「神の顔を仰ぎつつ生き抜く」
説教集
更新日:2025年08月30日
2025年8月31 日(日)聖霊降臨後第 12 主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧 師 髙 橋 潤
創世記 48章8~16節
8 イスラエルは、ヨセフの息子たちを見ながら、「これは誰か」と尋ねた。9 ヨセフが父に、「神が、ここで授けてくださったわたしの息子です」と答えると、父は、「ここへ連れて来なさい。彼らを祝福しよう」と言った。10 イスラエルの目は老齢のためかすんでよく見えなかったので、ヨセフが二人の息子を父のもとに近寄らせると、父は彼らに口づけをして抱き締めた。
11 イスラエルはヨセフに言った。
「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」
12 ヨセフは彼らを父の膝から離し、地にひれ伏して拝した。13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。
15 そして、ヨセフを祝福して言った。
「わたしの先祖アブラハムとイサクが
その御前に歩んだ神よ。
わたしの生涯を今日まで
導かれた牧者なる神よ。
16 わたしをあらゆる苦しみから
贖われた御使いよ。
どうか、この子供たちの上に
祝福をお与えください。
どうか、わたしの名と
わたしの先祖アブラハム、イサクの名が
彼らによって覚えられますように。
どうか、彼らがこの地上に
数多く増え続けますように。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日は今年 5 月から読み進めてきた創世記の最後となり、次週は出エジプト記に入ります。創世記は、天地創造物語、ノアの箱舟に続いて、アブラハム、イサク、ヤコブの物語を読み進めてきました。本日の箇所は、ヤコブの死の直前、神がヤコブを通して最後の御業として祝福を与える出来事です。ヤコブの祝福とは何を意味するのでしょうか。
ヤコブは創世記 32 章 29 節で神との格闘の末イスラエルと改名しました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ。」と記されています。ヤコブがイスラエルと呼ばれるようになって、神に与えられたヤコブの 12 人の息子たちがイスラエル後継者となり 12 部族が信仰を継承していきました。 ヤコブが息子ヨセフを溺愛していたことから、ヨセフの兄たちは、弁当を届けに来たヨセフを捕まえ、命だけは取らず、長い服を切り裂いて穴に落としました。ヨセフは旅をしていた商人の手に渡り、エジプトに売られ、エジプトの王の側近になりました。ヨセフ物語を通して、飢饉の中、エジプトに食料を求めて来た兄たちと和解をしました。エジプトの大臣となったヨセフには、エジプト人の妻との間に二人の息子が与えられていました。長男マナセと次男エフライムです。ヨセフの祝福としてヨセフの二人の息子をイスラエルの家に迎えるためには、エジプトでエジプト人の母から生まれた息子たちに対するイスラエルとしての資格が問題でした。ヨセフを失ったことはイスラエルにとって 12 部族が欠けてしまった出来事なのです。この欠けをどうするのかがヤコブの責任でした。
ヨセフとその息子がイスラエルの部族となるためには、ヨセフの子であるというだけでは問題を残してしまうことになるのです。この問題はヤコブの死後では取り返しがつかないのです。いくらヨセフがヤコブ一族の命を救った恩人であってもエジプト人のヨセフが継承者としての正統性を証明することは出来ません。ヨセフとその息子たちがイスラエルの後継者であると証明できるのは、死を前に目が見えなくなったヤコブだけにしかできないことでした。もし、ヤコブのこのヨセフとその息子たちへの祝福が出来なかったら、信仰共同体としての 12 部族が成立しないことになってしまうのです。ヤコブの祝福は、イスラエル 12 部族が神の民となり、信仰共同体の土台となるために決定的に大切な出来事なのです。イスラエル12部族は、ヨシュア記24章に記されているとおりシケム契約をもって部族連合が結成されます。