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銀座の鐘

神の国の福音を信じる

説教集

更新日:2021年04月25日

2021年 4 月 25 日(日) 復活節第4主日礼拝 家庭礼拝  伝道師 藤田 由香里

マルコによる福音書1章14~15節

 新しい年度に入り、春の訪れを感じ、マルコによる福音書の冒頭「イエス・キリストの福音の初め」から読み進めております。

 始まりに、イザヤの預言により主の道を整える道備えをする洗礼者ヨハネが現れました。 主イエスは、悔い改めの水の洗礼をなすヨハネのもとに来て、洗礼をお受けになりました。 本日の冒頭は、「ヨハネが捕らえられた後」と始まります。旧約聖書の御言葉を思わせる風貌や生活をし、人々に「あなたがたはそのままで良いのか」と、訴えかけたヨハネには、多くの弟子がいました。5節には、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、洗礼を受けた」と表現されています。聖書の御言葉を伝え、神様に向かって立つよう、神の道を示したヨハネの呼びかけに、多くの人が心揺さぶられました。

 しかし、その神の方向を指さすもの、洗礼者ヨハネは福音書の冒頭で「捕らえられた」と伝えられます。ルカ福音書によれば、「領主ヘロデは、自分の兄弟の妻へロディアのことについて、また、自らのあらゆる悪事をヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた」(ルカ福音書3:19~20)と書かれます。マルコにおける「捕らえられた」という言葉は、「引き渡された」とも訳せる言葉で、主イエスの引き渡されるお姿に重ね合 わせられています。ヨハネ逮捕の知らせは、人々に不安や恐れをもたらすものであったと 思います。

 けれども、ヨハネ囚われの失意の只中に、主イエス・キリストはガリラヤに来られました。人々が多くの不安や囚われの中にいても、その時イエス様は、喜びの福音を告げ知らせに来られました。ヨハネは、牢の中です。使徒パウロもまた、福音のために監獄にいましたが、それは「キリストのためである」(フィリピの信徒への手紙1:13)と述べました。どんなに洗礼者が、使徒が囚われていても、「神の言葉はつながれていない」(テ モテへの手紙二2:9)のです。マルコ福音書の冒頭で引用されたイザヤ40章の続きに も「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40 :8)と、あるようにです。

 時は満ち、主イエスが神の国の福音を宣べ伝えられました。

 本日の14、15節は、元の文章では、これで1文です。その主語と主な動詞は、「イ エスはガリラヤに来た」です。ヨハネが捕らえられた後、イエスは、神の福音を宣べ伝え つつ・「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言いつつ、ガリラヤに来た。とあります。主イエスご自身が福音を告げつつ、実際に到来なさったことを書いています。
 イエス・キリストの福音が宣べ伝えられているところでは、主イエスご自身がおられる のです。イースター後の主は、み言葉において現臨なさっています。
「ガリラヤに来た」とありました。ガリラヤは、旧約の部族では、主にナフタリの属す る地域で、北王国の崩壊と共に、多くの異邦人が住むようになり、その後、ユダヤ人の支配に戻るなど、多くの異邦人を抱えた地域でした。肥沃な土地は農業に適しました。主イエスの時代には、ガリラヤは、麦とオリーブ、ワインの輸出地域として知られ、主イエスの譬え話にも用いられました。ガリラヤ湖の漁業も特別なものでした。歴史家ヨセフスの記録には「ガリラヤ人の敬虔さと立法への忠実さ・会堂の多さ」が記されていたようです。 神の言葉、福音を必要とし、待ち望んでいた民がそこにはいました。そして、神の言葉を待っている民は世界中におり、ガリラヤに主が来られたように、教会の宣教の業を通して、 主は具体的にそれぞれの地に来られるのです。
 主イエスは、ここで神の国が近づいたことを語っておられます。主イエスが来たことは、 神の国が近づいてきたことです。人間の方からではなく、神が近づいてきてくださったのです。時が満ちたのは、イエス・キリストが来られた歴史上一回の他に比べることのでき ない神の出来事が起きたということです。神の国に私達を招き入れる救いの御業が、起こ る時が来たということです。

