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銀座の鐘

「やもめを憐れむ神」

説教集

更新日:2026年01月31日

2026年2月1日(日)公現後第4主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 髙橋 潤

列王記上17章8~16節

 「主の言葉がエリヤに臨んだ」と記されています。これは、北イスラエル王国のアハブが王になった紀元前9世紀のことです。アハブが王になったことを列王記は大変厳しい言葉で評価しました。列王記上 16 章 29 節から 33 節に記されていす。22 年間サマリアを治めたアハブは「それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」と評価されています。原因は、アハブ王がシドン人の王の娘イゼベルを妻に迎え、こともあろうに、イスラエルの神を礼拝することを中止して、イゼベルが連れてきた神々を礼拝するためにバアル神殿と祭壇を築きました。アハブ王の身勝手な行動によって、イスラエルの伝統が崩され、バアルとアシェラを礼拝するように変えられてしまいました。列王記はこのことを「イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」と記しています。このようなイスラエルの信仰の危機の只中で、主なる神が語り始めたことが冒頭の御言葉です。エリヤは神のみ声を聞き、神の言葉に従いました。
なぜ、預言者エリヤは立派な神殿や豊穣を願う祭壇の神々ではなく、姿も見えず小さな声の神に従ったのでしょうか。それは、預言者エリヤが神の本当の力、神の恵みを知っていたからではないでしょうか。本日の御言葉の直前に神はエリヤを憐れんで川のほとりへ導き、カラスを用いてエリヤを養いました。エリヤは神の力とは、この世のどのような権力にも比べることもできない圧倒的な憐れみの偉大さを経験していました。バアル神のために神殿を建て、夜通し行われる盛大な祭りが本当の神の力ではなく、エリヤを養い、やもめを憐れんでくださることにこそ神の恵みの力が発揮されることを経験していました。ゆえに、エリヤは一人であっても神に従い続けたので
す。
 北イスラエル王国がアハブ王によって信仰の危機に直面しています。そこに遣わされたのが預言者エリヤでした。エリヤは「孤独の預言者」と言われます。多くの預言者が預言者団という複数の預言者で活動しているのに、エリヤは一人で活動しました。仲間がいません。一人でイスラエルの信仰の危機に立ち向かわなければなりませんでした。神の言葉に従い孤軍奮闘、エリヤの最後は後継者エリシャに託して火の戦車で昇天したと語られています。エリヤは「炎の預言者」とも呼ばれます。
 炎の預言者エリヤが主の言葉を聞いた時は、神の言葉を聞く者がエリヤしかいなかったのです。主なる神ではなくバアルとアシェラという神々を祭る神殿がサマリアに導入され、豊穣祭儀が行われるように変わってしまいました。アハブ王が率先して神に背を向けました。そのような時代にエリヤはアハブ王の前に立ち、勇敢に語りました。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」と神の裁きを語りました。イスラエルは信仰の危機と同時に雨が降らない生活の危機にも直面しました。アハブ王が輸入して礼拝しているバアルとアシェラは雨を降らせる力を持つとされていました。バアルとアシェラは豊穣の神々ですから、大地に雨を降らせるはずだと信じられていました。18章のエリヤとバアルの預言者との戦いによって、その結果が明らかになります。
 主なる神はこの信仰の危機にどのようにエリヤを用いるのでしょうか。神は預言者エリヤにシドンへ行くように命じました。シドンに行くということは、危機に直面しているイスラエルを離れて国外に出ることです。イスラエルの信仰の危機に際して逃亡するように見えたかもしれません。しかし、そうではないのです。神はあえてエリヤをアハブが妻に迎えたイゼベルの出身地シドンに遣わしたのです。バアルの神々が大々的に礼拝されているシドンのサレプタに行くように、そしてそこに住むように神はエリヤに命じました。驚くべき神のご計画にはどのような意味があるのでしょうか。
 シドンのサレプタとは、現在のレバノンです。エリヤの時代サレプタは、古代フェニキアの工業と商業の都市でした。大変裕福な都市でした。サレプタはイスラエルを堕落させたバアルの神殿があり、豊穣の祭りとして男女のいかがわしい行為が公然と行われていました。神は預言者エリヤをあえてバアルとアシェラの神々が祭られる神殿の近くに遣わしたのです。このことはエリヤの命の危険を予想させる無謀な派遣ではないかと思われます。さらに神はサレプタで最も生きる力のない一人のやもめによってエリヤを養わせるという計画を進めました。神にとってこのエリヤの派遣はどのような意味があるのでしょうか。それは、サレプタにおいてバアルの神々とエリヤの神のどちらが本当の神であるかを明らかにしようとしているのです。盛大で豪華な神殿で祭られる神と最後の食事をして死を待つやもめと息子を憐れむ神とどちらが真の
神であるか、私たちに問うているのです。どちらの神が真の神でしょうか。
 イスラエルの神は、イスラエルの国内だけでなく国外においても神の御業を現すことができたことを証明しています。シドンのサレプタにおいて、もっとも哀れなやもめを用いてエリヤを養うことは、神がご自身の恵みと深い憐れみの力をエリヤに追体験させているのです。イスラエルの神の愛と恵みの力は、民族を越えて及ぶことだけではなく神はやもめにさえ目にも留められる力を表しているのです。
 サレプタにおいて奇跡が行われました。主なる神の奇跡とは、神殿を破壊するような暴力的な力ではありません。そうではなく、サレプタの神々が気にもかけず見失い見捨ててしまうようなやもめにこそ目を留め「瓶の粉と壺の油が尽きない」という愛の奇跡を行い、やもめとその息子を深く憐れむ愛の力なのです。
 新約聖書ルカによる福音書 4 章 25-26 節において主イエス・キリストが「エリヤの時代に多くのやもめがいたが、エリヤはイスラエルではなく、シドンのサレプタのやもめにだけ遣わされた」と語られています。ルカによる福音書 4 章 16 節以下において主イエスが朗読されたイザヤ書が記されています。ルカ福音書 4 章 18 節「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」