12部族の中でもユダ族とエフライム族が重要になります。ダビデはユダ族出身であり、イスラエル王国が南北に分裂したとき、ユダ族が南王国になりました。そして北の10部族が北王国となり、その中心はエフライム族です。エフライム族が最も大きな勢力であったので北王国はしばしばエフライムと呼ばれました。王国成立後、部族制度はだんだん解消されていきましたが、たとえばバルナバがレビ族とかパウロがベニヤミン族とか主イエスがユダ族であると聖書に明記されているように、個人的な紹介では何族の出身ということは残ったようです。
ヤコブがヨセフと次男エフライム、長男マナセを祝福することは、信仰共同体にとってヤコブが最後にどうしてもしなければならない大切な儀式だったのです。今やエジプトの大臣の地位に就いたヨセフがイスラエルの後継者の一人として数えられるためにもなくてはならない神の祝福なのです。ヤコブはもちろんのことヨセフもエジプトの大臣としての地位よりはるかに大切な継承者として認められなければならないことを理解していました。ゆえに、エジプト人として生きることではなく、父ヤコブからの祝福を受けるために二人の息子を父ヤコブの養子に差し出すことに何も躊躇することなく従っているのです。
父イスラエルは老齢のため目がかすんでよく見えませんでした。ヨセフの父は、エフライムとマナセの顔さえよく見えないのです。ヨセフは父イスラエルが右手を伸ばせば長男マナセに届くようにを立たせ、左手側に次男エフライムを立たせました。そして、長男マナセが長子の権を受けられるように配慮して立たせました。にもかかわらず、ヨセフの父ヤコブは自分の手をわざわざ交差させ、ヤコブの右手をエフライムの頭の上に置き、左手を長男の頭の上に置いたのです。ヨセフが気付いたときはもう手が置かれていました。やり直すことはできません。ヤコブの養子となったヨセフの二人の息子の頭に手を置きヨセフの祝福として祈った言葉を読みましょう。
15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。16 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
ヤコブはなぜ、素直に右手を長男マナセの頭に置かなかったのでしょうか。事前に次男の頭に右手を置くことは語っていません。それだけでなく、ヨセフがエフライムの頭の上に右手を交差して置いたことに不満に思い、父の手を置き直そうとしました。しかし、父はヨセフを拒んで「いや、分かっている。わたしの子よ、わたしには分かっている。」と語りました。父イスラエルは「弟の方が彼よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」と語りました。
聖書はヤコブがマナセではなくエフライムの頭に右手を置いたことを「彼はこのように、エフライムをマナセの上に立てたのである。」と記しました。
ヤコブは双子の兄エサウとの兄弟喧嘩を経験し、命を狙われ続ける苦労を経験したことを忘れているはずはありません。ヤコブは兄エサウが森で猟師の仕事から疲れ切って帰ってきたところでおいしい食べ物と引き換えに長子の権を奪い取りました。母リベカとともに策を練って目の見えない父イサクをだまし、兄エサウが受けるべき祝福を奪い取りました。この事件によって兄から命を狙われて、伯父ラバンのところへ逃げます。伯父の元で妻子と財産を得ることができましたが、今度は伯父に欺かれて、伯父のところから逃げ出しました。東ヨルダンのヤボク川は、この川を渡ると兄エサウと再会することになる場所でした。ヤコブはそこで一人の人と会いすもうをとります。朝まで取っ組み合いをしても決着がつきません。ついにその人はヤコブの足の関節を打ち、ヤコブは自由に歩けなくなりました。神ご自身はヤコブが勝ったと言われます。しかし、神が圧倒的に強いことはいうまでもありません。なぜ、神がヤコブに軍配を上げたのでしょうか。それは、神との格闘においてヤコブが最後の最後まで足が不自由になっても降参しなかったからではないでしょうか。神と格闘したヤコブは神に屈服して、足を引きずって歩くようになりました。この時、夜明けを迎え、ヤコブはイスラエルという名を与えられました。ヤコブという名は「欺く、引っ張る」という意味をもっています。イスラエルは神が戦うという意味の名前です。最後まで神に対して真面目に戦ったヤコブに、お前のために神が戦うという名を与えたのです。兄エサウから長子の権を奪い、祝福を奪ってきたヤコブは、神が戦ってくださることに信頼し続ける者に整えられていったのです。
