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銀座の鐘

「主イエスの召しに聞く」

説教集

更新日:2026年01月17日

2026年1月18日(日)公現後第2主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

マタイによる福音書4章18~22節

 年のはじめの礼拝にあって、キリスト者としてのわたしたちの信仰生活の初めに思いを向けたいと思います。
 お読みいただいた聖書の箇所は、主イエスがペトロとアンデレ、それにゼベダイの子ヨハネとヤコブをはじめて御許にお召しになったときのことを記しています。ガリラヤの湖で漁をとることをなりわいにしていた 4 人の漁師を主イエスは召して、御自分の弟子になさいました。一番最初の主の弟子たちのことを記すこの個所は、この 4人の弟子たちだけのことを記しているのではないと思われます。そうでなく、この後に続く多くの弟子たちのことも含めて、すべてのキリスト者に当てはまる主イエスの召しのことを記しています。
 今朝の聖書の中心にあるのは、4 人の漁師ではなくて、その人たちを召した主イエスです。わたしたちの主イエスは人々をお召しになるお方で、その召しはわたしたちにも向けられていると理解することが、今朝、御言葉をききながら礼拝するうえで肝心なことです。主の召しを思うとき、まず、主イエスが人々をお召しになるその文脈、前後関係を知る必要があります。この箇所の直前には、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」とあります。つまり主イエスがまずなさったのは、神の国の接近を伝えることでした。そしてその関連で、主はペテロたち 4人をお召しになりました。神の国は、唯一の真の神が王として、わたしたちと共にいて下さり、恵みの御支配をもって義と平和のうちに統治してくださる国、「神の国」(バシレイア・テウー)です。神の憐みと慈しみの満ち溢れる国、神の愛と御力による国、その神の国がごく身近に来て、もうすでにその力を発揮しはじめていると、主は告知なさいました。
この神の国との繋がりで、主は人々を呼び寄せました。神の国が近づいたと告げた主イエスは、神の民を召したのです。神の国には神の恵みの統治と共に、神の民がいるはずです。そのために、ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネ、それぞれをご覧になり、呼び寄せられました。「彼らをお呼びになった」とある通りです。神の国のために、その民とする人をお呼びになったのです。今日も主はお呼びになっています。わたしたちも主イエスに呼ばれ、召されて、神の国を本国とする神の民にされました。そのために主のものとされ、主の弟子とされたのです。
この「呼ぶ」、つまり「コール」したわけで、それが主の「召し」、コーリング、つまり「召命」です。主の弟子とされ、キリスト者とされたことは、神の国に属する「神の民」とされ、「神の子」にされたことです。「召命」を受けたかとよく伝道者に召される人に問われます。しかしそれよりも本来は、キリストの御そばに呼ばれ、神の民とされることが召命です。主キリストの召命なしには誰もキリスト信者になることはできません。召命を受けた人はみな、キリストの御そばに呼ばれ、神の民、神の子とされる喜びの中に入れられるのです。
あの 4 人の弟子たちと同じように、わたしたちも、主イエスが、わたしたちを見て、呼び、召してくださっている、と言わなければなりません。重大なのは、その呼んでくださったときの御言葉です。主イエスはこう言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。今日も復活の活ける主イエス・キリストからこう言われているのを聞かなければなりません。「わたしについて来なさい」。これを原文通りに言いますと、「来なさい。わたしの後に」です。「来なさい」と主が呼んでくださっています。そうされる資格がわたしたちにあるからではありません。誰の場合も、何か取柄があっての話しではないのです。「召された」のは誰の場合も、何の取柄もないけれど、にもかかわらず、そばに呼ばれたのです。むしろ欠けの多いこのわたしが「来なさい。わたしの後へ」と呼ばれました。「来なさい」はですから、何の資格もなく、そのままのあなたでということです。来てよいと言う赦しの言葉でもあります。そして御許に呼ぶ恵みの声です。主はわたしたちを受け容れてくださり、「来なさい。わたしの後に」と言われます。「わたしの後に」とおっしゃるのは、わたしたちに対する信頼の表現でもあるのではないでしょうか。同時に、主御自身がわたしたちの前に立ちはだかってくださる守りの言葉とも思われます。召しを受けるということは、主の後に身を置くことを許されることで、主イエスを模範にして従っていけるという意味もあるでしょう。しかしもっと根本には主の信頼の表現であり、また御自身の守りの中に歩ませてくださる主の憐みの言葉でもあると思います。主の召しは、わたしたちに対する主の赦しであり、信頼の現われであり、守りの中においてくださる主の愛の御業です。それによってわたしたちを御国の民、神の子とし、救いの中に入れてくださるのです。
  わたしたちには人生が分からなくなるときがあるのではないでしょうか。生きる意味も生き甲斐も分からなくなるときがあるでしょう。しかしどんなときにも、活ける主イエス・キリストからの召しを受けています。そのことを思い起こすことができます。今日も、復活の活けるキリストがわたしたちに目を留め、「来なさい。わたしの後に」と呼んでくださっています。そして神の国の中に、そして神の国のために生きる人生を主イエスの守りの中で歩むことができます。
主イエスの召しには約束が伴っています。「あなたを人間を獲る漁師にしよう」。どういうことでしょうか。人をとるというのは、とられた人も主キリストの召しを受け、神の国の民とされ、神の子とされて、救いに入れられることでしょう。わたしたちが主の召しを受けたのは、さらに主の召しが他の人にも及ぶため、そのためにわたしたちが用いられると言うことです。そのように人々のために祈り、できればそのためにこころを配り、その人が主の召しに気付くように、証しするということでしょう。
人を取る漁師にされるとは、主イエスから離れて先に行くことではありません。主の後から歩んで神の国の福音を伝える主イエスに用いられることです。神の国の民を集めるのは、主イエスが召すことによります。そのために仕えて、神の国の到来のために用いられる人々にされるわけです。それはまさしく教会の業でしょう。わたしたちは一人だけで召されたわけではありません。召された人々は群の中に共に召されています。それは最初の弟子のときからそうだったのです。
主から呼ばれ、召された者はどう対応するでしょうか。ペトロとアンデレは「すぐに網をすてて従った」とあり、ヤコブとヨハネも「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。どちらにしても「すぐに」従いました。「すぐに」という中に、主イエスの召しが権威を持った召しであり、またその召しが人生のどれほどの重大事であるかということを現わしています。さらには主の召しの素晴らしさ、それを受けた喜ばしさも表しているのではないでしょうか。召されたことから人生は意味と喜びを持ちます。
  「舟と父親を残して従った」ともあります。親も職業も捨てろというのではありません。ただし、活ける主イエス・キリストの後から歩み、真の神を神として、神の国を第一にして生きることです。その人生は、職業第一主義や経済第一主義にはならないでしょう。家族第一主義でさえもありません。どこに命をかけ、何のために生き、また何のために死ぬのかと問われれば、主イエスにある真の神が第一です。そしてその神の支配、神の国が第一です。そのために召され、主イエスの後についていきます。そして人をとる漁師として、主イエスの業のために用いられていきます。その中で家族も、職業も、あるいは地上の国に生きることも、新しい意味を見い出すのではないでしょうか。

  天の父よ。主イエス・キリストによる召しの御声を聞くことができて、感謝いたします。何の取柄もないわたしたちを、みそばに呼び、主の後に歩む者としてくださり、あなたの愛と義の国のためにお用い下さること、感謝いたします。どうぞこの年も、主に召された者としての喜びに生きて、御国の近き到来のために祈り、あなたの民を集める主イエスの御業に用いられますようにお導きください。独り子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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