのです。そうではなく、住んでくださった、つまり、この暗闇に、死の陰の地に住む者たちと御自身自ら共にいてくださるお方なのです。
 まことに驚くべき神の愛がここには示されています。私たち人間がどれだけ努力したとしても、自分の力では、まことの光なるイエス様に近づくことなどできません。それは罪に汚れていると考えられていた「異邦人のガリラヤ」の人々だけではなく、聖なる都エルサレムの人々も同じです。なぜなら、私たち人間は、すべての人が聖なる神の前には、罪人に過ぎないからです。私たちはただただ罪の支配に置かれながら、罪と死、滅びへと向かう道を歩むことしかできない者たちなのです。
 しかし、そのような暗闇に住む私たちが、大きな光を見ることが聖書を通してゆるされているのです。なぜなら、死の陰の地に住む私たちの上に、大きな光が射し込んでくださったからです。太陽の光が射し込む時、暗闇には光に抵抗する術は何もありません。光は一方的に暗闇に射し込んで来るからです。そのように、神の御子、まことの救い主イエス・キリストは、暗闇を引き裂いて、暗闇の中でうごめくことしかできなかった、この私たちの上に大きな光として射し込んで来てくださったのです。だからこそ、17節で大きな光、まことの光なる主イエス・キリストの伝道の最初の言葉、宣教の言葉がこのように掲げられているのです。
 17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
 大きな光として暗闇に射し込んで、私たちのもとへと来てくださった神の御子、イエス・キリストは、「悔い改めよ。そうすれば天の国に近づく」とおっしゃるのではないのです。ギリシャ語でこの箇所を見ると、ここには「なぜなら」と訳せる言葉が記されています。
 つまり、イエス様は伝道の開始、一番最初の言葉として、「悔い改めよ。なぜなら、天の国は近づいたから」と私たちにおっしゃってくださっているのです。神の御子イエス・キリスト、まことの光、大きな光であるお方が、天の国が、神の支配が私たちのもとへと近づいてきてくださったのです。だからこそ、私たちは悔い改めて、ただこの大きな光なるイエス様を見つめつつ、イエス様に従いながら、歩んでいくことが、ただ神の愛、神の恵みとして今まさにゆるされているのです。ですから、私たちは暗闇を引き裂いて、私たちのもとへと射し込んでくださった、大きな光、イエス・キリストによって示されたこの神の愛に応答する一人一人として、今日から始まる一週間、感謝と賛美の声を上げながら歩んで参りたいと願います。