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銀座の鐘

「神に抱かれている世界」

説教集

更新日:2025年05月03日

2025年5月4日(日)復活節第3主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

創世記1章1~5節

 今年度の主日礼拝の主題は「聖書」です。副題は「旧約聖書のものがたり」として、本日から4か月間に亘って創世記を読みます。9月からは出エジプト記、待降節、クリスマス以外の日曜日は旧約聖書を読みます。一年間のカリキュラムに沿って、旧約聖書に親しんでまいります。

 旧約聖書は創世記からマラキ書まで39巻の文書が並んでいます。この順番には、どのような意味があるのでしょうか。歴史の古いものから新しい時代の順に時間順で並んでいるかというとそのように見える部分もありますが、実はそうではありません。私たちが世界史の年表のようにして、旧約聖書を並べることは実は容易ではないのです。旧約聖書の文書の順番は、時間順ではなく神さまの救いの歴史、難しい言葉ですが救済史という専門用語があります。神さまがこの世界と人間を救われる歴史であって、世界史のような時間軸で編集されているのではないのです。

 創世記は、神の確かさを発見したことから始まります。それが「神が天地を創造した」という宣言です。聖書の第一ページには、天と地、宇宙と人間のはじめが記されています。天と地と人間のはじめを見た人はいません。創世記の著者は、宇宙誕生の目撃者ということではありません。創世記は、現代科学の視点ではなく、世界が存在し、人間が生かされていることの意味を語っているのです。今、私たちがこの世界で生きていることには、大切な意味があることを創世記の御言葉を通してお聞きしたいと思います。

 私たちは自分の生まれた時のことは記憶にありません。自分の誕生の様子については親に聞くのが確実でしょう。そしてあとは、今の自分の姿からおしはかるほかないのです。宇宙のはじめについても、物理学者は今ある宇宙の状態から推定して考えます。科学的にはビッグバンという爆発による、世界の成り立ちが説明されますが、聖書が見る世界は、人間の在り方に関心が向けられています。今ここに私たちが生かされていることの意味を理解することに関心が向けられているのです。

 なぜ、私はここに生まれてきたのか。そう考えることがあると思います。そのようなことを考えるのは苦しいときです。自分をとても小さく感じてしまうときです。宇宙のはじめを考えるのも、星空の深さ、暗い海の深さに恐れを抱いて、自分がいかに小さく憐れむべきものであるかを思い知らされる時に与えられる問いからではないでしょうか。
 創世記は神の光が人間の現実を照らし出したとき、そのはじめが分かったというのです。物理学者が現在の宇宙の姿からそのはじめを推定するように、神の光に照らし出された人間の姿と神との関係から、天地創造の由来は明らかにされました。

 創世記第一章の天地創造の由来が書き記されたのは、イスラエルの歴史の中、統一王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂、北イスラエル王国が滅亡し、紀元前6世紀南ユダ王国が滅亡して国土を失った時代であると言われています。ユダ王国の崩壊期の時代です。ユダ王国の神殿が破壊され、祈る場がなくなり、逃れの場を失いました。それだけでなく、ユダ王国のおもだった人々は皆、遠いバビロン帝国に連れ去れてしまいました。滅亡したユダの地は廃墟となり混乱の時代でした。生きる意味があるのか、どこに確かさはあるのか。神がイスラエルと立てた契約は捨てられてしまったのか。そのような苦悩を越えて、天地創造の由来が語りだされました。「初めに、神は天地を創造された。」この1節は、大変重い言葉です。神による創造であって、バビロン帝国やこの地上のどのような帝国であっても神の創造の力をもっていないことを教えています。この 1 節は、もう一つの翻訳の可能性が指摘されています。それは、「神が天と地とを創造されたはじめには、地は混沌であって…」と混沌の説明として読むという理解です。この言葉が語られた時代の状況を反映したものとして理解する場合、大変説得力があると思われます。
 「創造された」は神の御業についてだけ用いられる特別なヘブライ語が用いられています。神によらずに存在するものが、この世に何一つないという意味です。絶望的な世界の中で、人間のはかなさに対して、神の確かさが語られています。この神の確かさが発見されたのが神の創造です。この現実から天地のはじめを推し量るなら、すべてのものは神が創造されたというほかないのです。神のご意志によって創造された世界が破壊されているのです。この絶望的な世界を直視しつつ、神を見失うような時こそ、神の創造が無意味なのではなく、神の確かな創造の力に目を注ぐことが必要なのです。

 2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」
「地は混沌であって」という言葉は、旧約聖書中でイザヤ書34章11節とエレミヤ書4章23節にだけ用いられています。
イザヤ書34章10~11節
「10 夜も昼も消えることなく とこしえに、煙を立ち昇らせ 代々にわたって廃虚となり永遠にそこを通る人はない。11 ふくろうと山あらしがその土地を奪い みみずくと烏がそこに住む。主はその上に混乱を測り縄として張り 空虚を錘(おもり)として下げられる。」
エレミヤ書4章23節
「23 わたしは見た。見よ、大地は混沌とし 空には光がなかった。」

 この聖句は、ユダ王国の滅亡を語っています。荒廃と混乱を現しています。しかし、神の霊が水の面をおおっていたと記します。親鳥がひなを大切に抱くように、神が混沌と荒廃した現実を抱きかかえている姿を表現しているのです。
 「大地は混沌とし空には光がなかった」という状況は、紀元前 6 世紀だけの状況ではありません。世界大戦が二度もあり、世界の多くの国々で混沌とした状況がくり返されてきたのが私たちの世界です。現在においても、ウクライナにおいてロシアによる悲惨な現状が続き、ガザでもイスラエルの攻撃により悲惨な現実を生きている人々のうめき、嘆き、が続いています。このような、光なき世界、大地の混沌とした状況において、創世記は語り続けるのです。神などいないと思わせる現実の中で、「光あれ」と神の御声が響くのです。
 預言者イザヤ、預言者エレミヤが見ていた、神の国の滅亡とバビロン捕囚という苦しみの現実は、歴史の中で繰り返されている混沌、無秩序な現実なのです。苦しみの中で、生かされている民は、あきらめなければならないのでしょうか。そうではないのです。深い闇の中に神の声は響くのです。闇が深く声を出すことさえできない現実の中で神の声を聞くのです。
 「3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」
 神が荒廃した現実を抱きかかえて「光あれ。」と語りました。混沌と荒廃した現実で語ることが出来るのは神だけなのです。混沌とした世界、荒廃した大地に神だけが声を発することができるのです。それが「光あれ」という言葉です。神は言葉をもって天と地を創造されるのです。

 「4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

 世界は神のみ言葉という揺るがぬ岩に支えられているのです。神の確かさに支えられているのです。神は光をみて良しとされました。夕べがあり、朝を迎えました。神が光を昼と呼んだということは、神が昼と名前を付けたということです。名づけるということは、支配すること、秩序を与えることを意味します。
 混乱と廃墟の世界に神の声が響き、神の秩序が与えられました。この秩序はどんな人にも変えられない秩序です。混乱の現実の中に、神が支配する創造の御業が見えたのです。天地創造の由来は、私はなぜここにいるのか、私はどうして生まれてきてしまったのかと問わなければならない混乱と廃墟のような姿の私たちに新しい力をあたえるのです。神のみ言葉が私たちの挫折を乗り越えさせる力となるのです。

 この世界は、混沌の世界です。しかし、この混沌の世界は、自然に荒廃したのではありません。混沌とした世界は、人間が人間を支配する事によって広がるのです。自然世界の問題ではなく、人間の罪のなせる業です。人が神を失い、神に代わって人間を支配しようとするとき、バビロン捕囚の時代の混沌とした世界が広がるのです。
 神は光を与え、私ども人間の罪を照らすのです。神の光から隠れることはできないのです。神がバビロン捕囚の支配者の力ではなく、神の正義によって裁いてくださるのが神の光です。
 天地創造の神の御業は、神が人間の罪を神の光によって照らして、明るみに出します。神は人間の罪による破壊、混沌に立ち向かってくださるのです。もっというならば、神は人間の罪を怒り、神の光によって照らしだし、この罪を克服する光を与えてくださったのです。このようにして、神は罪を放置しておくことなく、罪からの解放のために御言葉を与えてくださるのです。
 神はその大きな御腕によって、混沌を抱きかかえてくださるのです。神の御腕によって抱かれ、神の光によって照らされ、神が私どもの罪と戦う、神の戦いが始まるのです。
 主イエス・キリストは十字架において罪を克服し、復活によって死に勝利されました。
 復活節を歩む私たちは、信仰をもってキリストと共に歩むのです。

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