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銀座の鐘

「敵を愛しなさい」

説教集

更新日:2024年05月25日

2024年5月26日(日)三位一体主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書5章43~48節

 主イエス・キリストは隣人を愛することについてお語りになりました。当時のユダヤの人々が聞いていたことは「隣人を愛し、敵を憎め」という教えでした。しかし、主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことを明確に語られました。これは、新しい教えです。主イエスは愛し祈ることと同時に敵を愛しなさい、敵のために祈りなさいと教えられたのです。これまで聞いたことのないまったく新しい教えを教えることは、当時の宗教的指導者に対する挑戦状になります。また、これまで宗教的指導者の教えに従っていた人々にとっても戸惑いを与えることになり、主イエスの言葉が物議を醸すことになりました。しかし、主イエスは決しておもねることも、ひるむこともなく、当時の人々に対してこの新しい教えを堂々と大胆に語ったのです。主イエスは命をかけて語っていると考えて良いと思います。そしてこの新しい愛の教えは、天の父のように「完全な者」になる道であり、この道を共に歩くことを命じ、教えられたのです。
 この教えは主イエスが山の上から群衆に向かって語られた山上の説教の一部です。語られる主イエスと御言葉を聞く群衆は一つになっています。主イエスと一つに結ばれています。群衆が主イエスと結ばれて、神の愛に生きるように招かれています。神の愛に生きる
道は、敵を愛することであると語られています。この主イエスの御言葉に従うことこそ罪深く、不完全な私たちが神の愛によって「完全な者」へ変えらる道だというのです。
 本日は、主イエスの御言葉、「敵を愛する」という御言葉にお聞きしたいと願います。

『隣人を愛し、敵を憎め』

 主イエスの時代の人間の言い伝えとして『隣人を愛し、敵を憎め』と語られていたようです。「隣人を愛し」は、旧約聖書レビ記 19章17、18節からの引用であると考えられています。「17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」この他にも旧約聖書には「隣人を愛しなさい」という言葉はいくつかの箇所に記されていますが、「敵を憎め」という言葉はどこにも見当たりません。詩編 97 編に「主を愛する人は悪を憎む」という言葉がありますが、「敵を憎め」という言葉を見つけることは出来ません。
 ある研究者は、主イエスがお語りになった当時の人々が聞いていた「敵を憎め」とは、ユダヤ教の戒律に記されていた言葉であったと説明しています。この戒律の根拠は、死海写本などで有名なクムラン教団の「宗規要覧」という文書からの出典ではないかと推測されています。そこに記されている言葉はこういうことばです。神はこう命じ給うた。「神の選び給うたものをすべて愛し、神のしりぞけ給うたものをすべて憎むべし」と。ここに記されている「憎む」という言葉は、単に愛さないという意味ではなく「しりぞけ」るとか「拒絶する」という意味であると解説されています。
 主イエスの近くに集まった群衆は「隣人を愛し、敵を憎め」という言葉を、当時の社会の常識として、日常的に聞いていたと思われます。そして、だれも疑うことなくその通りだと聞いていたのです。当時の宗教的な指導者は、愛することと同時に憎むことの大切さを教え、この教えを一人一人に伝えていたのです。ユダヤの民は隣人を愛することを大切にしながら、同時に神がしりぞけ拒絶するものを憎めと心に刻み込んでいたのです。
 しかし、主イエスは神を信じ神に愛されている者にとって隣人を愛することと敵を憎むことは矛盾すると教えているのです。愛することと憎むことは両立しないと語っているのです。これは新しい教えでした。神の完全な愛が、敵を憎む憎しみを生み出すのかどうか問われています。神の愛は敵を愛する愛でもあるのではないかと語られているのです。主イエスだけが語った新しい教えです。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天の父の子となるためである。

