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銀座の鐘

「洗礼を受ける主イエス」

説教集

更新日:2024年04月13日

2024年4月14日(日)復活節第3主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

マタイによる福音書 3章13-17節

1, ヨハネから洗礼をお受けになる主イエス
 ここでは洗礼者ヨハネが登場いたします。このマタイの1節から読んでいただくとわかりますが、彼は、主イエスの宣教の働きに先立って、ユダヤの人々を悔い改めに導くために神の国は近づいたと言って、宣教活動をしておりました。3章の3節にありますように「主の道を整え、その道をまっすぐに」することが洗礼者ヨハネの働きであり、その主な働きが人々に洗礼を授けることであったのですが、彼の洗礼は、悔い改めの洗礼ではありましたが、聖霊による洗礼ではなかったのです。洗礼者ヨハネの働きは、いわば本物のメシアである主イエスが来られるその日までの場つなぎのような役目でもありました。そのことをヨハネ自身も自覚しておりました。しかしこの洗礼者ヨハネの洗礼運動の中に、主イエスが他の人々に交じって来られたのです。ヨハネは面食らったのです。主イエスが来られたなら、主イエスはヨハネにこう語ったてもよかったのです。「さあ、これまでお勤めご苦労様。もういいよ。あなたの役目はここで終わりだ。わたしが彼らに洗礼を授けよう」そこで洗礼者ヨハネもまた、主イエスから洗礼を授かることを望んでさえいたのかもしれません。しかし主イエスは、他の罪人と共に、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになるのです。ヨハネは言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」あなたは救い主ではないですか。神の子ではないですか。罪のないあなたが洗礼を受ける必要などどこにもないではないですか。どうしてここに来られたのですか?ヨハネはそのように言いたかったのでしょう。すると主イエスはヨハネにこう答えられた。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」今は止めないでほしい。この「今」とは、主イエスが十字架への道を歩まれる公生涯に入る大切な時を指します。つまり主イエスが神の国が近づいたと語って、十字架と復活に至るまで為された伝道の歩み。その始まりにおいて、どうしても洗礼を受けなければならなかったのです。なぜなら、この洗礼はいわば主イエスの、王としての即位式でもあったからです。主イエスは神の唯一の御子であります。その御子なる神、イエス・キリストが、人間としてお生まれになり、生涯一度も罪を犯されませんでしたが、他の、罪人であるユダヤの人々と共に、洗礼の場に立たれた。それは、王でありながら、僕(しもべ)となられたということ。全ての者の僕となって、御自身の命をささげて仕えてくださった。それは、わたしたち罪人と同じところに立ってくださったということ。洗礼を受けなければならないわたしたち罪人と同じところに立って、率先して洗礼をお受けになってくださるということにおいて、罪人ではないにもかかわらず、罪人として生きてくださったということであります。そしてその歩みの最後にはわたしたちの罪の身代わりとなって、十字架におかかりになってくださったのです。そこに、僕となってくださった王の、義の道が拓かれたのです。主は言われます。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」我々。すなわち洗礼者ヨハネと、主イエス御自身です。「正しいこと」というこの言葉は、「義」とも訳すことができる言葉です。ここで主イエスは洗礼者ヨハネを神の国の働きの同労者と見なしてくださっている。そしてヨハネは誰よりも厳しく神の義の道を歩み、そしてその道を人々に指し示したのです。しかしその神の義の厳しさを誰よりもよくわかっていたのかもしれません。神の義が真実に罪人に行使されるならば、人間はみな断罪され、滅びるほかはありません。神の御前にある罪人の罪の深さ。はかなさを誰よりも洗礼者ヨハネは知っていたのかもしれません。それゆえに、彼の宣教の言葉はとても厳しいものでした。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」とユダヤの選民である人々に対して語りかけるほどでした。そのようなヨハネ自身が、どの律法学者よりも、祭司たちよりも、主の義を求めて生きていたのでした。しかしその、神の義に生きる生き方にきっと人間としての限界を感じてもいたのではないでしょうか。正しく生きること。そこで神の義からなる裁きに耐えうる正しさを持つことはできないことを、ヨハネもまた知っていたのではないでしょうか。それゆえに、義の道を説きながらもヨハネもまたその神の義を本当に成就してくださる救い主を待ち望んでいたのだと思います。あるいはヨハネ自身、主イエスが十字架という、全ての罪人の罪を背負って死ぬことによって神の義を成就してくださる、そういうお方であると悟っていなかったのならば、なおさら、神の義に生きること。人々に洗礼を授けることにも限界を感じていたのではないでしょうか。そして、そこで来てくださる救い主を、罪人を裁く、もっと厳しい方としてとらえていたのかもしれません。のちに洗礼者ヨハネは、ヘロデにとらえられて、首をはねられるその時に、主イエスに、来たるべき方はあなたなのですかと弟子たちを通して問うていました。主イエスの働きに疑問を持ち、迷いが生じたからです。偉大なる洗礼者ヨハネもまた人間としての限界をもち、神の御心を完全には知らなかったのです。そのようなヨハネの義。正しさの限界を超える道。それは、王であり、裁き主であられるはずの主イエスが、罪人と共に洗礼をお受けになるということ。その洗礼を通してまことの王でありながら、神の御前に、まことのしもべとして生きてくださった。そこに、神の義が成就したのであります。神の義という言葉は、神様との関係において成り立つ言葉でもあります。いつもわたしたちは、神様の御前に生きている。しかし神の御前に正しくあることはできません。その私たちに代わって、主イエスが神様との関係を完成してくださり、その「義」を私たちに与えてくださっているのです。主イエスの十字架を仰ぐとき、わたしたちは罪人であり、日々罪を犯す者であるにもかかわらず、わたしたちも「義」とされるのですから。

2, これは私の愛する子、わたしの心に適う者
 主イエスが洗礼をお受けになったとき、不思議なことが起こります。天が主イエスに向かって開き、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になりました。そして天からの声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この神の御声は、聖書の二つの御言葉からなっていると言われております。一つは詩編の第2編の7節にこのようにあります。
「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
 主はわたしに告げられた。
『お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。』」
 この詩編は王の即位の詩編と言われています。ユダヤの民が、王が即位されるときに読まれた詩編です。
  もう一つの御言葉はイザヤ書の第42章、1節です。
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
  わたしが選び、喜び迎える者を。
  彼の上にわたしの霊は置かれ
  彼は国々の裁きを導き出す。」
 ここに、王と僕という、一見矛盾するような二つの姿をもって、わたしたちの救い主として来てくださった主イエスが、天の神によって即位される。主イエスが神の御子。王としての栄光をお受けになるのはあの苦しみの十字架であります。その十字架に向かっての歩みがここで始まったのです。けがれのない神の御子でありながら、そして同時に僕として仕えてくださった。このまことの王である主イエスを救い主として信じる。そこにわたしたちの命の道が拓かれていくのです。洗礼者ヨハネの示した神の義の道を、主が歩み切ってくださいました。洗礼者ヨハネでさえ知らなかった、罪人に仕えて、罪人の罪を受けて死んで復活してくださるという、大いなる救いの道を切り開いてくださった。この恵みは今もわたしたちの歩みの上にいつも注がれております。主が、わたしたちの限界を超えて、将来を切り開いてくださるのです。だからわたしたちの明日は明るいのです。この主イエスの恵みによって神様の御前に今日も立てるからです。明日も立てるからです。わたしたちは今日も、わたしたちのために罪人の一人として数えられるために洗礼をお受けくださった主イエスを仰ぎ、あなたに従います、今日も共にいてくださいと、心からの感謝と賛美をもって心に迎えたいのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。あなたの御子なる主イエスは、王でありながら、わたしたちのために、しもべとなって、その十字架に至るまで仕えてくださいました。その大いなる御業のゆえに、主を讃えます。主がわたしたちの人生の王であり、主人であります。そしてわたしたちにいつも仕えてくださっています。わたしたちもあなたを王として、主人として喜びをもって仕えます。わたしたちも、主を信じて聖霊を受けて、この世にあって、神の僕として仕える者とならせてください。わたしたちにできることは小さく、弱いものでありますが、あなたが成し遂げてくださった義を与えられて、神様の御前で正しくされた者として、喜びをもって仕える者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン