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銀座の鐘

「主イエス、嵐を鎮める」

説教集

更新日:2026年03月14日

2026年3月15日(日)受難節第4主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

マタイによる福音書8章23~27節

 「日に日に世界は悪くなる」。朝の連続ドラマで歌っていますが、そういう時代があるものです。今、現在の世界情勢も、各地で戦乱が起き、悪の力が猛威を振るい、世界が危機に晒されているように思われます。世界が悪くなる中で、わたしたちキリスト者はどう生きることができ、また生きるべきなのでしょうか。主イエスはこの世に来られ、世界が破壊的な力で、いわば原初の混沌の中に引き戻されそうな時を弟子たちと共に経験しておられます。教会もまたいろいろと困難な時代の経験をしてきました。そこで何が重要で、どう生きることができるか。今朝の聖書箇所は、はっきりとそれを語って、主イエスを信じ、主イエスによって神の恵みの御業を信じて生きる道を示しています。
 「イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った」とあります。「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」と続きます。「激しい嵐」といってもガリラヤ湖の話しで、つまりはパレスチナの一地方の小さな事件に過ぎないと思われるかもしれません。しかし世界の危機は、いつでも狭い地域で起きています。例えば広島は、一つの都市ですが、1945年にはそこで全人類の将来の問題になることが起きたのです。あるいはアウシュヴィッツは、今ではポーランドの小さな町です。しかしドイツ領であったときそこで起きたことは、人間とは何か、何によって人類の再生は可能であろうかと問わせる決定的な場所になりました。小さな場所で宇宙的な戦いがなされるわけです。ガリラヤ湖上の激しい嵐の中で、弟子たちは世界に潜む混沌の脅かしが突如噴出してきたのを経験し、世界の危機と、その中でどう耐えることができるか信仰の力を問われたのです。
 「舟は波にのまれそうになった」。主イエスと弟子たちを乗せた舟は沈没寸前のように思われます。悪くなる世界の中で波にもまれて、教会という舟はどう乗り越えていけるでしょうか。
 世界の嵐の経験で、心を置くべき中心はどこにあるのでしょう。聖書の証言は一貫して主イエス・キリストを指差します。いつの時代の困難であれ、危機であれ、聖書が中心として指し示すのは、その危機やそれを引き起こす悪の嵐そのものではありません。また、その悪の力、破壊の力のままに、それを受けて逆巻く波でもありません。その危機の全体の中での中心、そこにこそ心を置くべき現実は、溺れそうになる弟子たちや沈没しそうな舟であるわけでもありません。そうでなく、主イエス・キリストがその嵐の中にも、またどんな嵐にもおられるということです。そして世界の危機の中で、主イエスがその中心にいてくださるという、わたしはこれを「活けるキリストの現実」と呼びたいと思います。日に日に世界がどう悪くなろうとも「活ける主イエス・キリストの現実」の中に生きることです。ここに主イエス・キリストがおられる、共にいてくださる活けるキリストがいます。活けるキリストの現実を身近に経験することが、どんな嵐の中でも決定的に重要です。ですから聖書は、はじめからそのように描いています。23節には「イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った」とあります。しかしここは詳しく言うと、「彼が舟に乗り込むと、彼の弟子も彼に従った」と記されています。主イエスを指す「彼」と言う文字がこの短いセンテンスに三度も出て来ます。そして「そのとき」とありますが、直訳するば、「すると見よ」です。「すると見よ、巨大な嵐が起きた」。この描き方は、主イエスがまずおられなかったら、嵐はわざわざ起きなかった、嵐が起きたのは、主イエスがすでに舟に乗りこまれたからだと書いているようにさえ読めます。関心を向けるべきは、主イエスの方であって、ついでに起きた嵐ではありません。世界の危機や破壊の力は、主イエスがおられ、主が舟に乗りこまれたので、いわばその主に引きずられるようにして起きています。主イエスがおられなかったら嵐も逆巻く波の混乱も出てこなかったといった様子です。信仰生活の中で、本末転倒を起こしてはならないでしょう。人生の嵐も世界の危機も信仰生活の主であったり、中心になることは決してありません。どんなときにも「活ける主イエス・キリスト」が主であり、その「現実」の中で生きることができます。
