銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 「洗礼による恵み」


銀座の鐘

「洗礼による恵み」

説教集

更新日:2025年11月08日

2025年11 月9日(日)聖霊降臨後第22主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙6章1~4節

 わたしたちキリスト者は、どのようにしてキリスト者になったのでしょうか。誰も自分ですべて整え、自分で勝手にキリスト者になったという人はいないでしょう。神の恵みが働いて、神を信じたいという思いを起こされたのではないでしょうか。幼児洗礼を受けた人ははじめから自分より大きな神の恵みの摂理が働いており、成人洗礼を受けた人でも洗礼を受けたい気持ちを起こされたのは、神の恵みの御意志が働いたというほかないのではないでしょうか。そして洗礼を受けて、キリスト者にされました。神が恵みをもってわたしたちを赦し、神の子としてくださったわけです。そのとき罪の増すところで恵みはいっそう満ち溢れたと言われます。キリスト者とされたのは、満ち溢れる恵みによったことでした。
 そこで問いが湧きます。神の恵みによって神の子、キリスト者とされながら、わたしたち自身の人柄や生き方は、相変らず、罪の中にとどまっているのではないだろうか。それで聖書は「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」「決してそうではない」と語ります。罪の増すところ恵みはいっそう増し加えられたと言われるのは、その通りで、だからこそわたしのような者も恵みの中でキリスト者とされました。それなら罪にとどまったままよいのでしょうか。、もしそれでよいと主張するなら、それは甘えた、身勝手な主張になるでしょう。神の恵みがいかに厳粛な意味での恵みであるかを思い、御子・主イエス・キリストの十字架の死をもって遂行された赦しと勝利の恵みであることを思いますと、「罪にとどまるべき」という考えになりようはありません。
 しかし、「罪とどまるべき」と主張するのではありませんが、事実上の問題として、わたしたちが相変らず罪の中にとどまってしまっていると思われることはあるでしょう。神の恵みを知らなかった時と恵みに入れられた後の自分で、何の変化もないと感じてしまうわけです。信仰生活を何年生きても、相変わらず罪の者で、神の子らしくない、そういう思いが胸を衝くことがあります。神様との関係を希薄にし、相変らず神の御心を痛め、自己中心で、他者への愛の薄い日々を送っている、そんな感じ方にとどまっていることはないでしょうか。信仰の筋道としては、恵みによって罪を赦され、義とされ、神の子とされています。ですが自分の経験のではなお罪の中にとどまっている。そう感じてしまうことはないでしょうか。
 しかし今朝の御言葉は「罪に対して死んだわたしたち」と語ります。そのわたしたちが「なおも罪のなかに生きることができるでしょうか」と言います。神の恵みは、わたしたちの命を、一度は死んだ命に変えていると言うのです。恵みに生かされていることは、古い自分が死んで、新しい命に生かされている、それはキリストと共に生きている。それが恵みによる命るということです。神の恵みは観念的でも抽象的でもありません。恵みの話は、具体的に洗礼の話になっていきます。恵みを受けたとは、洗礼(バプテスマ)を受けたことです。
 それでは洗礼とは何でしょうか。洗礼は十分に分かってから受けなければならないものではありません。ひとそれぞれに理解の幅があり、比較的よく分かって受けたいと思う人もいるでしょう。しかし洗礼には受けてからでなければ、分からない面があります。信仰生活は、洗礼を受けることから始まり、受けたその洗礼の意味に気が付いていきます。そしてそこで起きたことが、いつでもわたしたちの人生の根本にあると気付くでしょう。それが重大なことです。
