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銀座の鐘

「エリコの陥落」

説教集

更新日:2025年10月11日

2025年10月12日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)神学校日・伝道献身者奨励日 副牧師 川村満

ヨシュア記6章12~21節

1,信仰生活の戦い
 信仰生活とは、戦いの生活である。そのように言うと、皆さんはどのように感じるでしょうか。ああ、そうだ、わたしはまさに今戦っている。苦しみと闘っている。仕事と闘っている。試験勉強と闘っている。病気と闘っている。人間関係のストレスと闘っている。不信仰な自分と闘っている。あらゆる状況の中で、そのように思う方もいらっしゃるかもしれませんし、いや、わたしは、神様の恵みを受けるために、教会に来ているのに、戦え、だなんて言わないでほしい。そういう思いを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、わたしたちは教会に、第一に慰めを求めに来ていると言ってよいと思います。そして、神が与えてくださる慰めは、世のもたらす慰めよりも確かなものです。教会を通して神が与えてくださる慰めとは、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと、神の子とされているという確信です。主イエスにあって神が共におられるという信頼です。これにまさる慰めは世にはないのです。喫茶店に行ってほっとする。ゴルフクラブで汗をかいて楽しむ。温泉旅行などにいってほっとする。そういうのも一つの慰めであるかもしれませんけれども、それらは、いっときの気晴らしにはなっても、私たちの魂の芯にまで至る慰め。本当に苦しい日の慰めではないのです。教会において与えられる神様の慰めとは、明日たとえ死ぬことがあったとしても安心して死ぬための慰めなのです。主が共におられるということはわたしたちの全存在を慰め、癒し、力を与えるものなのです。しかしそのような恵みを受けて生きるわたしたちは、その恵みの中で必ずと言ってよいほど試練に遭うのです。戦いが起こるのです。それは、私たちの信仰が試される。信仰によって生きているかどうかを試される。神からの試練であります。そしてそれは純粋に、霊的戦いなのであります。霊的、などという言葉は聞きなれない人もおられるかもしれません。つまり、わたしたちは「信仰によって望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する。」そのような者とされました。(ヘブライ 11 章1節)信仰とは目に見えるものではないけれども、神が聖霊において私たちの内に生きてくださっていることを信じることができる。それゆえに死が終わりではなく、死んでからのちに、わたしたちは神の国に必ず入ることができる。その神の国の御支配はまだ先のことというのではなくて、すでにこの地上において、経験することができるのです。神に祈り求め、それが聞き届けられ、道が開かれていく。そのような経験をするとき、ああ、わたしたちは神の霊的な恵みの中にあるのだと、確信するのであります。わたしたちの生活の中に神様が恵みをもって介入してくださっていることを疑えなくなるのです。しかし同時に、これまで、わたしたちが世の中と同調して歩んできた中で、これは御心にかなうものではないと示されたものから離れていかなければなりません。聖なる神に従って、自らを正しく、清くするための戦いというものが生じます。キリスト者はもはやいかがわしい店には入るべきではありませんし、結婚している他人と性的な関係にはなってはいけません。あれもこれもと不必要に物を買いあさるべきではありません。またキリスト者は正月に、神社にお参りすることはいたしません。またキリスト者は占いなどに心向けてはならない。それらは、姦淫の罪。むさぼりの罪。他の神々を神とする罪であったりするからです。ほかにも、嘘をついてはならないし、隣人の悪口を言ってはならないし、怠惰に時間を過ごすべきではないし、神に与えられた時と、賜物を十分に用いて行かなければなりません。わたしたちキリスト者は、等しく、この地上で神の恵みを証しし、神に栄光を表す器とされたからであります。その全てをもって神を愛し、隣人を愛するように召されたのです。そしてそのような中で、わたしたちは日々、戦いがあると思うのです。神の側にある者ゆえの、自分の罪との戦い。そしてこの世界に暗躍する悪の力。デモーニッシュな力との戦いがあらゆる形において起こって来るということです。