 神はイスラエルの信仰を回復するためにエリヤを用いてバアルの神々を圧倒する神の愛と憐れみの力を示したのです。バアルの神々が見向きもしないやもめ、神々が救うことができない最も弱いやもめとその息子を救う力を明らかに示しているのです。異教の地サレプタにおいてでも愛と恵みの力を発揮した神は、不信仰のイスラエルに対して、真の愛の力を示しているのです。
 サレプタのやもめの家に遣わされたエリヤは、10節以下、やもめに声をかけました。エリヤはやもめに水を求めました。一切れのパンも持ってくるように伝えました。やもめはパンがないこと、一握りの小麦粉とわずかな油で息子と最後の食事をして死を待とうとしていたことを告白します。エリヤはやもめに「恐れてはならない」と伝え、「まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。そのあとあなたとあなたの息子のために作りなさい」と伝えます。
 エリヤはやもめに対して、愛の神を信じて従うこと、エリヤの神を恐れることなく信頼して小さいパン菓子をエリヤに渡すことで神を第一とし祈る姿勢を教えているの
です。
 エリヤがやもめに求めたことは、死を覚悟したやもめにとって無理な要求に聞こえます。しかし、やもめは自分の命をエリヤの神に託して従いました。
 真の神に礼拝をささげること、死を前にしているからこそ命の源である神にすべてをささげて生きることを通して、神の恵みに与るのです。
 イスラエルの王アハブは、シドンの豊かさに目を奪われ、身も心も神から離れてしまいました。本来は豊穣の神々が行うはずの粉や油をもたらすことができず、真の神が尽きることのない壺の粉と瓶の油をお与えになったのです。
 私たちは目に見える荘厳さや偉大な自然を持つ宗教施設に心を奪われそうになります。しかし、神の愛の力は、異国の最も弱く小さな者へも注がれたのです。サレプタのやもめと息子はどちらの神を信じたのでしょうか。

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