銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 世に注がれる神の愛の眼差し


銀座の鐘

世に注がれる神の愛の眼差し

説教集

更新日:2026年03月08日

2026年3月8日(日)受難節第3主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

ヨナ書3章1~10

 先週から、旧約聖書のヨナ書を読み進めております。ヨナ書のテーマは、ひとつには、異邦人の救いであります。ユダヤ人はその信仰の純粋さを守るために、異邦人とは付き合わない人々でありました。またイスラエルは小さな国でありましたので、大国の脅威にいつもさらされておりました。ですから異邦人の周辺諸国を恐れてもいましたし、憎んでもいたところがあります。しかしそのような異邦人をも実は神が愛しておられ、救おうとしておられる。そのような全世界に対する、神の深い愛が語られている物語であります。そしてまた、ヨナという一人の預言者がその大きな神の御心をさまざまな経験を通して受け入れていく、ヨナの信仰者としての成長物語でもあると思います。そしてこのヨナの思い。ヨナの弱さ、不信仰を見る時、そこにもわたしたちの弱さや不信仰を見るのであります。
 先週の説教と重なるところがあるかもしれませんが、1章、2章の物語を少しおさらいしたいと思います。初めに、ヨナは神に、ニネベの都に行って、その悪を神の裁きを告知せよと命じられますけれども、主に逆らってタルシシュという全く違うところに行こうとしました。なぜそんなことをしたのか。ニネベとは、古代に栄えましたアッシリアという大国の首都でありますけれども、アッシリアはイスラエルはもちろん、多くの隣国を攻めたり苦しめたりした帝国でありました。北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてしまうのです。そういう傲慢な国に、悔い改めを迫って、もしそれでアッシリアが悔い改めたら嫌だと、そういう思いがあったからヨナは神に反抗して逃げたのでありましょう。けれども2章では、そんな、神に逆らって逃げるヨナを、巨大な魚に飲み込ませてまでして連れ戻してしまう、そんなドラマチックな出来事が語られていました。ヨナは魚の腹の中で悔い改めて、祈りをささげます。神によってその心を打ち砕かれて、ヨナは魚の口から吐き出されて、改めて神に従う者として立てられました。
 今日与えられた箇所の物語を分かち合う前に、この時のヨナの悔い改めと成長について少し考えたいのです。このヨナという預言者は、他の預言者たち。モーセやエリヤやイザヤと言った人々に比べて、もっと私たちに近い預言者ではないだろうかと私は思います。モーセにも人間的な弱さがありましたし、エリヤもまたイゼベルの脅迫に恐れをなして逃げたという弱さがありましたけれども、神に従いとおして、力強くイスラエルを導いたと預言者です。しかしこのヨナに関して言えば、最初から神に逆らっている。このヨナの不信仰とか自己中心的なところにむしろわたしはとても共感をいたします。私たちもまたヨナのようなそういう頑ななところ。神様の御心を知っていながら、そこに従おうとしない不信仰なところがあるのではないでしょうか。ヨナは神が命じたことに逆らって逃げますけれども、船が大嵐で破船しそうになります。そのとき、ヨナは、船長たちに聞かれてこう答えます。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」主を畏れる者だと言いながら逆らっているじゃないかと、物語を読む人は皆心の中で言いたくなりますけれども、ヨナは、実際に神を畏れていたのです。ここでの畏れとは、おびえるという意味ではなく、神を重んじ敬うという畏れであります。聖書が伝えるところの、本当の信仰。神を畏れ敬う心を与えられていたのです。また、4章ではニネベの人々が悔い改めた後に、ヨナは不満をもって主に訴えて言います。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることがわかっていました。あなたは、恵みと憐みの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」わかっていたんならちゃんと従いなさいよ、と言いたくなります。けれども、神の御心をわかっていながらもその神の御心に従いたくないという、そういうヨナのような、頑固で強情なところをわたしたちもまた少なからず持っているのではないでしょうか。