銀座教会
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銀座の鐘

「神の栄光を見る」

説教集

更新日:2020年05月24日

2020 年5月24日(日)復活節第7主日 主日家庭礼拝 藤田 由香里伝道師

使徒言行録7章54節~8 章1節

 ステファノは、聖霊降臨後に教会が誕生したときの重要な指導者のひとりです。初代教会は成長 するにつれて規模が増し、ガリラヤの使徒たちを支えるため、ステファノを含むギリシャ語を母語 とする 7 人が選びだされました。その中でも、ステファノは聖霊と信仰に満ちたカリスマ的な存在 でした。このステファノは、キリストの弟子の「第一の殉教者」とも言われます。この彼の殉教 は、初代教会にとって大きな試練でした。ステファノの危機は教会の危機でした。ステファノは、 ユダヤ人たちの偽証によって最高法院に引き渡されます。ステファノのこの最高法院における釈明 の場は、神の言葉を大胆に語る恵みに満ちた講壇となりました。アブラハムから始まる神のイスラ エルの民への約束の歴史を語り、いかに人々が預言者たちの言葉に従うことができなかったか、そ の罪を語ります。ステファノは、神の恵みのご計画が、律法を超え、神殿という場所を遥かに超え いでるものであることを告げました。

 そこで、本日の箇所に入ります。最高法院のメンバーは、これを聞いて激しく怒り、ステファノ を城壁の外へ連れていき、石打ちの刑にします。律法によれば、共同体から悪を取り除くために成 される刑です。ステファノは、神の栄光と父の右におられる主イエスを見て、地上の眠りに至るま で忠実に歩みきりました。
 ステファノの名前の意味は、ギリシャ語で「冠」です。ヨハネの黙示録には、諸教会への手紙の 中に、次のようにあります。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよ う。」(ヨハネの黙示録2:10)<命の冠> この冠は、茨の冠を被せられたキリストが、復活 を経て父の右に座し、抱いておられる冠です。主キリストが、命の冠を授けてくださるのです。
 ここで、私たちは、まず誰よりも忠実で、真実であられる主イエス・キリストのお姿を思いま す。まず、神が私たちを愛し、神が忠実でいてくださったからこそ、命の冠である救いを受けるこ とができるようになりました。
 
 ここで、ステファノの迫害の場面そのものの中に、主イエスの十字架刑と重なる描写がいくつも 見られます。ステファノもまた、恵みに満ちて人々の間でしるしを行い言葉を語り、ユダヤ人の妬 みにより、偽証によって最高法院に引き渡されました。そして、主イエスの十字架上の言葉をステ ファノも石打ちにあいながら叫ぶのです。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」また、 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」です。このステファノの石打ち刑の只中の言葉 は、まさに使徒言行録と同じ著者、ルカが記した福音書の十字架の言葉です。ここで、ルカは、明 らかに主イエスとステファノを重ねて記しています。このことの意味は、主イエスと聖霊降臨後、 教会のキリストの弟子には連続性があるということです。また、同時に主イエスとステファノの言 葉の大きな違いがいくつかあります。

 まず、主イエスは、父なる神にご自分の霊を委ねているのに対し、ステファノは、救い主イエス に自分の霊を委ねます。子なる神と父なる神の同質性を語ります。主イエスの命は父に捧げられま した。ステファノは、キリスト者は、主イエスに、三位一体の神に自らを捧げ、委ねます。
次にあげられる主イエスとステファノの違いは、最後に叫んだ言葉です。主イエスは、息を引き 取られる前に、「わたしの霊を御手に委ねます」(詩編31編6節)と叫ばれました。しかし、ス テファノでは順序が逆で、ステファノが最後に叫んだ言葉は、むしろ主が先に祈った祈り「主よ、 この罪を彼らに負わせないでください」でした。つまり、ステファノは、最後の最後に、怒りにと らわれ自らを迫害するユダヤ人、神に選ばれた民の罪の赦しを祈り上げたのです。なぜでしょう か。聖霊降臨後は、すなわちキリストの十字架と復活の後です。復活の主イエスがおられる、この 命の冠をすでに受けているお方を知りつつ、命を委ねます。ステファノの殉教は、キリストのゆえ に復活の命において勝利を知っています。では、最も重要な祈りとしてステファノが罪の赦しを祈 ったのはなぜでしょうか。
 