 巨大な嵐の中で、主イエスは眠っておられました。眠っておられる主イエスの姿は弱く、頼りにならないと不信仰な目には見えたかもしれません。少なくともこの時の弟子たちにはそう見えました。栄光の主の力強い姿でなく、小さく弱い主の姿に見えたと思われます。それで弟子たちは近寄って起しました。眠っておられる主イエスを信じ、信頼することができませんでした。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。それで主イエスから「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言われます。そもそもどんな危機の中にあれ、主イエスが共にいてくださったら、こわがるものは何もないのです。主イエスが共におられる。これこそがあらゆる世界問題や人生問題の解決です。どんな人類の危機や人生の苦難の中にも、主イエスは、わたしたちの「主」として共にいてくださいます。それが人類の危機や一人一人の人生の苦難の解決です。なぜなら、わたしたちの不信仰な目にはどんなに小さく見えたとしても、わたしたちの主であるイエス・キリストは大能の主イエスでいらっしゃるからです。
 ただ、わたしたちはその信仰になかなか生きられません。主イエスが眠っておられる。カルヴァンなら人性において寝ていた主は、その神性において起きておられたと言います。問題は主イエスを信じながらも、主が眠ておられると見える、つまり主イエスの御栄光と御力とをわたしたちの目に見えない、そして主が頼りなく思えてしまう、そういう信仰の状態です。わたしたちとしては、主イエスを信じているようで、神の独り子としての御威光と力の主を信じていない。あるいは信じていないも同然の薄い信仰の中にあるわたしたちです。
 ですから問題は二つあります。わたしたちのみならず全人類を脅かす悪の力が好き勝手に暴れまわるこの世界の現実、そして教会もその中では荒れ狂う海原の中に沈むかと見える小舟の状態です。それが一つ。しかしもう一つは活ける主イエス・キリストがそこでも共にいてくださるのにその主の働き、主の御威光にありありと触れられていない、わたしたちの信仰の不徹底、信仰の薄さです。
 そこから「恐怖」が発生し、「溺れる」危険も生じます。ただし、その中でも主の弟子たちは、主イエスに向かって「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。「主よ」と叫んでいます。本当に主とはいかなるお方かを確信し、全身全霊で信じて呼んではいないとしても、辛うじてそう呼んでいます。
 主イエスは、その薄い信仰の叫びに応えてくださいます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」とおっしゃってくださる。本当は「主よ」と心底呼ぶ信仰であれば、嵐のことなど問題にもせず、そのまっただ中で恐れを持たず、共にいてくださる活ける主を信じて、平安と喜びの中で勇気と希望をもって、喜んで生きていることができるでしょう。
 さらに主イエスは世界の危機の問題、混乱や苦難の問題を弟子の信仰の薄さだけの問題とはなさいません。弟子たちの薄い信仰を諫めると共に、現に荒れ狂っている嵐に対し、また嵐のままに揺り動かされている湖に対して叱ります。悪や破壊の力に対し叱るとともに、それによって混乱させられる湖を主イエスは叱って、「すっかり凪に」させます。「すっかり」というのは「激しい嵐」の「激しい」と同じ、巨大な、「メガ」という言葉ですから、「巨大な嵐」を「巨大な凪」に変えられたわけです。主イエスのこの働きに、あの原初の混沌の力を克服して万物を創造された神の力が現われています。神の創造の力が主イエス・キリストを通して新しく働き、世界の危機や混乱の元凶とそれを受けて騒ぎまくる世界を鎮めます。それが「活けるキリストの現実」です。
 わたしたちは「主よ」と言います。弟子たちと同様にそう呼びます。これを心底、本心から呼んで信じることが重要です。「主」とは神の大能を身に帯び、原初の混沌も悪の力も克服して、無からの創造の働きをなさった神、その権能を持たれた勝利者キリスト、復活の活けるキリスト」が主なのです。
 教会は大海原を進む舟、小さな小舟ですが、しかし主イエスは確かにこの舟に乗り込んでくださっており、その主の弟子は主に従って主の体である教会に在ます。ですからいつでも「主よ」と呼べます。そう呼べることは信仰薄い者にも与えられた幸いです。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。そう呼んで、どんな大きな嵐の中でも、主が与える大きな凪を経験しましょう。主キリストが乗られ、共にいてくださる舟に、わたしたちも主の弟子として主に従っているのですから。そして主は、神の大能を帯びてあらゆるものをその足もとに従える活ける復活の主イエス・キリストであり、わたしたちは「活けるキリストの現実」の中に生かされているのですから。

 天の父よ、主イエス・キリストの中に原初の混沌の力を克服したあなたの創造の力が今も働いておられることを感謝します。主が乗り込まれた小舟に、わたしたちも主の弟子とされ、主に従って共にいますことを感謝します。世界になお残る悪の中で、またなお残る罪の嵐の中で、活ける主イエス・キリストの勝利にあずかり、主にあってあなたの御名を褒め称えることができますように。また主にあってあなたの慈しみと創造的な御力が、世の嵐を鎮め、わたしたちあなたの恵みの勝利の福音を伝えることができますように、あなたの御子・主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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