「静かにささやく声」
説教集
更新日:2026年02月07日
2026年2月8日(日)公現後第5主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満
列王記上19章1~18節
01 アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。02 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
03 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、04 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」05 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」06 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。07 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。08 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。09 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」10 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」11 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。13 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14 エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」15 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。16 ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。18 しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日私たちに与えられました御言葉は、預言者エリヤの物語です。エリヤは、大勢のバアルの預言者たちとの戦いに勝利しました。主がエリヤと共におられ、天からの火が降って神の臨在の力を表されたのです。そのように、神の力を与えられて主に用いられたエリヤですが、本日読みました19 章ではエリヤは全く別人のように弱くなってしまっています。いったいどうしたのでしょうか。エリヤがしたことを夫のアハブから聞いたイゼベルは怒り狂って言いました。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように!!」イゼベルから命を狙われていると知ったエリヤは、これまでの勇ましさはどこにいったのか、途端にひどく恐れて、直ちに逃げたとあります。どこまで逃げたのかというと、北イスラエルというイスラエル北部から南に下り、べエル・シェバという南ユダの最南端の町でありました。預言者エリヤともあろう人がどれだけ怖がっているんだと思います。カルメル山での戦いの時とはまるで別人のようです。ある学者は、このときのエリヤは心の病にかかっていたのではないか。鬱の状態であったのではないかと語っております。4節でエリヤは「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と言って死ぬことを願うほどであります。なぜエリヤがここまで弱くなってしまったのかはよくわかりません。しかしここからわかることは、エリヤは決してどんな苦しみにも耐えることができるような強靭な精神の持ち主ではなかったということでありましょう。これまでエリヤが力強く歩んでこられたのはただ神の力を注がれていたからであります。エリヤ自身は、わたしたちと同じ弱い人間なのです。体力にも精神力にも限界のある普通の男であったのです。ある人が言うには、エリヤはこれまで神だけを見つめていた。だからエリヤは大きな力を受けて戦うことができたのだ。しかし人間の権力や暴力の現実を見ると途端に力がなくなってしまう。嵐の湖の中で、主イエスを見つめていたときには湖を歩くことができたのに、強い風に気が付いて怖くなった途端に沈んで溺れかけたあの使徒ペトロと同じことがエリヤにも起こったのだ。そのように語る人もおります。そうであるかもしれません。あるいは、エリヤはこれまでの働きを自分一人の戦いだと思っていたのではないか。自分一人で戦わなければならないなら、いくら頑張っても先が見えない、そのような戦いの中で心も体もすぐに疲弊し、限界を知らされていきます。
