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銀座の鐘

「ヨシュアを立てる神」

説教集

更新日:2025年10月04日

2025年10月5日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 世界聖餐日・世界宣教日  牧 師  髙 橋  潤

ヨシュア記1章1~9節

 本日から数週間、旧約聖書ヨシュア記の御言葉からお聞きします。旧約聖書の伝統的な区分は創世記から申命記まで、最初の五書をモーセ五書として区分し理解してきました。ユダヤ教においてもモーセ五書をトーラー(律法)として特別な権威をもって理解しています。モーセ五書の最後の書である申命記は、34章においてモーセの死が記されて、閉じられています。五書をモーセに由来する律法として理解するのが伝統的な理解です。
 次のヨシュア記以降は預言書に含まれる別の区分に分類されます。そしてヨシュア記はモーセの死後の時代が描かれています。しかし、この伝統的な理解に対して五書ではなく六書説という学説が登場しました。創世記からはじまった神の救いの物語はモーセの死で終わるとアブラハムに与えると約束した、約束の土地がどうなったのか分からなくなるのではないか。創世記で神が約束した土地が与えられるのはヨシュア記であって、約束の土地カナンに12部族が定住するヨシュア記によってアブラハム以来の神の約束が歴史的に成就するのだから、神の救いの物語は創世記からヨシュア記を最初の区分として理解しなければならないという六所説が登場しました。六書説は、神との契約、律法として十戒が与えられ、約束の土地が与えられるヨシュア記へと続く神の救いの主題が一貫していると理解しました。特に申命記とヨシュア記のつながりは強く、ヨシュア記は申命記の律法を土台として、神の民を荒野から約束の地へ導く物語として描かれていることを強調しています。
 現代ではモーセの死という歴史的な断絶の危機から出発した申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記にまでおよぶ膨大な歴史文学をまとめた申命記的歴史家がいたと考える、申命記的歴史として読むことの大切さが強調されています。
 私たちは学説は学者にまかせておけばよいのですが、ヨシュア記を読み始めるとき、申命記最後のモーセの死が結末ではなく、この神の民の崩壊の危機にヨシュアが立てられたことを神の深いみ旨として覚えたいと思います。ヨシュア記を読み始めることによって、神が約束した約束の地へ向かう道を通して、神の導きを信仰の糧としたいと思います。
 創世記からヨシュア記へ、そして列王記まで一貫しているのは「救済史」、すなわち神の救いの歴史です。ご一緒に神の救いの物語を御言葉に導かれて辿りたいと思います。
 ヨシュア記はモーセの死という出来事を申命記から受け取ります。大切なことはヨシュア記が申命記からバトンを受け取り、ヨシュアをモーセの後継者としている神の御心です。ヨシュア記はモーセの律法と契約を引き継いで、約束の地を目指しています。モーセの死で十戒や申命記の精神がこれからも重んじられていくことを忘れてはならないのです。
 ヨシュア記は出エジプトの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に定住するという、神の約束が実現したことを伝えています。神の約束は成就するのだ、と力強く証ししています。ヨシュアはモーセが命じられた律法を忠実に守ることが、神の民を導く指導者になくてならない精神として律法を受け取っているのです。ヨシュア記1章7~8節に記されているとおりです。
 「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」
 ヨシュア記は、そのあとに置かれている士師記のような混乱や列王記のような失敗と比べると「理想的な時代の出発点」と言われます。神の御心に従うことによって、このように祝福されるという模範が示されているのです。
 私たちがお手本にならって腕を磨くように、模範としての生き方をしっかりと受け取ることは、何を習うにしても大切なことです。信仰の基本を身に着けるためには、ヨシュア記は申命記の精神を身につけることが最も大切であると語っているのです。
 ヨシュア記は申命記を受け継ぎ、申命記から命を与えられて希望に生きる道です。後の時代には、ヨシュア記が理想的なモデルとなりました。士師時代や王国の歴史は、申命記の精神を基準にして、なぜ士師や王が失敗したのか判断しているのです。
 ヨシュア記の構成は、1章と23,24章によって神学的な枠組みを構成しています。2章から12章が約束の土地カナン征服、13章から21章は土地の分配について書かれています。
 本日の1章6節は、1章1節から主なる神がヨシュアに語った言葉です。「6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」神はモーセの死後、神の民を導く指導者としてヨシュアに語りかけます。5節に「一生の間」とありますから、期間限定の仕事をお願いするということではないのです。そうではなく、一生、命をかけて神と共に生きる使命が与えられているのです。ヨシュアを立てる御言葉は、申命記3章28節、31章6~7節、23節において語られていました。
