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銀座の鐘

「あなたの信仰」と語り、喜ぶ主イエス

説教集

更新日:2021年08月01日

2021年8月1日(日)聖霊降臨後第10主日 平和聖日 主日礼拝 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マルコによる福音書5章24B~34節

 主イエスの前には大勢の群衆が集まっていました。この群衆の中には様々な人がいました。主イエスに対して救いを求めている人もいましたが、悪巧みをしている人もいました。 主イエスに対して大きな期待をもっていた人々と主イエスに対して悪意をむき出しにして いる人も群衆のなかにいました。
 マルコによる福音書書3章6節を読むと、当時の神殿の宗教的指導者が「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」と書かれています。5章を読むと主イエスが悪霊に取り憑かれたゲラサの人から悪霊を追放し、正気に戻して救い出しました。その時命乞いをした悪霊たちに豚の中に入ることを許し、2千匹の豚が崖から湖になだれ込み、溺れ死んでしまいました。豚を犠牲にしたことから豚飼いの恨みを買い、主イエスは町から追い出されてしまいました。主イエスの前の群衆には、様々な人がいたのです。
 群衆の中の一人に、主イエスによって重い病気を治してもらいたいと願って、勇気をもって主イエスに近づいて来た女性がいました。主イエスを殺そうと相談している人々は、この病気の女性を律法によって「汚れた者」と見なしていました。彼女は長年の病気の苦 しみだけでなく、汚れた者として取り扱われる宗教的苦痛と共に二重苦を受けて耐えていました。この精神的な苦痛は、人々との交わりが禁止されていることです。律法によれば、この女性は、群衆の中に紛れ込むことも、主イエスの前に出て治して下さいとお願いすることも律法で禁じられていました。この女性は12年間も病気の辛さだけでなく、医者からもたらい回しにされたあげく見放され、全財産を使い果たし、律法によっても縛られていました。絶望のどん底で自由に身動きさえ出来なかったのが長血を患う女性でした。
 そのような暗闇の中、途方に暮れていた彼女が、主イエスの名前を聞いて、光を見つけました。女性は絶望のどん底で「この方の服にでも触れれば」という最後の願いを与えら れました。一縷の望みをもって、当時の律法では禁じられている行為を実行しました。群衆の中に入って行きました。主イエスの後ろまで進みました。そして、主イエスに声をかけることもなく、ただ主イエスの後ろから主イエスの服に触れました。「すると、すぐ出血が全く止まって」病気が癒やされました。群衆の中での出来事です。主イエスの後ろから主イエスの服に触れる人はたくさんいたと思います。誰が触れたかなど、普通は分からないと思われます。しかし、主イエスは、誰かが救いを求めて触れたことと、その救いを求める女性の手に「自分の内から力が出て行ったことに気」づいたのです。主イエスは、ご自身の内に、彼女が触れたことに対する手応えを感じました。主イエスが手を触れて癒したのではなく、主イエスにより頼む願いが、主イエスの力を引き出し、癒やしにつながりました。主イエスは「私の服に触れたのはだれか」と探します。癒しを求めて後ろから触れたこの女性は、罪を告白するようにして、震えて主イエスの御前に呼び出され、すべてをありのまま話しました。主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを 救った。安心して行きなさい」と語られました。主イエスは、この女性が抱いた一途な願いを「あなたの信仰」と語って下さいました。主イエスの名を聞いて、主イエスに会ったこともないのに、心の中の願いを信仰として受け止めて下さいました。主イエスの名を信頼することによって「信仰」が与えられたのです。この女性を救う力は、律法を克服し、絶望のどん底で力を発揮しました。主イエスは「この方の服にでも触れれば」との一途な信頼を受け止め、「あなたの信仰」と呼んで、喜んで下さいました。
 旧約聖書レビ記15章19節以下、出血による汚れについて記されています。この律法によれば、12年間長血を患っていた女性は、出血が止まり清めの期間が終わらないかぎり汚れたまま取り扱われました。しかし、主イエスは、律法によって汚れたとされた彼女の出血を止める癒しをもって愛の業を実現させました。
 聖書の御言葉は、主イエスが群衆の中からこの一人の女性と不思議な仕方で出会い、 愛の業によって、主イエスの御力を経験させ、新しく生きる恵みを与えたことを示し ています。主イエスは、これまで同様、汚れた霊に憑かれた者と出会ってくださった り、多くの人から嫌われ罪人とされていた徴税人を訪問したり、律法によって救われ ない一人一人を発見したように、12年間重い病に苦しめられたこの女性に出会って くださいました。
 「この方の服にでも触れれば癒やしていただける」という思いを主イエスがそのま まくみ取っていることを私たちはどのように理解したら良いのでしょうか。
 日本においても、多くの神社仏閣において「触れれば御利益がある」とされる樹木 や牛や猿などの銅像を見かけます。御利益を求めて、多くの方が触れている姿をみて、 銀座教会にも、そのような物がほしいと思うでしょうか。もちろんキリスト教会の信仰は御利益信仰とは根本から違います。それでは、どこがどう違うのでしょうか。
 本日の聖書箇所で、主イエスの服が御利益を生む特別な服だったのかというとその ようなことは何も書かれていませんし、この後、同じような救いを求め、御利益を求 めて主イエスに触れたいという人が行列を作ったということなどどこにも書かれてい ません。すなわち、神社仏閣がここをなでると御利益があるかもしれませんと宣伝す るように、主イエスが私の服に後ろから触れるといいことがありますよと宣伝したこ とはないのです。確かに癒やされた女性は、主イエスの服にでも触れればいやしてい ただけると考えましたが、主イエスから出てきた話しではありません。最も大切なこ とは、この女性が主イエスの服に触れた後のことです。通常、御利益宗教であれば、 誰でも何回でも触ってくださいという方向でしょう。しかし、主イエスは違います。 この女性を探しています。30 節「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。 なぜ、主イエスは彼女を探したのでしょうか。もちろん主イエスに断りもなく勝手に 服に触れたことを責めるためではありません。癒やしたことを感謝させるためでもありません。そうではなく、主イエスは群衆の中にいるこの一人を探していたからではないでしょうか。主イエスが群衆に語りながら、この一人と出会うことを主イエスご自身が求めていたからではないでしょうか。長血を患っていた苦しみのただ中にいた この一人の女性との出会いを彼女以上に主イエスが求めていたからではないでしょうか。主イエスはこの女性との出会いを求めていたのです。この女性との人格的な交わ りを求めておられたのです。ここが御利益目的とは全く違う世界なのです。人間中心で人の求めをかなえようというのではなく、主イエスの方が苦しむ女性のうめきを聞き、嘆きを聞き、出会いを求めてくださっていたのです。だから、「自分の内から力が出ていったことに気づい」たのです。主イエスは、群衆を見つめながら、この苦しみのどん底にいた女性を求めてくださったのです。
 彼女は、成熟したキリスト教信仰を理解していたかというと、全く理解していない と思われます。しかし、主イエスはそのようなことを問題にしていません。神学的に 理解しているかどうかとか信仰理解の深さを問題にしないのです。そうではなく、主 イエスの方から、心の底から苦しむこの女性を求め、彼女が主の求めに答えるように して主イエスに触れたのです。
 私たちは、自分など主イエスに相応しくないと考えてしまいがちです。私がどんな に求めても主イエスは振り向いてもくれないなどと勝手に考えてしまう者です。しか し、今日から聖書に照らして、そのような考えを捨てましょう。主イエスは相応しく ない私たち、欠けの多い私たちの欠点を問題にするお方ではないのです。そうではな く、私たちの弱さ惨めさ、いたらなさを、誰よりもよくご存じの上で、私たちに出会 ってくださるのです。私たちを主イエスの前に立つ一人にしてくださるのです。
 この女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て ひれ伏し、すべてをありのまま話しました。主イエスは、未熟であっても主イエスに 救いを求めた思いを受け止めて、「娘よ」と呼びかけてくださり「あなたの信仰」と 喜んでくださったのです。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に 暮らしなさい。」この主イエスの御前に立つ時、私たち一人一人に対して与えられる 御言葉です。主イエスが信仰をお与えくださるのです。