でもヨナはそういう強情なところがありますけれども、信仰を捨ててはいないのであります。神の恵みの基盤に立って歩みながらも、神の御心を深く受け止めることができずに、自己主張して、わがままを言って逆らう。その結果、わたしたちはせっかくの神に従う機会を逃したり、懲らしめられて、打ち砕かれる経験をしなければならなくなる。人生の中で生じるさまざまな試練が、実はそういうわたしたちの頑なさを打ち砕くために主が与えられた恵みなのであります。そのように多くの回り道をしながら、やっと年を重ねて、様々な経験を重ねて、私たちは主の御心と自分の思いを少しずつ一致させていくようになるのかもしれません。そうであるならば、わたしたちの人生の大きな目標は、実はわたしたちの信仰の成長であり、わたしたちが神の御心に従順に従う2者となっていくということ。また私たちがどんなときにも神を信頼し、全ての重荷を委ねることができるようになっていくということなのではないでしょうか。
 魚の口から吐き出されたヨナは、改めて神の命じられたニネベに向かいます。ヨナがニネベに行くことを拒否した理由はさきほども申しましたように、アッシリアを嫌っていたからだと思います。また恐れていたとも思います。けれども、神を真実に畏れる者となったヨナは、神以外のものを恐れることがなくなったのではないでしょうか。主なる神と心を一致させた人には、神の臨在が宿ります。ヨナがニネベに向かい、語った言葉は厳しく、恐れを生じさせるものでありました。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」このような一言だけを叫び続けたわけではないでしょう。おそらく、もっと詳しく、預言者として神の裁きを宣言していったことでしょう。しかし聖書にはこのような厳しい言葉。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という、いわばすでに神が決定されたような宣言をします。この都は一回りするのに三日かかったとありますから、とても大きな町でした。その一日分を歩き回っただけで、なんとすぐにニネベの人々はそれが本当の神の御言葉であると信じて恐れおののいて、悔い改め始めたのです。 「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとって灰の上に座し、王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。」ニネベの人々は、ヨナの語る裁きの言葉を、ただ恐れただけではありません。神からの御声だと真剣に受け止めて、これは私たちが罪を犯していたからだと信仰において受け止めて、悔い改めのしるしとして、粗布をまとって、灰の上に座って、断食をしたのです。粗布をまとうことによって喪に服し、この世的な喜びを断つことを表し、断食は神に徹底的にすがることを表しています。そのような悔い改めの態度を、この出来事を聞いたもっとも身分の高い人。王がその王座を下りて神の御前にへりくだり、これを町全体に命じたというのです。これは驚くべきことでありましょう。王はその民に命じました。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りかを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」不思議なことに、王は人間だけではなく、家畜にまで断食させています。徹底的な断食ということでありましょう。
 このように、ヨナの語る滅びの宣言を恐れながらも、なお悔い改めたならば神は滅びを回避してくださると信じて灰の上に座すというのは真剣な本物の悔い改めであります。そのような悔い改めをしたニネベの人々にも驚きますが、それを見た神が思い直されて、ニネベの町を滅ぼすことをやめられた。これこそ、注目すべきことではないでしょうか。ここで皆さんは少しいぶかしく思うのではないでしょうか。全能の神がなぜ、その御心を変えられるのだろうか。このような記述は旧約聖書にときどきあります。モーセの執り成しによってイスラエルの民に下そうとした裁きを思い返されました。アモス書にも、神が民に下すと言われた告げた災いをアモスの執り成しによって思い直されたという記述があります。これは、神が曖昧な方であるとか、コロコロと御心を変えるような優柔不断な方だということではありません。