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銀座の鐘

「主イエス、病人を癒す」

説教集

更新日:2026年02月14日

2026年2月15日(日)公現後第6主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ヨハネによる福音書5章1~18節

 主イエスの御業の中に病人を癒す働きがあったことは、どの福音書にも、一度ならず出てきます。病人の癒しは、それだけ主の御業の中で重大なものであったと思われます。今朝はヨハネによる福音書5章1節以下に記されているベトザタの池での癒しの出来事から主イエスの働きを学び、活ける主イエスの御業を信じる信仰にしっかりと立っていきたいと思います。
 イスラエルの都であったエルサレムの中に五つの回廊に囲まれたベトザタという池がありました。実際、1949年の発掘調査で、この池と回廊の跡が発見され、その所在が確認されました。五つの回廊というのは、池の周囲を囲む四つの回廊があり、ほかにもう一つの回廊が、その池を二つに分けていたと言われます。
 ヨハネによる福音書は、この池の周辺、つまり五つの回廊には「病気の人」、「目の見えない人」、「足の不自由な人」、「体の麻痺した人」などが、大勢横たわっていたと伝えています。この個所を記している写本にはいくつもあって、池の名称も写本によって異なります。「ベテスダ」という名を伝える写本もあって、口語訳聖書はそれを採用していました。それで皆さんの中には「ベテスダの池」と記憶している方もおられるでしょう。共同訳聖書は別の写本を採用していますので、池の名は「ベトザタ」とあります。もし「ベテスダ」であれば、ヘブライ語で「憐みの家」という意味の池ということになり、病気の人が集まる池の名としては相応しいとも思われます。しかし現実のその池の光景は、とても「憐みの家」ではなく、悲惨な場所であったことが推測されます。と言いますのは、その池は恐らく間欠泉だったのでしょう。水が動くというのは、おそらく水が噴き出すときに動くのでしょう。そのとき真っ先に池に入る者が病気を癒されると言われていたようです。そうだとすると、水が動くたびに、多くの病人が我先に争いあって池に入ろうとする悲惨な光景が繰り返されたのではないでしょうか。
 そこに38年間も病気で苦しんでいる人が、横たわっていたと言われます。主イエスはその人を見て、もう長い間病気であるのを知り、そして声をかけ、その人を癒されました。その人の病気が何であったかは記されていません。それだけにかえって誰にとってもこの癒しの御業は、身近なことになります。38年もその場にいたと言うことは、その人の言い分では、自分には池に運び入れてくれる人がいないということで、言ってみれば、病気であるだけでなく、友人がいないこと、共に生きる人を持たない孤立した人生であったことが、長期にわたる病と結びついていたことになります。さらに言いますと、この人は主イエスのことを知っていません。キリストを信じる信仰生活を持ってはいませんでした。
 しかし、主イエスはその人を見て、病気であると知り、声をおかけになり、癒されたわけです。「良くなりたいか」というのが主イエスの声掛けでした。そして「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出したというのです。それがこの時の主イエスの癒しの御業でした。この出来事からわたしたちは、わたしたちも癒されるという思いを持って、主イエスの御言葉と御業を受け取りたいと思います。
 38年間の病の人は主イエスを知らず、信仰もなかったと申しました。ですからここでの癒しは、「あなたの信仰があなたを救った」とは言われません。癒しの業は、もっぱら主イエスがその人を見て、その病気を知ったことで始まり、そして声をおかけになったことで主イエスの業として遂行されました。主イエスの行かれるところ、そして主イエスがおられ、語りかけるところ、病人の癒しが起きたのです。そして今日も起きるでしょう。主イエスは「良くなりたいか」と聞かれました。良くなりたいと願うことは、誰だって当たり前とも言えます。しかし38年、おそらく人生の大部分を病気の中に過ごしてきたら、改めて良くなる意欲はとっくに衰えているとも考えられます。しかし主イエスはわたしたちに良くなりたいかと尋ね、良くなりたいと思う心を求めておられます。良くなるということは、病気でなく健康を欲することです。死ではなく命を願い、生きることを願うことです。神は命の創造者です。そして主イエスは復活の活ける主として、今日も共にいてくださり、働いてくださっています。「良くなりたいか」という問いかけで、主は命じておられるとも言えるのではないでしょうか。病でなく健康を欲しなさい。死ではなく、命を、生きることを願いなさい、と。