銀座教会
GINZA CHURCH

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銀座の鐘

祭壇の修復

説教集

更新日:2022年11月05日

2022年11月6日(日)聖霊降臨後第22主日 聖徒の日 召天者記念礼拝 牧師 髙橋 潤

列王記上18章30~40節

 日本基督教団の教会では、宗教改革の伝統継承の一つとして、毎年11月の第1主日を「聖徒の日」と定めて、召天者を記念する礼拝をささげています。
 宗教改革以前、中世以来ローマ・カトリック教会では、諸聖人の日を11月1日に定められていました。当時、聖人崇拝が盛んになり、すべての殉教者、聖人の記念日として守っていたようです。そして翌日の11月2日を「諸魂日」(ALL SOUL’S DAY) として、一般信徒の召天者記念日としていました。
 16世紀、宗教改革後に議論された結論は、中世以来の殉教者や諸聖人崇拝を定めた諸聖人の日(ALL SAINT’S DAY)を継承しないということでした。聖人や殉教者を記念するのではなく、信徒も教職も等しくすべての召天者を記念する礼拝を守るようになりました。これによってプロテスタント教会では、聖人という特別な位置は廃止されました。現在、私たちが召天者記念礼拝をささげ、召された教職も信徒も同時に記念しているのは、このような宗教改革後の経緯があるのです。
 現在、私たちが「聖徒の日」に礼拝をささげているのは、宗教改革の伝統を引き継いでいることを現しています。その他、宗教改革から受け継いだ遺産は、何といっても母国語で聖書を読み、母国語で讃美歌を歌い、主の御名を讃美し礼拝することに最も良く現されています。宗教改革は礼拝改革であったことを覚えたいと思います。
 宗教改革以前の改革前の礼拝は、ラテン語の聖書朗読、ラテン語の聖歌、定められた祈りを唱える礼拝でした。ほとんどの人はラテン語を聞いてもその内容を理解できなかったようです。ローマ教皇の語る聖書の言葉とされる言葉が、はたして聖書の御言葉であるかどうか、その箇所の確認などもすることが出来なかったのです。
 しかし、宗教改革者マルチン・ルターが95箇条の提言を提出したことからローマ・カトリック教会から破門されました。この破門を機に、ルターは聖書をドイツ語に翻訳しました。ドイツ語を用いる信徒は聖書を母国語で読み、教皇が語ることが聖書に記されているのかどうか確認できるようになりました。ルターは讃美歌も多く作りました。それまでのラテン語の礼拝から母国語で内容を理解し、心を合わせて祈る礼拝へ改革されました。
 本日与えられた聖書のみ言葉は、預言者エリヤが壊された祭壇を修復していることを伝えています。これはエリヤによる礼拝改革、礼拝再建といえる出来事です。紀元前9世紀、預言者エリヤの時代、祭壇が破壊されていた時代は、どのような時代だったのでしょうか。初代サウル王、ダビデ王、ソロモン王と三代続いたイスラエル王国はソロモンの死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。この時代を分裂王国時代と呼びます。分裂王国時代の約200年後、紀元前722年北イスラエル王国が滅亡します。列王記は、申命記によって南北の王たちの信仰の姿勢について検証しています。主の道をまっすぐ進んだ者は多くありませんでした。特に北イスラエル王国は、初代の王についたヤロブアムが、ベテルとダンの聖所に金の子牛をおきました。以来、歴代の王たちは偶像礼拝の罪を重ねていきました。北イスラエル王国第6代オムリ王は、都をサマリアに定め、王国の繁栄を築きました。オムリ王の息子アハブはバアルを神として礼拝する異国のイゼベルを妻として、主なる神とバアルの神とを共存させる礼拝を行いました。このような時代に預言者エリヤは預言者として聖書の神に仕えていました。紀元前9世紀中頃エリヤの時代、イスラエルの民を指導する王や祭司が堕落していて、神の御言葉を聞き、伝えるものはエリヤ一人だったのです。
 エリヤが預言者であるということは、特別な意味をもっています。預言者と言えばイザヤやエレミヤという預言者が思い浮かびますが、預言者と呼ばれる人は、エリヤの前には一人もいないのです。モーセやサムエルが預言者と呼ばれることがありました。しかし、王国の宗教、政治の問題の中で、王に対して滅びを告げた預言者はエリヤからです。エリヤはアモス以降の預言者のような書物をのこしていません。エリヤは「行動の預言者」と呼ばれ、その行動について物語の中で知ることができます。エリヤを初めとする預言者の大きな特徴は、単独で行動し語っていることにあります。 エリヤにはエリシャという弟子がいました。しかし、二人とも個人として神さまから召命を与えられ、一人で神の言葉を担わされています。エリヤは主の命じるままに、独りで王に立ち向かいました。道を誤った王に対して、独り立ちはだかったのが預言者エリヤでした。神が指し示す道を照らし戦います。聖書が告げているエリヤの戦いは、実はエリヤが戦ったというよりも、共におられた神が戦っておられるのです。