 イエス様が語られた言葉に注目したいと思います。4福音書の中で、成立年代が最も古 いと言われるマルコによる福音書の始まりのイエス様の言葉が、今日の言葉です。1章1 5節に「神の福音」とありますが、写本によっては、「神の国の福音」とあります。神の国の福音とは何でしょうか。福音は、英語で good news と言われるように、ギリシャ語で 「ユーアンゲリオン」は、良い知らせです。旧約聖書で「福音」は、「王の即位」、「王 にとっての勝利の知らせ」という意味で用いられました。例えば、ダビデ王にとっての勝利の知らせ・ソロモン王の即位の知らせにおいてです。そして、預言者の口を通しては、神が王となられたよき知らせが伝えられることが語られます。「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝えるものよ」(イザヤ書40:9)「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ書52:7)

 イザヤの預言では、洗礼者ヨハネの後、主イエス・キリストが来られたように「荒れ野 の道備え」から「主が王となられた福音を告げる」宣言が続きます。神の国の王イエス様 が、時満ちて現れました。

 実際、神の国は、様々な仕方で表現されます。教会は神の国がここにある場所です。また、「神の国はいつ来るのか」という人々の問いに、イエス様は、「実に神の国は、あなた方の間にあるのだ」と言われました。そして、神の国が完全に訪れるのは再臨の時を待ち、終末へ、未来に向かっていると同時に、既に現在ここに来ていると言えるのです。神の国・救いの成就は、「いまだ」と「すでに」の両方の面があります。

 「神の国」は、「神の支配」という意味があります。神様が、ご自分の民を引き受けてくださいました。ご自分の民を、養い、命を与え、恵みを注いでくださいます。マルコ福音書において、「近づく」という表現は、実は、主イエスが十字架へと近づいて行かれる形で用いられます。ヨハネが引き渡されたように、主イエスも引き渡されました。しかし それは決定的な出来事となります。主イエスは、エルサレムへ近づき、十字架の時が近づき、十字架と復活の出来事において、救いが成就しました。神の国・御子の王としての即位が成就したのです。聖霊により教会が立ちました。神の恵みのご支配は、教会の業を通して満ちています。

 ヨハネの死の悲しみの中にいた人々のところに、主イエスは近づいて来られ、慰めと救いと希望を御与えになりました。それは、復活の勝利・永遠の命を御与えになる神の国の真実です。旧約聖書は、神の国の福音を預言し、時満ちて、新約聖書の時が来ました。

 イエス様は二つのことをご命令しました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて 福音を信じなさい」「悔い改めよ」と「信ぜよ」です。
 悔い改めるとは、「立ち返る」と訳されます。神様の光に照らされ、自らの罪を見つめ、神様の方へと向かいます。悔い改めの重要なもう一つの意味は、積極的に言うならば、神様の恵みの支配が目の前にあることを知り、信仰によって生きることです。神の国がまさに私たちのところに「来ている」ことに対して、神の国を仰ぎ、神様の恵みの御支配のうちにあることを、感謝と共に受け止めます。
 神の国のご支配は、主イエス・キリストを王として仰ぎます。新しく来られた方は、「新しい人」「第二のアダム」と呼ばれます。創造のはじめの人間の以前よりおられた方が、世に来てくださいました。ここから、わたしたちも、主イエスに繋がれていることで、水と霊による洗礼を受け、新しい人です。神の国の福音の言葉に伴って、イエス様ご自身が 現臨なさっています。神様を前に進み出る私たちに今日も「福音」「良い知らせ」「神の 国の王の即位・勝利」が告げられています。主はご復活なさった。神の国の良い知らせに耳を澄ませて、神様に向き直り、信頼して、歩み出したいと思います。この知らせを告げるものとして遣わされたいと思います。

祈り
 天の父なる神様、愛する御子を通して与えられた、神の国の良き訪れに感謝します。 恵みの前に立ち、あなたのご支配を仰ぎ、あなたのうちに希望を抱きます。私たちがこの 福音の光を証ししていくことができますように。主イエスの御名によって祈ります。
アーメン