38年間の病の人は、自分を池に入れてくれる人がいない、病から抜け出せないのは友人がいないからだと言います。この問題も誰もがもっている問題ではないでしょうか。沢山の友人がいるという人の話も聞きますが、友人がいないと言う人も多いのではないでしょうか。しかし主イエスは友人をなんとかして持てとは言われません。主イエスは友人を持つというより、あなた自身が誰に対しても、とりわけ困難の中にある人に対して隣人になるように命じておられます。ですから、友人を持てとか友人を作れというよりは、あなた自身が他の人の友になれと言われるでしょう。ですが、今朝の癒しの出来事の中では、それも言われず、主イエス御自身が38年間の病の人、池に入れてくれる人がいないと言った人の真実の友になったのではないでしょうか。
 このことは癒しの奇跡の結果から分かります。この病人を癒して、床を担いで歩きなさいと主は命じましたが、それが安息日であったので、安息日に床を担いで歩かせたと言って、「ユダヤ人たちはイエスを迫害しはじめた」(16節)とあります。さらには「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と主が言われたので、「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(18節)とあります。病人の癒しは、結果から言いますと主イエスの命掛けの働きになりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15.13)と同じヨハネによる福音書に主の言葉が伝えられています。主イエスは大きな愛を持って、わたしたちのために命を捨てて、病の癒しをなさいます。
 友人がいる、いないというときに、主イエス・キリスト、活けるキリストが共にいてくださることを信じて、活けるキリストこそまことの主であり、しかも同時に真実の友でいてくださることを思うべきです。活ける主イエスの愛の働きが今日もわたしたちを支え、生かしていると思うべきです。ですから、キリスト者であって、孤独な人はいません。活けるキリストが真実の友でいてくださるからです。
 「憐みの家」とも言われながら、実際は悲惨な場所が、主イエスの命がけの愛による癒しの働きによって、まことに「憐みの家」になりました。活ける主キリストがおられ、働いてくださるところ、そこは真の「憐みの家」になります。教会はキリストの体ですから、主によって「憐みの家」であり、またそうでなければならないでしょう。キリスト者の家庭もまた憐みの家であるはずです。主イエス・キリストが活けるキリストとして働いてくださるからです。
 主イエスはなぜ働いてくださるのでしょうか。それは主イエス御自身の言葉で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」(17節)と言われます。主イエスは父である神のひとり子である神として、父なる神が働いておられるゆえに、今も働いておられます。命の創造者なる神が今も働くゆえに、病を癒されるひとり子なる神も働いておられます。病人の癒しが起きている所、そこに主イエスが働いておられるのではないでしょうか。
 わたしたちは主の御意志、主の御命令に従って、病よりは健康を欲し、死ではなく命を願い、生きることを願うと共に、活ける主イエス・キリストがわたしたちを生かす主であり、真実の友であることを信じて歩みます。
 キリスト教伝道は医療の発達にも影響を与えました。医療活動の不十分な地域にはクリスチャン・ドクターを派遣し、医療伝道の形の伝道も行われてきました。独善的な主張になってはいけませんが、福音の伝えられるところ医療活動がもたらされたのです。逆に言いますと、心中密かに思うのですが、一人の病人を救急車が運びます。他の車は一斉に脇に寄り、赤信号の中を救急車は突き進みます。一人の人の命がそれだけ重要なのだと、誰が教えたのでしょうか。キリスト教伝道の進むところ、一人の命の尊さが伝えられます。病気でなく健康を欲し、死ではなく命を願う。なぜなら、主イエス・キリストが命を懸けて癒すことに働いておられるからです。

 天の父よ。あなたが今日も働いておられるので、独り子・主イエス・キリストも働かれると聞きました。主がご自分の命を懸けて、病める者の癒しにお働き下さることを感謝したします。わたしたちもどうか病める者の友となり、病よりは健やかさを、死よりは命をあなたに願うことができますように。そしてわたしたちの教会が、あなたの憐みの家となり、命を尊び、生きることを悦ぶ信仰と力を与えられ、世に発信していくことができますように。あなたのひとり子にして教会の頭である主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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