銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

「神を信頼して生きる」

説教集

更新日:2026年10月31日

2026年11月1日(日)聖霊降臨後第23主日 召天者記念 銀座教会・新島教会 主日礼拝  牧師 髙橋

出エジプト記20章3節、コリントの信徒への手紙一8章5~6節

 日本基督教団では、毎年11月最初の日曜日を「聖徒の日」と定めています。銀座教会では聖徒の日に、召天者を記念し、召天者記念礼拝をささげています。召天者のご家族を迎えて礼拝をささげます。銀座教会が覚える召天者は、どこのお墓に埋葬されていても、銀座教会員とそのご家族、関係者を覚えて召天者名簿に氏名が記されています。召天されたお一人お一人が神に愛されて、主に結ばれていることを思い出します。共に歩んだ地上での日々を思い起こします。召天者記念礼拝を通して、神様のまなざしに心を向けます。
 私たちの地上での歩みには、必ず山や谷があります。生涯、神からも教会からも離れずに過ごせる人はほとんどいないでしょう。しかし、にもかかわらず、そのような私たちを愛してくださる神がおられることは、残された私たちの人生の大きな支えになります。
 本日は、出エジプト記20章3節の十戒の第一戒から神の御心をお聞きします。十戒は、エジプトの王の奴隷として働かされていたヘブライ人が、神が遣わしたモーセによって、奴隷から解放され自由になり、荒野の旅の途上で与えられました。この荒れ野の旅は約束の土地カナンへたどり着くまで約40年に亘る旅になりました。その間、神の民を支えたのが十の言葉である十戒です。十戒はその後も神の民を支え続けました。神の民が様々な国に支配されても、神の民は十戒を心に刻み、10の言葉によって支えられました。今日のキリスト教会も十戒を重んじ、神の愛の言葉として感謝して受け止めています。
 神は荒れ野で姿を現しました。旅の途上、神はモーセにシナイ山へ登るように命じました。そこで神はモーセに2枚の石の板に刻まれた十の言葉を授けました。その第一の言葉は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と刻まれていました。
 この第一戒はエジプトの奴隷から神の民を解放した神が、神の民を愛し続けるという愛の保証の言葉です。しかし、神の心は神の民に簡単には伝わりませんでした。エジプトの神々と共にエジプトの王ファラオも神とされていました。当時の世界では神が、民を奴隷として支配することは当然のことと考えられていました。世界の神々が人間を奴隷とすることはあっても、神が自ら私利私欲を捨てて人間を愛する神が存在する事は見たことも聞いたこともないのです。神が神の民を愛するとか、荒れ野の道において、どんなことがあっても愛し続け同伴されるなどということは想像することも出来ませんでした。
 教会学校では毎週の聖書箇所が記された絵がついた小さいカードがあります。本日のカードの絵は、立派な祭壇の台座に大きな角をもつ若い雄牛が描かれています。しかし、それだけでなく、粉々になった石の破片が飛び散っている様子が描かれています。
 この絵は、出エジプト記32章以下に記されている十戒の石の板の物語を表しています。シナイ山の麓(ふもと)でモーセを待っていた神の民は、なかなか下山してこないモーセを待つ間、不安になり、不安のあまりとうとうモーセの代わりに導いてくれる神を造ってほしいと願いました。こともあろうにアロンは金の雄牛を鋳造して祭壇に置いたのです。神の民が持っていた金の指輪や首飾りを集めて、若い雄牛の像を造り、それを神に仕立て拝んだのです。彼らは金の雄牛の周りを踊り歩き、祈願の礼拝をささげていました。
 その頃山頂では、あわてた神がモーセに直ちに下山しなさいと命じていました。二枚の石の板を手に持ち、急ぎ下山したモーセが見たのは、雄牛の像と踊る民衆でした。モーセは激しく怒り、手に持っていた石の板を投げつけ、山の麓でせっかくの十戒が刻まれた石の板が粉々に砕かれてしまいました。モーセはアロンと民衆に対して、勝手な振る舞いをしたことを激しく怒りました。
 モーセは再び主なる神の下に戻り、このように語りました。それが32章31節以下です。 「31 モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。32 今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」
 主なる神は、モーセに民と共に旅を続けるように命じました。主なる神はもう一度モーセに石の板を切って、シナイ山に登るように命じました。そして、出エジプト記34章に記されているように十戒が刻まれた石の板が再びモーセを通して与えられることになりました。神はこう語りました。
 「19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
