銀座教会
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銀座の鐘

「主は尊い、生きた石」

説教集

更新日:2024年03月16日

2024 年3月17日(日)受難節第5主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一2章4~8節

 主イエス・キリストを表わす譬えには、「真の羊飼い」や「ブドウの木」、あるいは「命のパン」や「渇きを癒す水」、「汲めども尽きない井戸」など数多くあります。今朝の箇所は、主イエスを「生きた石」と表現し、「隅の親石」と語っています。主イエスをこのように石に譬える表現は、ペトロの手紙だけでなく、福音書にも、またパウロのローマの信徒への手紙(9章33節)にも見られます。初代教会には明らかに「石のモティーフ」で主イエス・キリストを語り、その救いの御業を理解し、伝える伝統がありました。この伝統は、旧約聖書のイザヤ書の預言「わたしは一つの石をシオンに据える」という御言葉や詩編118編の有名な表現、「家造りらの捨てた石が、隅の親石になった」という神の御業の信仰に関係しています。
「石のモティーフ」でキリストを言い表わすのは、聖書が木の文化でなく、石の文化を背景にしていることと関係があるでしょう。家を建てるにも、都を築くにも、石がなくては建設は不可能でした。石や岩を土台にして築かれるわけで、そうでなく砂の上に家を建てることがいかに愚かなことか、主イエス御自身の譬え話の中にも出て来ます。「隅の親石」(cornerstone)は、ただ土台であるだけでなく、二つの石垣を組み合わせて、全体を支える役割を果たしました。「隅の親石」は、家や構造物のいわば大黒柱であって、教会が建てられるのは、この石に支えられ、すべての信仰者がみなこの隅の親石の支えに組み合わされることによってです。
 今朝の箇所は、この「石のモティーフ」に基づいて、「この主のもとに来なさい」と呼び懸けています。主イエスは「尊い、生きた石」ですと言われます。「生きた石」という「石」と「命」を結びつける表現は分かり難いかもしれません。私たちにとっては、石は無機物で命はなく、生きていないからです。主イエス・キリストは生きておられます。主イエスは真に揺るぎない石として、私たちを支え続けておられます。その石の家に守られて生かされるとき、主は尊く、信頼できるお方、確固とした礎(いしずえ)であり、同時に生けるお方、そして命を守るお方です。「生れたばかりの乳飲み子」をその恵みにより、霊の乳によって生かし、成長させるお方です。主イエスは今日も活ける主としてその御業をなす復活の主であり、私たちの「命」の源です。「主のもとに来なさい」と言われる時、この主のもとに来て、主に結ばれ、主の命を受け、新しく生かされ、私たちも「生きた石」とされる、そのようにして用いられなさいと言うのです。主イエスはまことに命ある、また命を与え生かし守るお方として「生きた石」です。
 私たちキリスト者は、キリストと常に共にあるもので、キリストを土台とし、キリストに依り頼み、主に結ばれ、兄弟姉妹とも組み合わされて、「霊的な家」に造り上げられる、そのようにされなさいと言われます。キリストに結ばれて築かれる家は、自分ひとりの人生ではなく、キリストと共に、そして主にある兄弟姉妹と共に、霊的な家に造り上げられます。「霊的な家」とは、神が住まう、神が臨在してくださる「神の家」、教会ということでしょう。
「霊的な家」である教会に造り上げられると語りながら、聖書はさらに「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と続きます。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」というのは、神への感謝であり、神への賛美です。讃美と感謝のそなえものを献げる礼拝のことが言われています。そのような霊的な家に造り上げられるためには、真の生きた石であり、隅の親石である主イエス・キリストのもとに来ることが決め手です。キリストの御許に来て、イエス・キリストが「生きた石」であるように、私たち自身も「生きた石」とされ、そして石と石とが組み合わされて、霊的な家へと造り上げられます。その中で聖なる祭司となった者たちの礼拝が営まれます。
 主イエスは「隅の親石」ですが、それは私たちが選んでそうなったわけではありません。そうでなく、主イエスを隅の親石に選ばれたのは神です。つまり神の御意志により、神の御計画によって、主イエスは隅の親石とされました。人間の家造りたちは主イエスを選ばなかったと言われています。実際、すべての人が主イエスを捨てたのです。