44 節において主イエスは、「しかし」といって、当時の宗教的指導者の愛の教えに反論しています。彼らの教える愛は真実の神の愛ではないと批判しているのです。主イエスがお語りになる愛は、神が人を愛する愛であるから、神が敵を憎むということはないということです。ユダヤ人が神の愛を離れ、仲間だけに限定した愛になっているというのです。ユダヤ人だけに限定した愛は、神基準ではなく人間が作り出した基準であるということです。宗教的な指導者によって仲間とされた人は愛するけれども、そうではない者は拒絶され、しりぞけられ、憎まなければ愛ではないということになります。
 本来の神の愛がいつの間にか、宗教的な指導者中心の愛に変えられてしまったのです。この人は愛するけれどこの人は憎むという線が引かれ区別する様に変えられ、限られた人だけを愛する愛に変わってしまっていることを主イエスは問題にしているのです。主イエスはこう続けます。

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
 天の父なる神は、悪人にも善人にも太陽を与え雨を降らせてくださるというのです。神の愛はこの人とあの人と人間の違いによって変わることはないというのです。神の愛は相手が悪人であっても善人であっても、神の愛は変わらないというのです。さらにこう語ります。46 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。47 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。

 この人には挨拶しなければならないがこの人は無視しなければならないと決められて、自己中心の愛を貫くような愛は、神の愛とはいえないということです。愛するに価すると判断した者だけを愛するのが私たちの愛です。しかし、愛に価しないと思われる者までも愛するのが神の愛です。相手を愛するか憎むのか、その基準が神の御心であるかのようにして、実は人間の基準に変えられていたのです。人間基準になった瞬間から、その人の気分次第で変わってしまう愛になっているのです。ここに主イエスは新しい教えを通して、人間中心の愛の正体を暴いておられるのです。
 神の愛は人間の愛とは根本的に違います。神の愛は、主イエスが十字架への道を歩き通した時、つばをかけられたり、侮辱されたり、痛めつけられても、裏切られても、「彼らは何をしているのか分からないのです」と祈りながら、地上の敵と思われる人間のために祈り続ける愛を全うされました。
48 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 銀座教会の礎であるメソジスト教会の創設者ジョン・ウェスレーは、主イエスが語られた「キリスト者の完全」について繰り返し語りました。主イエスの御言葉を土台に私たち罪人が「キリスト者の完全」を目指して生きることの大切さを教えました。ウェスレーが強調したことは、不完全な私たちが神に愛されていることをしっかりと受け入れることからはじまります。神の愛の約束を信頼して、聖化の道を進めるのです。
 「キリスト者の完全」の教えを誤解してしまうことがあります。人間はどんなに頑張っても完全を目指しても完全になるわけではないと考えるからでしょう。私が一人完全を目指しているのではありません。自分自身の中に完全を確立することは出来ません。キリスト者とは神に愛され、洗礼によってキリストと共に死んで、キリストと共に復活し、キリストに結びあわされた者です。神の愛によって洗礼を受けた者は、不完全な者とはいえないのです。神の愛に支配されている者ですからあきらめることなく、「キリスト者の完全」を目指して生きる者とされているのです。
 ウェスレーが強調したことは、密儀宗教がいう神人混合、神と人が結合する完全ではなく、キリスト者が十字架と復活の主イエスの完全な愛で愛されて、主と共に生きることです。ウェスレーは、倫理的にも信仰的にも私たちが心ならずも犯す罪を認めています。この点で罪人の完全などあるはずがないという誤解が生まれたと思います。信仰者の完全だけを評価すると信仰による成長をあきらめてしまうことになります。マタイ 22:37 で主イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』と言われました。ウェスレーが語ったキリスト者の完全の本質は、この主イエスの語る神の愛の掟に基づいています。神の愛に応えて、私たちが神を愛し、隣人を愛するのです。神の愛によって主イエス・キリストと結び合わされた者は、完全を目指して歩んでいるのです。
 私たちは神に愛されています。三位一体の神の交わりの中に招かれ加えられて愛されています。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神の交わりの中に招かれて神の愛を与えられているのです。ゆえに、私たちの力では敵を愛する事が出来なくても、神の導きと祈りによって敵を愛する道が与えられます。神が愛された隣人であることを思い起こし、敵を愛する道が与えられるのです。主イエスが同伴してくださるゆえに、敵を愛する道を歩くことが出来るのです。