そうではなく、神の本質は愛と憐みなのであります。しかし義と裁きの神でもあられます。だからこそ、神がイスラエルを悔い改めに導いて、その愛と憐みに与ることができるようにその心を方向転換しなさいと迫られたのです。そうでなければ、神は愛ではなく、厳しい裁きを下さなければなりません。ですからこのような厳しい言葉で、滅びを宣告されたとしても、その奥にある神の本当の御心は、悔い改めて、神の御下に立ち帰り、神に従うことをわたしたちに心から願っておられるのであります。それは聖書の神。この世界を創造されたまことの神様は、哲学者が考えたような理神論の神ではないということであります。ひとつの精密な時計を作ったらあとは勝手に動き続けるというような世界をお造りになったのではなくて、神はわたしたちの生活。私たちの日々の歩み、その瞬間ごとにいつも働きかけ、語りかけ、正しく歩むように導かれる人格的な神であられるということであります。それが、憐みの神であるということです。ヨナがあとで神様に言ったように、神はニネベが悔い改めるということを知っていたのでしょう。けれどもそのためにはやはりヨナが、その町の滅びを宣告しに行かなければなりませんでした。そしてニネベの人々が、神に心を向けることを願い、神の憐みに応える、そのような神との生きた交わりに生きる者となることを願っていたのであります。
 さて、ヨナはこのニネベが悔い改めたことを不満に思いました。この神の憐み深さを受け入れられなかったのでしょう。ニネベが滅びたほうが良いとさえ思っていたのかもしれません。神の愛の深さがアッシリアにまで届くことが気に食わなかったのでしょう。しかしそれは、ヨナの弱さでありました。自分本位に、アッシリアを裁いていた。どこか自己中心的なところがありました。ヨナの怒りに対して、神は、異邦の国アッシリアのニネベの人々への愛を、ヨナがとうごまの木を気に入った心に訴えて、ヨナがとうごまの木が枯れるのを惜しんだようにニネベの人々の滅びを決して喜ばない愛を語ります。ヨナはいつも神の恵みの中にありましたが、その心の目は神と同じものを見ていたわけではありませんでした。わたしたちもそうなのです。信仰とは、神に従うことを喜び、そこにこそわたしたちの真の自由を見いだしていくことであります。私たちは生来の頑なさのゆえに、若き日に洗礼を受けても、なかなか心から神様に従いきれずに頑ななままで、自分の自由に生きたいと、神に逆らってもがいてしまうようなところはないでしょうか。しかし、そこで主がタルシシュに逃れようとしたヨナを魚に飲み込ませて正しい道を歩ませたように、私たちも試練の中で神の愛と御心を知らされて、少しずつ従順にされていくのではないでしょうか。信仰の道を歩み始めたとしても若き日から、すぐに主を信頼し、全てを委ねられる人は少ないのです。しかしその人生全体を通してわたしたちは主に従うこと。主の御心と私たちの心を一致させていくことを学んでいくのではないでしょうか。主はこの罪深い世界を、深い愛の眼差しで見つめておられる。全世界の人々をその救いへと、神の国へと招きたいと願っておられます。それがこの物語を通して語られているのです。わたしたちは、日々の悔い改めの中で、主がこの世界を見ておられるのと同じ眼差しで、この世を歩む者とされていくのです。そのようにして打ち砕かれた魂にこそ、主は栄光を表してくださいます。わたしたちもまた、主の御前に、立ち帰り、主の御前に従順に歩んでいきたいと思います。主が打ち砕かれたヨナと共にいて用いられたように、わたしたちも主の御業の器としてこの世において用いられていきますように。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。ヨナ書を通して、この世界の、まだあなたを知らない多くの人々もまたあなたの愛の中に導かれていることを知らされております。わたしたちが、この世であなたの栄光を証ししていくことができますように。キリストを通して表された人間の救いを、わたしたちが喜んで生きて、主の霊に従って行くとき、私たちを通して神の愛が伝わりますように。わたしたちもまた神を知らない異邦人でありましたが、主にとらえられて救われました。そしてあなたを証しする者とされました。わたしたちと関りを持つ全ての方々が、私たちを通して祝福されますように。わたしたちが人々の躓きとなりませんように。私たちを清め、あなたの霊に従順にならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

最新記事

アーカイブ