 聖書には多くの罪の赦しの意味を知らせる言葉があります。主は言われました。「敵を愛し、自 分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイによる 福音書5:44~45)
ステファノの石打ちの場面とは異なる結末を迎えたヨハネ福音書の石打ちの有名な場面がありま す。罪深い女に人々が石打ちの刑をしようとしていました。この律法の解釈で、ユダヤ人の長老た ちは、主イエスを試そうとしていました。けれども、主イエスは、言われました。「あなたたちの 中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネによる福音書8: 7)すると、誰も石を女に投げることはせず、できず、年長者から一人、また一人と立ち去ってい きました。人は全て罪人であることを、また主イエスの言葉の前に罪を顧みる機会を受け止めたも のたちの姿があります。先ほどご一緒に祈りました主の祈りで、罪をお赦しください、私たちも罪 を赦しますと祈ることは重要な意味があります。
 
 ステファノを襲ったユダヤ人たちは、全ての人間が罪人であるという深い認識に導かれず、むし ろ妬みと怒りに支配されておりました。ステファノの石打ちの場面を、いくつもの画家たちが描い ておりますが、その投石のユダヤ人の顔を見ていると、自分こそ裁き手であるという激情に囚われ ているようです。最高法院ではこのように、人間の判断による裁きが行われました。しかし、全て の人は、神の裁きの前に立っています。神の法廷では、神の義によって判決が下されます。最高法 院では悲痛な結果に導かれるステファノですが、神の目が僕ステファノを見つめています。
そしてステファノは、天を仰ぎ、神の栄光と父の右に立たれるイエスとを見ました。ステファノ が見つめている神の栄光、その中心には、キリストの十字架があり、赦しの祈りがあり、ご自身を 罪人のために捧げる義と愛がありました。
ステファノは、神の栄光を見て、自分を迫害するものたちのために赦しを祈りました。キリスト がそのようになさったからです。何より、キリストが忠実さにより、まずステファノを赦して救い に入れてくださったからです。まず、私を赦してくださった神のために、キリストの弟子であるわ たしも、自分に負い目のある人のために赦しの祈りを捧げます。

 このテキストは、<栄光「ドクサ」>(55節)という言葉のごろ遊びがあり、<右「デクスィ オーン」>(55節)、<お受けください「デクサイ」>(59節)というふうに、韻(頭韻)を 踏んでいるように見えます。ステファノ殉教物語のうちには、神の栄光が満ちている、そのように お聞きして良いと思います。
 
 ステファノの危機は、初代教会の危機には、神の栄光、キリストの栄光が満ちています。神の栄 光は前進します。ステファノと入れ替わるように現れた青年サウロ、後の使徒パウロがこの迫害に 賛成してこの場にいました。弟子ステファノの罪の赦しの祈りは、この後復活のイエスから啓示を 受けるファリサイ派の青年にも注がれていました。このサウロが神の栄光にお仕えしていくことに なります。三位一体の神様の御業は、私たち人の思いを遥かに高く超えています。そして、命の冠 を与えんとご自分の民の救いを前進させてくださるのです。

祈祷
 天の父なる神さま。復活節第7主日の礼拝に感謝いたします。聖霊が注がれ、多くの弟子が 恵みと力に満ち、福音を宣べ伝えました。危機や試練にあっても、復活の主がお与えくださる希望 を見上げ続けることができますように。キリストの弟子として、私たちも主の栄光のためにあなた に忠実にお仕えしていくことができますように。
主イエスの御名によって祈ります。 アーメン

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