2,神が戦ってくださる
 しかし、信仰生活をしていくうちにすぐにわかるのは、今申しましたようなことをわたしたちは完全にはできないという事実があります。うわべだけで、神様の教えを守れていると思っていても、その心の奥のひだまで見ておられる神様からすれば、全く守れていないのです。不完全なのです。わたしたちは日々、罪との戦いにおいて敗北せざるを得ない存在なのです。しかし、主イエスが、わたしたちの代わりに、この地上において完全に神に従いとおしてくださいました。その地上での歩みにおいて、父なる神を愛し、人々を愛し抜き、律法を守り通してくださった。その義が私たちに与えられたがゆえに、わたしたちは、今、罪人でありながらも、今日もこの御堂で、主の御前に感謝と讃美をささげる者とされているのです。主イエス・キリストにおける勝利に与かっているのです。
このように、わたしたちの歩みにはいつも、主の恵みが先立っています。ですから、わたしたちの人生の全てが失敗に終わっているように見えたとしてもなお、わたしたちは主の十字架によって、勝利の列に加えられることを信頼してよいのです。そのような安心の中で、わたしたちは地上の生涯を、主を証しするための戦いを戦うのです。

3,聖絶、聖戦をどうとらえるか
 さて、今日、私たちに与えられたヨシュア記の御言葉は、これまで申しましたような霊的な解釈としてまず、理解していかなければならない箇所なのであります。主なる神がイスラエルに与えてくださった約束。カナンの地をあなた方に与えるという約束。これは、私たちが将来に行きつくところであります天の御国の約束を象徴するものであります。この箇所に語られております聖絶という概念。ヘブライ語でヘーレムと言いますけれども、神にささげる戦いであり、滅ぼし尽くしてささげなければならない。そこで殺す敵に対しては、全く憐みをかけてはならない。全ての者を殺さなければならないとしています。そこにある宝も、全て神にささげるものであり、惜しんで取ってはならないのです。この聖絶という概念も、旧約聖書でしばしば語られている聖戦という概念も、わたしたちの倫理道徳の感覚からすれば理解できないと思います。神は憐みの神ではないのか。ここに語られる神は、ただ怒りの神。不条理な神としか見えないのではないか、という疑問が湧きます。そしてそれらの疑問は、神が愛の神であられるならば、なぜこの世界にはなお悪が存在するのか。なぜ戦争がなくならないのか。なぜ、そのような悪や人間の罪の中で巻き添えとなって死んでしまう人々。苦しむ人々が今もいるのか。そのような悪と、人間の苦しみを放っておかれている神は、愛の神ではないではないか。そのような疑問に通じるものが確かにあると思うのです。それに対してはこのように言うことができると思うのです。わたしたちはあくまで被造物なのであり、神こそが創造主であられるということ。創造主なる神は、私たちの命を生かすも殺すも自由なのであるということ。そして神は悪と不正に対して裁かざるを得ない方であり、その権威をお持ちであられるということ。なぜなら神は聖なる方であり義なる方であるからです。その聖と義から、わたしたちは程遠い罪人であり、エリコの町やソドムの町のように滅ぼされても仕方ないほどの罪の汚れの中にあるという事実であります。ですからわたしたちはこの地上の有り様や、その背後におられる神が不条理に見えたとしても、神を裁く側にはいないのです。飽くまで神のみがわたしたちを裁く側なのであります。わたしたちは聖書が語る言葉においてなお理解できないところがあるとき、それを主の御前に委ねつつ、主を讃美することが求められているのではないでしょうか。
 おそらくそのように言いましても多くの人々は納得できないかもしれません。しかし、ただ一つ、この世界が不条理に見え、神が不条理な神に見えたとしてもなお決してそうではないと言える根拠があります。それは、永遠なる神の御子が、受肉されて、この罪の世を生きてくださり、この世の罪を全て負って十字架におかかりになったという事実であります。罪と悪に対する聖絶の犠牲となってくださったのです。聖絶の標的となるべきわたしたちの身代わりとなってくださったこの方のゆえに、わたしたちは聖絶されずに済んでいる。そしてこの十字架の大いなる恵みの中に、この世界全体は包まれているのです。この世界はキリストの十字架において新しくされたのです。世界の救いは始まっているのです。そして神の戦いは今も、世界の終わりに至るまで今も続いております。
神は今も、戦ってくださっている。この世界の罪と悪を根絶やしにしてくださる日が来るのであります。この真理を知らされて、信仰を与えられたわたしたちこそが、自らの罪と世の罪の力に対する生涯における霊的な戦いに招かれている。そのようにしてわたしたちは地の塩。世の光となっているのです。