 この言葉に記されているように、雄牛の像を神に仕立てて踊り、礼拝した奴隷であった神の民を赦そうとされます。奴隷から解放した神こそがあなた方の神であることを教え、神は怒りを収め、心変わりすることなく、奴隷であったヘブライ人たちを恵み、憐れんでくださいました。彼らの目には神が見えなくても心に神を刻むように願います。私たちが神の顔を見ることは出来なくても神を忘れないように導いて下さるのです。そして、再び、新しい石の板に十戒の言葉を刻んで、お与えになったのです。
 出エジプト記 34 章では、主なる神がモーセに「前と同じ石の板を二枚切りなさい。あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう。」とお語りになり、モーセはシナイ山に登りました。主なる神の宣言を聞きます。神は忍耐強く、慈しみとまことに満ち、罪と背きと過ちを赦しました。しかし、同時に神が罰すべき者を罰せずにはおかないとお語りになりました。モーセはひれ伏して、主よわたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。(34 章 9 節)とお願いしました。そこで主なる神はモーセに「見よ、わたしは契約を結ぶ。…あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。」とお語りになったのです。そこで、改めて十戒が神と民と共に生きる契約として、新しく第一戒が与えられます。それが、34 章 14 節以下です。
  14 あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。15 その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。 16 あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる。17 あなたは鋳像の神々を造ってはならない。
 モーセの執り成しによって、主なる神は、神の民を赦し、共に歩むことを約束してくださったのです。ゆえに、神の民は二度と同じ過ちを犯さないために神の赦しに基づいて与えられたのがこの第一戒「あなたはほかの神を拝んではならない」という御言葉です。十戒の第一戒は、神の民が不安になり、勝手に神の像を造り踊る者を見捨てず、恵み憐れみ、赦し、神の熱情をもって愛することによって更生させるという、神の愛の教育が込められている言葉なのです。再び与えられた十戒の石の板と共に神が共に歩んでくださっているのです。赦しと憐れみの神が共にいるのに「ほかの神」を造る者はもういません。モーセが下山してこない、モーセは遭難したのではないか、神はわたしたちを見捨てたのではないか、そのようなわたしたちが勝手に思い描く不安があります。自分で造り上げた妄想のような不安から、自分に都合の良い神々を造ってしまうのが人間の弱さなのです。
 このような私たちを再び赦し、今後、同じ過ちを繰り返さないように、同伴してくださると約束してくださったのが十戒の物語です。この神と共に歩む限り、第一戒は、当然のことであり、私たちが不安と過ちに陥り、かたくなになってしまうことから、私たちを救い出す愛の約束であり、今後の愛の保証書なのです。
 そもそも神の民はエジプトの奴隷でした。なぜ、神はこのような人々を恵み、憐れみ、愛する決断をされたのでしょうか。出エジプト記 5 章 3 節には「ヘブライ人」とあります。 「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。」モーセがエジプトの王ファラオに荒野にいる神を礼拝させてほしい、だから自由にしてほしいと交渉した言葉です。研究者はこの「ヘブライ人」とはエジプトでは「ハピル」と呼ばれていた「社会的に寄留者」であって、抑圧されていた者で、社会的に低い層の人々のことだと説明しています。 神は現代においても現代のヘブライ人を荒野へ導き、神の民として愛されるのです。
 ヘブライ人とは、特定の地域の民族ではなく、種々雑多な「入り混じった群衆」であったいわれています。神が愛する民とは、特定の特別な人々ではなく、主なる神を礼拝するために呼び集められた人々なのです。この礼拝に集う私たちも、神が奴隷であったヘブライ人と同じように見つめてくださり、その罪を赦し、再び愛して、恵み、憐れみ、私たちの人生の同伴者となる約束を与えてくれるのです。ここに喜びの知らせがあります。
 銀座教会の召天者を覚えるとき、この方々もかつては聖書の奴隷と同じように罪の中にいました。しかし、神に出会い、愛されて神が同伴してくださった人生を生きた方々だと受け止めることが出来ると思います。私たちもこうした先達と同じように、神に赦され、再出発することに、生きる希望の光を見いだして歩み続けたいと願います。

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