 申命記 3:28 は、モーセが神に私にも約束の地へ渡らせてくださいと懇願した時、モーセの願いを退け、神がモーセに語ったことばです。「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」と、モーセに対してヨシュアを立てるとと語られた言葉です。申命記 31:6 は、モーセがヨシュアを含めた全イスラエルの神の民に語った言葉です。
「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」
そして、続けて申命記 31:7 では、モーセがヨシュアを呼び寄せて全イスラエルに語った言葉です。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。」
 申命記 31:23 は、主なる神がヌンの子ヨシュアに命じて言われた言葉です。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、わたしが彼らに誓った土地にイスラエルの人々を導き入れる者である。わたしはいつもあなたと共にいる。」
 このように神はヨシュアに使命を与え、モーセの後継者としてヨシュアを立てました。ヨシュアを立てるために繰り返しモーセを通してヨシュアに語らせ、神自らもヨシュアに命じていたことが分かります。
 モーセを通して、神の使命を与えられたヨシュアが生きた現実は、モーセ死後です。時代の終わりを予感させることはあっても、どこに希望を見出せばよいのか、誰にも分からない現実のただ中です。強い指導者がいない中で、モーセからヨシュアへ指導者の交代には大きな壁があったと思われます。
 日本においても首相の交代期を迎えています。世界各国の指導者が交代することは場合によっては大問題です。
 旧約聖書では、ダビデ王がソロモン王に「強くあれ」という励ましと「律法を守れ」との勧めと「神の助けの保証」を与えていました。モーセからヨシュアへの継承が語られていたように、王の交代においてもモーセからヨシュアへの継承が基準になって、大切な歴史を思い起こすのです。
 神がヨシュアに対して「強く、雄々しくあれ」と語る激励は、ヨシュア記1章に4回も繰り返されています。(7節9節18節)神の激励は、無責任な励ましではなく、武器をもって突撃しろという戦闘ではないのです。「強く、雄々しく」あれという精神は、ヨシュアの頑張りや忍耐ではないのです。そうではなく、ヨシュアを通して神の民の生き方を支え、保証しているのは、なんであるのかを知らせているのです。それは、ヨシュアを最後まで支え抜く神の決意なのだということです。神がヨシュアに与える激励の背後には、神がモーセという偉大な指導者を見守り、支え、育て、養い、訓練して、モーセの死まで看取った神の憐れみとご自愛があるのです。そして、今やモーセの後継者としてヨシュアを立てるにあたり、神はヨシュアに、神の決意、神の保証の言葉を与えているのです。ヨシュア1章5節「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」
 神の御言葉に従って生きるということは、神がモーセを支え抜いたように、ヨシュアを支えるということです。モーセを支え導かれた神は、エジプトの奴隷たちの叫び、呻き、嘆きを聞いてくださり、モーセをエジプトへ連れ戻し、エジプトの王ファラオと対決させ、神の民をエジプトから脱出させる決断をして、モーセの死を越えてヨシュアにバトンを託させ、死を越えて二人をつないでいるのです。
 「モーセと共にいたように、あなたと共にいる」という神の約束は、モーセからヨシュアへそして、旧約聖書の神の救いの歴史を通して、途切れることのない約束であり、新約聖書によって私たちの救い主、主イエス・キリストによって貫かれている救いの約束です。
 わたしたちは人間に命を任せるのではなく、神の愛の決断に身をゆだね、神のみ声に聞き従いたいと願います。主イエス・キリストの誕生の時、主の天使が主イエスを「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は神は我々と共におられる」と語ったように、旧約聖書、新約聖書を貫く神は、モーセと共に歩いたように、そしてヨシュアと共に歩まれるように、そして新約聖書を通して伝えられているように、神を信じる一人一人と共におられるのです。
 私たちは神が共にいることを忘れ、目の前の危機に「うろたえ、おののく」者です。そのような時こそインマヌエルの主を賛美して、神が共におられるゆえ、うろたえることもおののくこともないと賛美して神を仰ぐのです。
 私たちが神を信じるということは、このインマヌエルの神の保証によって生きるのです。今年の夏も数名の方々を神の御許に送りました。私たちの信仰生活もモーセのように志を全うすることが出来ないまま人生の終わりを迎えることがあります。たとえそうであっても、神は私どもの死を越えて、大切なバトンを後継者へ手渡してくれることを期待したいと思います。神の決意は、歴史を貫いて、神の救いの歴史を完成させてくださるのです。
 この神が決意された救いの歴史をこれからも共に歩み続けたいと願います。

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