 バアルの神との戦いは、干ばつからはじまりました。バアルという神は一年の内に死んだり生き返ったりする神です。一年の農作物の生死が反映された神です。バアルが雨を降らせ、作物は成長し実を結びます。実りの後、植物が枯れるようにバアルも死にます。そして、また秋の雨と共にバアルは生き返り作物が芽を出します。イスラエルの社会にとってこの作物のサイクルは大切でした。バアルを拝むことは農業で生活を立てている人々にとっては、日々の日常生活と密接な関係を持っていました。作物が豊作で国が繁栄すると王様もほめたたえられました。ゆえに、オムリの息子アハブ王もバアル神を拝んだのです。ところが主なる神は、イスラエルの地に干ばつを来たらせ、三年に及んだと記されています。3年間、雨が降らないということは、バア ルが死んで生き返らなかったことになります。預言者エリヤの宣告通り、干ばつが訪れたことによって、この地に雨をもたらすのはバアルではなく主なる神であった事を明らかにしたのです。
 干ばつの3年間、身を隠していたエリヤが、ついにアハブ王の前に姿を現しました。列王記上18章1節「アハブの前に姿を現せ」は、神が姿を現すときに用いられる言葉です。エリヤが姿を現すということは、神が共に姿を現していることを意味します。
 カルメル山における対決の時、エリヤは民に呼びかけました。21節「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」神の民イスラエルは、この問いかけには沈黙して返事をしません。彼らは、イスラエル神もバアル神もどちらもほしいのです。御利益があれば多くの神々がほしいのです。対決の時が来ました。時が来て、それぞれ祭壇を築き、犠牲の牛を置き、神の名を呼んで祈り、火をもって答える神こそ神であるとする戦いです。
 450人のバアルの預言者が神の名を呼び始めました。彼らは朝から夕方まで大声で叫びましたが答えの火はつきませんでした。エリヤの出番です。民を周りに集めました。彼らを目撃証人とするためです。戦いのクライマックスは、主なる神の祭壇を修復することから始まりました。一方バアルの預言者たちは450人で騒々しい叫びと踊りです。対してエリヤは、静かな行動をしています。そして、エリヤは主なる神に祈るのです。「壊された」祭壇を修復し祈るのです。「壊された」祭壇とは、主なる神を排除した祭壇であることを意味しています。主なる神を忘れ、経済的な繁栄に目を奪われ、王までもバアル神に従うことで、祭壇が壊されていたのです。祭壇が壊されていたということは、目に見え る祭壇だけでなく、神の民が受け継いだ信仰を拒絶していたことも意味しています。
 神は預言者エリヤの祈りを聞き、450人の隣国から来たバアルと戦うために、祭壇の修復が行われました。12の石を取り、主の名のよって祭壇を築きます。エリヤは祭壇に犠牲の牛を置き、上から丁寧に水を注ぎ、人間による火がつかないようにしました。すなわち、神の火だけに頼る備えをしたのです。一切を神に委ねました。神にのみ従う姿勢を現しました。
 預言者エリヤの行動は、主なる神への信仰、主なる神にささげる礼拝を修復しているのです。エリヤは、アブラハム、イサク、イスラエルの神の名を呼びます。すると主なる神の火が下り、犠牲の牛をなめ尽くしました。ここがとても大切なところです。預言者エリヤがしたことは、イスラエルの信仰の原点である主の言葉を記念して、祭壇を修復し、主なる神に祈った、ここまでです。後は、神がその力を現してくださったのです。最後にエリヤはバアルの預言者を殺しますが、これは異なる神々を崇拝することが申命記13章において死刑にあたるからです。
 本日、私たちは信仰の先達を覚えて、召天者記念礼拝をささげています。キリスト教信仰によって説明出来ることは、信仰を与えられて召された召天者は、復活の恵みに与り、神の国において神とともにおられて、礼拝をしているのです。天国のお父さんはお母さんは、ちゃんと礼拝しているかなどと心配する必要はありません。大切なことは、地上の私たちの礼拝です。この世の繁栄によって、神以外のものに目を奪われてしまうエリヤの時代と現代とが重なります。バアルの預言者は450人、その数に圧倒されたでしょう。大勢の預言者が大騒ぎする礼拝に、圧倒されたかもしれませ ん。対して、エリヤはたった一人の祈りです。まだ預言者という言葉の意味もよく理 解できない時代でした。エリヤが一人祈る姿に、心許ないと感じたことでしょう。エ リヤ独りでは不安であり、物足りない思いであったことでしょう。
  しかし、大切なことは、主なる神がエリヤと同伴されて、真の戦いの場で戦うのはエリヤではなく主なる神なのです。主なる神が戦ってくださることを信頼して、私たちはエリヤと同じように、祭壇を修復し、神の御業の目撃者、証人になって、祈ることです。そして、神の勝利を宣べ伝えることです。