 パウロはここで「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と言っています。「キリスト・イエスに結ばれるために」と訳されているのは、「キリスト・イエスの中にバプテスマされた」という言葉です。キリスト・イエスの中にバプテスマされたとは、キリスト・イエスの中に浸され、全身入れられたということです。当時の洗礼は川の中で行われました。パレスチナではヨルダン川で、ローマならティベリウス川です。川の中で全身が水に浸されたでしょう。今では、礼拝の中で頭に数滴水を浸される形の洗礼が行われますが、中身は同じです。重大なのは、その時にしっかり分かっていなかったとしても、「キリストの中にバプテスマ」されたということです。そこには、「彼の死の中にバプテスマされた」ことが含まれています。わたしたちがキリストの中に浸され、キリストの中に入れられてキリストのものとされ、キリストの体の一部にされている、それが、神の恵みです。そしてそうであれば、キリストの死の中にも浸されているわけです。キリストの死と言えば、わたしたちの罪のために主イエスが代わって審判を受け、わたしたちを赦しの中にいれてくださった、あの主の十字架の死です。
 バプテスマをうけたわたしたちは「皆」とあります。洗礼の意味の理解にはそれぞれ幅があり、違いがあり、よく分からないうちにも、どうしても受けたくて受けた人も、なかなか受けられなくてやっと地上の命の最後に受けた人も、「皆」です。洗礼を受けた人は例外なくということです。その人はキリスト・イエスの中へといれられ、主の体の一部とされた。それが恵みです。そしてその恵みには、キリスト・イエスの中に浸されたゆえに、その死の中に入れられ、さらにはキリストと共に葬られたとさえ言われます。キリスト者はみな、例外なしにキリストと共に死んで、さらに葬られた人なのです。
 バプテスマが死と結びつくのは、水の中に浸されれば誰も生きていられないことから来ています。頭から数滴の水を受けましたが、それは全身水に浸されることを表しています。水の中に全身浸され生きていける人はいません。バプテスマは古き自分に死ぬこと、それもキリストの中に浸(ひた)されてです。
 バプテスマが死と結びくのは水に潜らされて生きられる人はいないからだけでなく、主イエス御自身がご自分の十字架の死をバプテスマと呼んだことを忘れてはならないでしょう。洗礼者ヨハネから主イエスは罪の悔い改めのバプテスマを受けました。御自身罪がないにも、かかわらず罪の者たちに連帯して罪からの悔い改めのバプテスマを受け、その時以来、罪あるすべての人のためにその贖いとして御自身を献げる決意をなさり、十字架への生涯を歩まれました。そして御自分の十字架の死を「バプテスマ」と呼んで、「わたしには受けなければならないバプテスマがある」(ルカ 12・50)と言われたのです。ですから神の恵みは、そのイエス・キリストと一体になる洗礼の中にあり、キリストと共に死に、共に葬られ、そしてキリストと共なる新しい命に生かされるのです。
 自分の人生を顧みて、キリスト者として何の変化もない、相変らず罪にとどまっていると言うなら、その自己認識は本当の事実ではありません。あなたは神の恵みのバプテスマによって主イエス・キリストの中に入れられているのが、真の現実です。そしてキリストの中に浸されることによって、キリストと共に死に、キリストと共に葬られ、キリストと共に生かされています。あなたはもはや罪の支配下にはいません。罪に対して死んでいます。自分は罪に対して死んだと認めなければならないでしょう。キリストと共に神の恵みの中に生かされていると認めることです。ですから、キリスト者たるもの、罪の意識に悩んではいけません。何か自分の失敗や足りない点などで不安に駆り立てられてもいけません。それは正しくない。バプテスマを受けてあなたは変えられた。キリストと共に死に、葬られ、キリストと共に生かされている。それがキリスト者の事実、例外なしの真実です。信仰生活はその喜びを根本にしています。それがわたしたちの人生を支えている一番深い事実であり、一番根本の真実であることを認めて生きるのが、キリスト者です。

 天の父よ、主イエス・キリストに浸された洗礼を受け、あなたの恵みの中に生かされておりますことを感謝いたします。この恵みを常に胸に覚えて、あなたより与えられる一日一日を喜んで生きることができますように。またこの恵みをわたしたちの基礎とし、また生きるエネルギーとして、信仰の証しをすることができますように。弱さを覚えている人々に神の恵みが生きるエネルギーの源であることを伝えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。

最新記事

アーカイブ