「神の救いは水の中を通る」
説教集
更新日:2025年07月26日
2025年7月27日(日)聖霊降臨後第7主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧 師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一3章20~22節
20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
「ノアの箱舟」の話は、キリスト者でない人にも広く知られていると言ってよいでしょう。全地は神の御前に堕落し、人々のあいだに不法が満ちた時、神は 40 日 40 夜、雨を降らせ、大地を洪水で覆ったという話です。その時、ノアとその家族、8 人だけが、神の命じる通りに箱船を造り、それによって水の中を救われました。この物語りのことで、ノアの洪水はいつ起きたか、箱船はどこに着地したかと調べる人もいるようです。しかしそれよりもむしろ、人類の営み、その歴史の根本には、人類の罪が働くという見方や、それでもそこからの神の救いがあるという信仰を思うべきではないでしょうか。人類は大きな、いわば滅びの経験を幾つもしてきました。21 世紀の今日も大きな危機を経験しています。
一体、それはなぜなのでしょうか。そしてその中で、神の救いを信じるとはどういうことでしょうか。今朝の聖書箇所は、箱船に乗り込んだ 8 人だけが「水の中を通って救われた」と語って、それは洗礼を指していると言います。そして「洗礼は、今や、イエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」(21 節)と語ります。大洪水の中を通って神の救いがあるのは、「洗礼」を指している。その「洗礼」は「主イエス・キリストの復活」による救い意味していると言うのです。
私たちもそれぞれ人生の経験があり、中には滅びにも似た苦しい経験を潜ってきた人もいるでしょう。個人の人生だけでなく、人類史的な大事件があります。そのすべては「ノアの洪水」の如くで、その根本には人類の罪があるのではないでしょうか。しかしそれでもその大洪水を通って「洗礼」があり、イエス・キリストの復活による神の救いがあると聖書は語ります。
「洗礼はあなたがたを救う」と語って、その洗礼とは何かをペトロは記します。「洗礼は肉の汚れを取り除くことではない」と。水にはもちろん汚れを洗い落とす働きがあります。きれいな水は、汚染から洗い清めます。時にはそれも重要とされて、洗礼には汚れから洗い清める意味があると語られる場合もあります。しかしペトロはここではそれを言いません。むしろ洗礼の意味は、単に汚れを取り除くことではないと言います。身体を洗い清める程度ではなく、死から命へ、滅びから救いへと大転換が起こされて、神の救いが遂行されると語ります。洗礼が成し遂げる救い、水の中を通って救われるというのは、キリストの復活によって「神に正しい良心を願い求めることです」と言われます。
「正しい良心を願い求めること」がどうして救いになるのでしょうか。この個所はどう訳すべきか苦心される箇所でもあって、「願い求める」と訳すかわりに「応答」と訳して、洗礼は「正しい良心の神に対する応答」とする訳もあります。また最近の聖書協会訳聖書は、「正しい良心が神に対して行う誓約」と訳しています。いずれにしても「洗礼」は「正しい良心」を与えられること、そしてその「正しい良心」によって、「願い」「制約」「応答」をすること、それが洗礼だと言うのです。
「正しい良心」とは何でしょうか。「正しい良心」は、やましい良心ではない、罪にさいなまれて苦しむ良心でなく、真実に平安の中にある良心です。罪の咎めや良心のやましさに苦しむのは、辛いことです。厳しく、逃れられない苦しみになり、不安にさいなまれることにもなります。それに対して「正しい良心」は心底、平安で、神の赦しの中で安心していられる良心のことです。「正しい良心」は、ですから「神に結ばれた良心」であり、神の赦しを信じて神との平安な交わりにあって、深く安心した良心です。
その時、神の赦しは、何の根拠もなしにあるわけではありません。神がお赦しくださるには、確固たる根拠があります。神はわたしたちの罪を裁き、処罰し、その処置をはっきりつけています。それが主イエスの十字架で起きたことです。何にもないのに赦されているとただ口先で言われるのではありません。神の御子であるイエス・キリストの命を懸けた審判があって罪が処置され、その上での赦しです。ですから洗礼は、主イエスと共に水の中を通り、罪に対して死ぬと言われます。そして主イエスの復活によって生かされます。その神の処置を踏まえて、神に結ばれた良心の平安が与えられるわけです。その神に結ばれた良心をもって、神に願いをし、誓いをたて、応答する。つまり信仰の生活に生きることができます。正しい良心は、神と共なる生活を平安に生きる心であって、それが洗礼によって起きるというのです。
洗礼を受ける時に問われて応答をします。あなたは信仰を告白しますか。あなたはバプテスマを受けることを心から願いますか。あなたは教会の会員として忠実にその責務を果たすことを志しますか。それは私たちと共にいてくださる神を信じ、神に結ばれることを願い、神と共なる生活を生きることを志すか、そう問われるのです。そしてそのように願い、信じ、志しますと答える。それが洗礼であって、それでこそ、どんな試練や苦難の中でも、わたしたちのために水の中をとおってくださる主イエス・キリストにより、その復活によって救われて生きるということです。
ノアの洪水は、実は洗礼を指し、神の救いはイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うと語られるこの個所で、最後にもう一度、そのキリストがいかなるお方であるかが語られます。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」。どういうことでしょうか。洗礼を成りたたせ、その復活によって、罪にも死にも打ち勝たれ、私たちを神との平安な良心に生かしてくださる主イエスは、神の右に座す勝利のキリストです。
「洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う」という、「今や」とは何でしょうか。「今や」というのは、主イエス・キリストの偉大な御業とその大勝利のある今です。新しい救いの時が開始されています。神の救済の歴史は、主イエスの復活によって神の国の開始の時期に入りました。主イエス・キリストによる偉大な神の働きによって、罪が支配する時は終わり、神の恵みの支配がはじまっています。わたしたちは救いに入れられながらもなお罪に誘われ、知らずに、あるい知りながら罪を犯すことがまだあるでしょう。しかし根本的な罪の支配は終わっています。今や主キリストの大勝利によって神の恵みの支配のもとにいます。それを表しているのが、復活したキリストが天に上り、神の右に座し、天使、また権威や勢力を支配するという記述です。キリスト教信仰は、こういう主イエスにある神の偉大な働きを信じ、「今や」キリストの大勝利の時と信じ、そして伝えます。
この勝利の主イエス・キリストを信じ、主イエスにある神の「偉業」を信じて、安んじて神に結ばれた良心に生き、神のものとされて神に願い、神と約束し、神に応答する生活を生きます。神共にいます人生を生きる。それが信仰者の人生です。世界の歴史とその中の人生でどんな壊滅的な危機に直面しようとも、ノアの洪水ほどではありません。そのノアの洪水が洗礼を指しており、その中を通ってわたしたちは救われたのです。なぜなら「キリストは神の右におられ、天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しています」。この大能の主イエス・キリストが水の中をとおって、私たちと共に、また私たちのためにいてくださる。どんなに不安な時にも、またどんな世界の危機の中でも、万物の頭であり、諸々の王の王、主の主であるイエス・キリストの大勝利とその恵みの支配は揺るぐことはありません。
天の父よ、あなたは水の中をとおって救いに生かすお方であるとの御言葉を聞くことができて感謝いたします。わたしたちも「洗礼」によって、復活の主イエス・キリストとの共なる命に生かされていることを感謝します。どうか、あなたに結ばれた平安な良心をもって、信仰の生活を存分に生きることができますように。そして勝利者であり王であり、主であるイエス・キリストによる救いの福音を証ししていくことができますように。また、主イエス・キリストの偉大な勝利の御力がこの世界を義と平和に導いてくださいますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。