 主キリストが親石とされたと語る代表的な旧約聖書の箇所三つが引用されています。イザヤ書から2か所、それに詩編118編です。家を建てる者たちである人間は、キリストを捨てたと言います。私たち人間は、自分で家を建てようとする設計図をもってキリストを捨てます。ゴルゴタの十字架へと捨てたわけです。そのキリストを選んだのは父なる神です。人間が描く設計図とは異なる神御自身の建築意志があります。神は歴史世界の救済意志をもって、キリストをお選びになり、十字架にかかったキリストを死人の中から復活させ、復活の主イエスを「尊い、生きた石」として教会の親石となさいました。「尊い」のは神の選びによる尊さですが、十字架の試練を私たちのために負われ神の勝利を表わされた尊さでもあります。「この主のもとに来なさい」。この方のもとに来て、この方によって自分を見直し、この方の下で自分を受け取り直し、この方によって慰めを受け、生かされ、共に組み合わされなさい。この方が「尊い、生きた石」であり、「隅の親石」であることは、神の御意志で決定されています。この方のもとに来ることで神に従い、神の側にたちます。
 その者は「決して失望することはない」と言われます。イザヤ書のもとの言葉では「信じる者はあわてることがない」とあります。この言葉が「隅の親石」に刻まれているわけです。敵軍に包囲されて混乱に陥った人々の様子が思い浮かびます。その中で、神がシオンに置かれた親石を信じる者は、あわてることがないとイザヤは預言しました。これを「決して失望することはない」と訳しました。それは誤りではありません。「恥をかくことはない」とも訳されます。「決して駄目になることはない」とも訳されます。キリストを「生ける石」と頼んで、その上に自分を委ね、霊的な家に造り上げられる人が、失意のうちに終わるはずはありません。神が選びお立てくださった尊い生ける石に身を委ね、その主イエス・キリストから慰めを受け、その約束に信頼して生きる人が失意に終わるはずはないでしょう。
 その信仰の確かさをはっきり証言するために、ペトロは隅の親石である主イエスに信頼しない人がどうなるかも記しました。主の御許に来ない人は、主イエスという親石につまずくことになる、と。「生ける石」に来ないことは、神の側に立たないことで、それは中立的に立つことではなく、キリストにつまずき倒れたことになるというのです。不信仰に対する警告でもありますが、これは何度もつまづいた経験のあるペトロの言葉として聞くと、決して信仰のない人々を責め、脅すためではないでしょう。そうではなく、キリストに信頼し、神の側に立つ信仰へと励ますため、その信仰の確かさを語るためです。
 主イエスにあって「生ける石」として用いられ、「霊的な家」に造り上げられた者たちは、「聖なる祭司となって、霊的ないけにえを献げ」ます。それが「主のもとに来る人」です。みな「聖なる祭司」となります。祭司は、神の御前に出て、他の民のために執り成しをします。執り成しのために神にいけにえをささげます。「霊的な家」に造り上げられた者たちはみな、「聖なる祭司」となって執り成しを行う。宗教改革者マルティン・ルターが「全信徒祭司制」(万人祭司)を語った聖書の根拠がここにあります。主イエスにあっては、すべての信仰者が祭司です。祭司は人々の執り成しをします。そのために神の御前に霊的ないけにえを捧げます。執り成しの祈りをささげるでしょう。教会がこの「霊的な家」なのだというとき、信仰者みなが祭司とされて、互いにとりなし、さらに世の人々のために執り成す礼拝をささげています。主キリストが「尊い、生ける石」であり、「隅の親石」でいてくださるとき、その主に組み合わされた教会のキリスト者はみな「聖なる祭司」にされています。ですから主キリストに応えて、主にある兄弟姉妹のために執り成し、主イエスをまだ知らぬ世の人々のためにも執り成しのある礼拝をささげるでしょう。

 憐れみ深い天の父よ、「尊い、生ける石」である主イエス・キリストに結ばれ、霊的な家に造り上げられておりますことを感謝いたします。どうか私たちも「聖なる祭司」とされていることを覚えて、私たちの隅の親石である主イエスに倣うものとさせてください。主を信じて生きる者が失意に終わることはないとの主の約束を感謝します。主にあるすべての兄弟姉妹が主にあって希望のあるキリスト者人生を生きて献げることができますよう、また主を知らない世の人々に主イエス・キリストの福音を伝えさせてください。私たちの「尊い、生ける石」「隅の親石」でいてくださる主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。