4,抜き身の剣をもった将軍
 ヨシュアは、神が命じられたエリコの町に向かいました。神が約束してくださったカナン。嗣業の地がとうとう目前に広がっているのです。しかし、その地には、なおそこに住んでいる人々がいました。エリコの町の高く長く広がった城壁を前に、戦いの準備をするために、ヨシュアは深く祈ったと思います。主は、ヨシュアに命じました。強く雄々しくあれ、と。そして約束してくださいました。どこに行ってもあなたの神、主は共にいる、と。その主の約束を信頼し、難攻不落とも思えるエリコの町を陥落するために導きを求めるのです。やがて、ヨシュアは目を上げました。すると、その前方に抜き身の剣を持った一人の男がこちらに向かって立っていました。ヨシュアはその男に歩み寄って問い尋ねます。「あなたは味方か。それとも敵か」すると彼は答えます。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアはこの男が、神の使いであることを悟り、深い恐れをもってひれ伏して聞きます。「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか。」すると将軍はヨシュアに命じました。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である。」モーセが、燃える柴の前で、神から言われたのと同じ言葉がヨシュアにも命じられます。履き物を脱ぐ。それは、主権を神の御前に差し出すということです。ヨシュアは自分の思いを捨てて、この将軍に戦いの主権を譲ります。ここから、神が先頭に立ってくださる戦いが始まるのです。ところで、この将軍は、実は受肉前のイエス・キリストであると言われております。このように受肉前のキリストが来てくださった姿だろうと言われる個所はほかにも多くあります。おそらく、そのように旧約聖書の中ですでに時折、主イエスが地上に来てくださり、神の民を導いてくださっているのです。そして今、聖霊の時代において、全て主イエスを信じる者の心に、聖霊において、主御自身がわたしたちと共におられる。主の将軍なる主イエスの御前に、わたしたちは人生の主権を預けつつ、主が先頭に立って戦ってくださることを信頼して歩んでいけるのです。

5,神の戦い方の不思議さ
 エリコの町は、イスラエルの民が自分の町を狙っていることを知って戦々恐々としていたことでしょう。城門を固く閉ざし誰も入れないようにしていました。主はそのときヨシュアに言われました。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」そのように約束されて、不思議な仕方でこのエリコの町を陥落させる方法をヨシュアに教えるのです。町の周りを、兵士たちがただ回るように命じられます。町を一周して、それを六日続ける。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を扇動する。そして七日目には、町を七周して、祭司たちは角笛を吹き鳴らす。その雄羊の角笛の音が聞こえたら、民は皆、一斉に鬨の声をあげる。すると町の城壁は崩れるのでそこから民は、皆突入せよ。非常に不思議な方法で戦うように主はヨシュアに命じられました。こんな方法で果たしてエリコの城壁は崩れるのだろうか?兵士たちも、イスラエルの民の全体も、半信半疑であったかもしれません。しかしヨシュアはおそらく、主の将軍が命じられたこの方法こそが、この分厚い城壁を崩す唯一の方法であると信頼したことでしょう。そして主の命じたことをただ信頼して実行するように祭司や兵士に強く命じたのです。ヨシュアは七人の祭司たちに雄羊の角笛を吹き鳴らしつつ、その後ろに主の契約の箱が進むように命じました。その前と後ろに武装した兵士たちが、進んでいました。ヨシュアは、わたしが鬨の声をあげよと命じるまでは叫んではならないと言います。そういうことを、六日続けました。最後に七日目の朝には、他の日と違い、七回も回ります。そして七回城壁の周りを回った時、ヨシュアは民に命じました。鬨の声を上げよ!主はあなたたちにこの町を与えられた。」角笛の音が鳴り響くとともに、ウォーっという大きな地響きのような民の声がエリコの城壁の周りに鳴り響いたことでしょう。すると、その声と共に城壁がくずれ、そこからエリコの町はイスラエルの兵士たちによって占領され、そこにいた者たちは皆滅ぼし尽くされたのです。