実に私たちもまたこの時のエリヤのように、精神的にも肉体的にも限界を感じて、もう駄目だ、これ以上やっていける自信がないと思うことがあるのではないでしょうか。エリヤは逃亡の旅の途中で疲れ果てて、えにしだの木の下で横になって眠ってしまいました。すると御使いが来てエリヤを励まします。御使いはエリヤに触れて言いました。「起きて食べよ」なんとエリヤの枕もとには、焼いたパン菓子と水の入った瓶がありました。神の御使いがエリヤに力を与えるために用意してくださったものでありました。エリヤはそのパン菓子を食べるとまた横になりました。主の御使いは再度、食事を用意してくれました。そこで御使いはエリヤにこのように優しく語りかけます。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」そのようなことがあってエリヤは四十日四十夜という長い時を、ひたすらに歩き、神の山ホレブに着いたのです。なぜエリヤが、長い時間をかけてこの聖なる山までたどり着きたいと願ったのか。ひとつはそれが神の導きによるものであったのでしょう。御使いが語るように、神の山ホレブへと神御自身がエリヤを導いたのでしょう。エリヤは、自分の働きが挫折したと感じていました。自分は先祖にまさる者ではない。アブラハムやモーセのように神の御心に生きることができる者ではない。そのような劣等感と挫折感に苛まれながら、それでも神の御心を問い、これからの自分の歩みを導いてくださる神からの御声を聞きたいと願ったのでありましょう。とうとう、エリヤは神の山ホレブに到着しました。しかしホレブに着いたエリヤは、山の山頂に向かったのではなく、洞穴に入り、そこで一夜を過ごします。まるで洞穴は、エリヤの暗い心を表しているかのようです。わたしたちも、恥や悲しみや、失望の中で、穴があれば逃げ込みたいと願ったときはなかったでしょうか。誰にも会わず、心を閉ざして一人になりたいと願う。そのようなことは人生の中で幾度かあるのではないでしょうか。エリヤもまたそうでありました。しかしエリヤはその洞穴の中で、主のからの御声を聞きます。
「エリヤよ、ここで何をしているのか」エリヤはおそらく、これまでの戦いの中で、孤軍奮闘してきた、という自負心があったことでしょう。しかし力尽きてしまった。その思いが彼の言葉からわかります。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。 」この言葉の中には、自己憐憫や、神への不平、訴えにも思えるような思いがあったかもしれません。なぜ一所懸命に働いた私の働きは、これほどにうまくいかないのか。なぜ私はこれほどに苦しみ、途方に暮れているのか。わたしはこれ以上はあなたのためには働くことはできません。もう十分ではないでしょうか。そういう思いがあったかもしれません。わたしたちもまたそのような思いに打ちひしがれることがあるのではないでしょうか。自分の願い通りに進まない人生。わたしなりに頑張ったけれども、さまざまな失敗をしてしまった。私と一緒に働いてくれなかった人たち。私の思いを汲んでくれなかった仲間たち。そういう思いを持つこともあったかもしれません。エリヤはそのようなわたしたちの思いを代弁して主に語っているかのようです。
しかしそのようなエリヤに主は言われます。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。」主なる神は、エリヤに、私の御前に立ちなさいと命じられるのです。そこには有無を言わせない迫力がありました。外を出ると、主が通り過ぎて行かれます。激しい風。山を裂き岩を砕く嵐のような風が吹きすさびます。しかしそこには主はおられません。風の後に、地震が起こります。しかしその地震の中にも主はおられませんでした。そのあとに火が起こりました。しかし火の中にも主はおられませんでした。ときに天変地異は神の裁きを表すとも考えられます。津波や大地震が起こった時、その被災地に赴き、これは神の裁きだから、今こそ神の御前に悔い改めなければならないと言った人たちがいたそうです。けれどもそういう伝道が功を奏したかというと、おそらくキリスト教に対する不信感を煽るような、逆効果になったことの方が多かったかもしれません。天変地異には、何らかの意味があるとは思います。しかしそれ自体が神の御心ではないのです。このような出来事の後に、「静かにささやく声」が聞こえてきました。その声に耳を澄ますために、エリヤは洞穴から出てきます。エリヤはそこで自分の心の中にうずくまることをやめて自分の外に出ていくのです。するとその静かなささやく声はこうエリヤに告げました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」そこで語られる御声は前と同じ言葉です。主はもちろんエリヤがそこで何をしているのかなど十分に承知しておられました。主がそこでエリヤに語られるのは、ただ、エリヤが本当に主の御前に立つためであります。エリヤはすでに主を知っていたつもりでありました。天の御使いから助けを与えられてホレブまでたどり着いたのも主の導きであることを知っていました。しかしなお主の御前に、本当の意味で立ってはいなかった。わたしたちもまたそういうことがあるのではないでしょうか。神を信じている。神の導きも感じている。しかしどこか、心が穏やかにならない。神の導きを信頼しきってゆだねることができない。なぜうまくいかないのかという思いの中でどこかで神様への不満が生じている。信頼しているからこそ生じる不満でもあります。信仰に生きようとするゆえに、神の御心が分からず辛いのです。でもそのような思いの中でわたしたちもまた、まだ本当に神の御前に立ち、神の御声を聞くことができていないのではないでしょうか。わたしたちもまた、礼拝の中で、あるいは密室の中で、日々新たに、神の御前に立たなければならないのです。