ヤコブが手を交差してエフライムを右手で祝福した理由を聖書は語りません。私たちにとって大切なことは、ヤコブがイスラエルに改名し「奪う者」から神の戦いを信頼し、神に委ねる者へと変えられたことです。ヤコブが兄エサウから神の祝福を奪った罪は、ヤコブが生涯苦しみながらも神の導きを知る者になりました。ヤコブの右手は神の右手として受けとめたいと思います。ヤコブの思いを超えて神がヤコブの手を交差して祝福を与えたのです。
私たちの考えや思いを超えた、神の導きとして私たちの手が神によって動かされ、私たちの目には間違いにしか見えない出来事の中にも神のご計画があることを信仰によって受けとめなければならない時もあると思うのです。ヤコブは自分で長子の権や祝福を奪い取ったことをエサウの前で赦しをこいました。そして和解することができました。創世記33章11節です。ヤコブは神がわたしに恵みをお与えになったと告げます。波乱に富んだ人生を通して、神の戦いを共に担い、神の導きに従う者にされたのです。
年老いて死を目前にして、最後の使命を全うするために、ヤコブは息子たちのヨセフを巡る深い葛藤を覚えて、神の顔を見ているのです。
ヤコブの家の問題のはじまりは、父ヤコブが10人の兄たちには過酷な労働をさせ、ヨセフだけを溺愛し、労働をさせない長い服を着せたことでした。ヤコブはヨセフだけをそばに置きました。ヨセフもヨセフで、自分の見た夢をこれ見よがしに、遠慮も思いやりもなく、一人誇らしげに、兄たちが自分を拝む姿、父も母も自分を拝んでいる夢を、一日の労働で疲れ切った兄たちに語る無神経なヨセフでした。兄たちの心の奥底に憎しみのマグマが大きくなりました。そして、当然のようにヤコブの家の平和が破られてしまいました。兄弟の絆が切断されました。ヤコブ物語において大切なことは、聖書は問題の原因は何であるのか、犯人は誰なのか、誰が被害者で誰が加害者であるのか、問題のない善人は誰かという視点で書いていないということです。聖書は簡単に人を善と悪に分けないのです。ヤコブもヨセフもヨセフの兄たちも結果的には問題児です。兄たちがヨセフの服に動物の血を浸して、使いの者の手で父ヤコブに見せ、ヨセフの兄たちは父と顔を合わせませんでした。父の顔を見ることを避けたのです。父の顔を避けるとき、神の顔を見ることは出来ないのです。ヤコブは神などいないかのように嘆き悲しみました。信仰はどこへいってしまったのか、神が見えない生活でした。ヨセフがエジプトに下ったとき神の救いの先手が伸ばされていたのです。そして、死の直前、ヤコブはこれまでの自分のいたらなさ、弱さ、惨めさを思い起こしていたことでしょう。しかし、ヤコブは自分に与えられている最後の務めを果たしているのです。
アブラハム、イサク、ヤコブの神が、彼らの身代わりとなって戦ってくださったのです。アブラハムのために、イサクのために、ヤコブのために、戦ってくださるのです。イスラエルと呼ばれたヤコブは目が見えなくなっても神の顔を見続けることが出来ました。神が与えてくださった信仰によって、神の顔を仰ぐことが出来るのです。
もう一度、神の恵みを受けとめつつ15節と16節を読みましょう。
15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。16 わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
私たちは、神が御顔を向けてヤコブたちのために戦ってくださったことを覚え、主イエス・キリストが十字架上で祈りつつ、私たちの罪を克服するために戦ってくださったことをしっかりと受けとめたいと願います。私たちの人生は神が戦ってくださる人生なのです。