 そのようにして、エリコは陥落しました。ある人がここでこのように語っています。なぜ、七日かけなければならなかったのか。一日で七回回るのではいけなかったのだろうか。しかしそれは神の命じたやり方ではありません。わたしたちはすぐにそのように合理的な方法で、手っ取り早くことを成し遂げようとしたがるのではないでしょうか。しかし神様が命じられる方法。神様がわたしたちの人生においてわたしたちを導く方法は、わたしたちからすれば不合理で、意味の分からないことが多いのではないでしょうか。そして、現代においてこの神の不思議な戦い方は、第一に福音宣教において人間の言葉を用いられるということではないでしょうか。コリントの信徒への手紙一の 1章 21 節以下において使徒パウロはこのように語ります。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
この神の不思議な戦い方は今もわたしたち教会に受け継がれているのです。すなわち、宣教という、実にまどろっこしいやり方で。罪人である人間の口を通して。しかも世の無学な者たちを通してあえて語らせています。強い者ではなく、弱き者たちをあえて用いて、神はその御国をこの地上に打ち立ててくださるのです。この神の戦い方の不思議さを思うとき、誰も自分を誇ることなどはできないのです。ただ主にのみ栄光あれと、讃美をささげていくのであります。

6、勝利に向かって歩む人生
 主なる神はヨシュアに、この戦いにあたって、まず最初にこう約束されました。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。」まだ戦わない先から、こう約束してくださっているのです。しかしこの主の約束を信頼して、主が命じる方法に従って歩むことこそが、わたしたちが主の約束を私たちのものとするために大切なことなのではないでしょうか。そしてそれこそが、今わたしたちが信仰において歩むこの地上での歩み。信仰の戦いなのだと思うのです。すでに主がわたしたちに約束してくださっているのは、神の御国。永遠の命であります。全ての罪が赦されて神の子とされているということです。その恵みに立って、わたしたちは御言葉を信頼し、従って行く。そこに、必ずわたしたちの救いが成就するのです。

 考えてみますと、わたしたちの生活とは、エリコの城壁を毎週ぐるぐると回り続けるような日々であるかもしれません。なぜこんなことをしているのだろうかと迷いを持つようなこともあります。しかし確かなことは、主が命じられた道を歩んでいるのです。主が伴ってくださっているのです。そのことを信頼しなければなりません。また、その一週間の歩みの中で、しばしば理不尽な出来事が私たちを襲います。辛いこともあります。何が起こるかわかりません。わたしたちは自分の人生を制することはできません。「一瞬先は闇」という言葉は、救われたわたしたちにも、まだ無縁ではないかもしれません。試練は突然に襲い掛かることがあるのです。しかし神を信頼して生きる者にとって、闇はもはや闇に終わりません。闇の中でも光を灯してくださる方がいるからです。どんな闇の中にも私たちと共にいると約束してくださっている方と共に、私たちは、一日一日、エリコの城壁を回り続けるのです。そしてヨシュアが、最後に、鬨の声を上げよと命じたように。主はこの日曜日。主の日に、この御堂で共に集まって讃美の声を上げ、主なる神こそがわたしたちの人生の主であり、この世界の主であることを告白するのであります。その繰り返しの中でやがて、わたしたちの人生の終わりが来ます。しかし主を信じる者にとって死は最後ではなく眠りにすぎません。その、ひとときの眠りから覚めて、皆、神の審判の日に主イエスの御前に立つのです。そしてその日、わたしたちがこの地上においてわからなかった神の知恵と神の深い御計画の全てを知らされるに違いありません。その日、神は、理不尽なる神。不公平な神ではなかったということを、キリストの十字架と復活の恵みの下ではっきりと知らされる日が来るに違いありません。イザヤ書 55 章の御言葉にありますように「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」この御言葉をわたしたちは本当に悟るに違いないのであります。そして全てが、神の御栄光のために。全地が主の栄光を讃えるためにあるのだということ。わたしたちこそが主の栄光を讃えるために生まれてきたことを心から感謝する日が来る。その約束の日を待ち望みながら、また新しい一週間を、主の霊に導かれて歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。エリコの陥落の物語を通して、主の御言葉の約束と命令に従うことの大切さを知らされております。あなたが約束してくださいました全てを信仰においてしっかりと受け止めることができますように。信頼して従って行くその歩みの最後に、あなたの栄光を仰ぐことができますように。その素晴らしい将来に、ここに集う、誰もこぼれ落ちることのありませんように。この地上でさまざまな試練に遭います。しかしその試練の中で、信仰を失うことの決してありませんように。信仰に固く立ち続ける者とならせてください。信仰の戦いを立派に戦い抜く者とならせてください。この言い尽くしません感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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