主の御声は同じことをエリヤに語ります。「ここで何をしているのか」エリヤは答えます。これまでの歩みを、そこでの不満や悲しみ。自分一人だけが取り残され、神の民であるはずの人々が自分を殺そうとしていることの悲しみを訴えます。そのこともしかし主は十分にご存じでありながら、全てを包み込んでエリヤを御自身の御前に立たせます。そして新たな使命。ハザエル、イエフ、エリシャに油を注ぎ、王と預言者にすることを命じます。これは預言者エリヤにしかできない大切な使命であり、彼らがエリヤの後を継いで、新しい時代の神の使命を担う者とされるのです。エリヤに命じたイスラエルの宗教改革の目的は彼らによって達成される。そして神の御業は時代を越えて続くのです。このように神の御計画は、人間の罪を越えてはるかに深く成し遂げられていきます。そしてその神の救いのご計画は、御自身の御子、イエス・キリストによる救いへとつながっていくのです。エリヤは、ここで新たに力を与えられました。エリヤは、自分が頑張らないとどうしようもない。自分には力がない。イスラエルの道はもはや暗澹たるものだ、そういう絶望や悲しみの中にあったかもしれません。けれどもそのようなエリヤの思いを越えて神が常にイスラエルを導いてくださるという希望の道が開かれました。そしてエリヤは最後の働きとして、ハザエル、イエフ、エリシャの三人に油を注ぐためにダマスコに向かいます。
主は最後にエリヤに言われます。「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」このバアルの偶像崇拝に染まったイスラエルに、まことなる神に忠誠を尽くす人々。偶像に膝を屈めず、口づけをしない人々が七千人もいるということを告げてくださいました。これはエリヤにとって驚きであり、大きな喜びであったのです。エリヤは一人で戦っていたのではないのです。もはやイスラエルに純粋な信仰などどこにもないと思える中で、神は全ての者の心の奥を見抜いておられ、七千人を残しているとはっきり告げてくださったのです。だからエリヤの働きには報いがある。そしてエリヤは安心して次の世代の人々に働きを委ねることができるのです。
わたしたちもそうなのです。わたしたちの人生におけるさまざまな働きには欠けも失敗も不完全さもあったことでしょう。うまくいかなかったこと。隣人との軋轢などもあったことでしょう。わたしの思いを受け入れてもらえなかった悲しみがあったかもしれません。もう一度やり直せたらやり直したいと願うようなこともあったかもしれません。けれどもなおそれでも、わたしたちはその働きを主の恵みの御手にゆだねて良い。なぜならその欠け多き働きの中にも主がわたしたちと共におられ、わたしたちの働きを祝福の内に導いてくださっていたからです。一人で頑張っていたのではないのです。主がわたしたちを導いてくださったからこそこれまでの歩みが支えられていたのです。その恵みに気付かされること。それが、主の御前に立つということであります。
しかしわたしたちの歩みは、仕事や子育てなどの第一線から退いてなお続きます。私たちのキリスト者として主を証しする歩みは、わたしたちの命の息が途絶えるその瞬間まで続きます。私たちにはなお、隣人を祝福する役目が残っています。ハザエル、イエフ、エリシャを祝福し、油を注ぎ、神の御前に使命を与えたように、わたしたちは家族を祝福し、人生で出会う隣人を主なる神の御下に導くためのとりなしの祈りをささげる役目がなお残っております。やがてわたしたちの歩みが終わりを迎え、天に凱旋するその日まで、なお与えられている日々を、いつも主の御前に立ちつつ、この世界のために。人々の祝福のために、祈り続けていきたいのです。お祈りをいたします。
天の父なる神様。弱く乏しい者でありながら、わたしたちをあなたの御前に立たせてくださり、わたしたちは今日も十字架の恵みの下に罪の赦しと永遠の命の下に感謝と讃美をささげます。どうかわたしたちが日々新たにあなたの御前に真実に立ち、あなたによって新たな力を得る者とならせてください。そしてその恵みに立ちつつ、人々を祝福する者とならせてください。体に弱さを覚えておられる方々、重荷を負っておられる方々を励まし、癒しと力を与えてくださいますように。礼拝に集うことのできない全ての兄弟姉妹の心にも聖霊なる主よ豊かに臨んでくださり、今日を生きる力を与えてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン