「あなたがたの希望とは何か」
説教集
更新日:2025年05月17日
2025年5月18日(日)復活節第5主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一 3章13~17節
13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15 心の中でキリストを主とあがめなさい、あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17 神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。
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キリスト教信仰で大切なのは、「信仰と希望と愛」と言われます。信仰は「愛」と密接な関係にあって、主イエス・キリストを信じる人はその十字架の中に神の恵みの満ち満ちた愛を知り、神を愛する者となり、また他の人々にも愛をもって対する人にされます。それでは信仰と「希望」の関係はどうでしょうか。これはもう少し明らかにされる必要があるかも知れません。
ペトロの手紙一は、信仰と希望の関係に特に注意を向けています。この手紙は、キリスト者というのは皆だれでも天に国籍を持ちながら地上の各地に寄留し、仮住まいしており、今しばらくの間は、試練の中にあることをよく知っています。だからこそ、キリスト者というのは世の試練の中で、人々を恐れず、希望をもって生きていく人だと語っています。手紙の著者とされるペトロは、重大な時に、人々を恐れて、自分が主イエスと共にいる主の弟子であることを否認し、「イエスを知らない」と何度も言い、そして、自分の惨めさに激しく泣いた経験を持っています。ですから恐れを抱くことは、希望を失うことに通じることを知っていました。それで女性たちの信仰について語ったときにも、「何事も恐れないなら、サラの娘となるのです」(3・6)と語っています。主イエス・キリストを信じ、キリストによって神を信じるなら、何事も恐れず、毅然とした信仰の歩みになります。それが希望と密接に関係しています。
ここには、「善いことに熱心であること」また「義のために苦しみをうけるのであれば、むしろ幸いなことだ」と語られ、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」と言われます。そして「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言い、「希望」の話になっていきます。「あなたがたの抱いている希望」について説明を求められたら、いつでも弁明できるように備えていなさいと言うのです。
それでは、信仰と希望の関係はどう語られているでしょうか。キリスト者の希望は、ここでは、たとえば何か受験に合格するとか、よい就職先を得るとか、特殊な利益を得ることのようには記されていません。この手紙で「希望」が語られるのは実はここで三度目です。一度目は、手紙の冒頭で、あなたがたキリスト者は、神の憐みと主イエス・キリストの復活によって、「新たに生まれさせられ」、「生き生きとした希望を与えられている」(1・3)と言われました。そして続いて「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」に「信仰と希望」はかけられている(1・21)、と語られました。それが二度目。そして今朝の箇所が三度目で、「人々を恐れたり、心を乱さないように」、「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言われた、それに続いて「希望の説明ができるように備えなさい」と言われます。
希望の話しになる直前の言葉は、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」です。この言葉は、聖書のどこにでも語られているように思われますが、実は、イザヤ書 8 章からの引用です。イザヤ書 12 節に「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」とあります。ペトロの方の「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。キリストを主とあがめなさい」と読みくらべてみますと、同じ内容であることが分かります。「恐れてはならない、おののいて、心を乱してはならない、主をのみ聖なる方としてあがめなさい」と言うのです。
預言者イザヤの言葉は、それが語られた具体的な状況も明らかです。それは、アッシリアの王センナケリブの軍勢が紀元前 700 年頃、バビロンを滅ぼして、突如、大国として出現してきた時のことでした。アッシリアはさらにイスラエルの北王朝であるサマリアを滅ぼし、南王朝のユダ、その都がエルサレムですが、そこに攻め込んできました。突然の大国の出現と侵略の恐怖のあまり、ユダだけでなく、色々な小国が同盟を結び合いました。そういう国際政治の恐怖のなかのことです。アッシリアの軍勢がエルサレムを囲みました。このときの様子は、列王記下の 19 章に記されています。その時のユダの王はヒゼキアで、彼は宮廷長や書記官、祭司の長老たちに荒布をまとわせて、預言者イザヤのもとにつかわし、民のために祈ってほしいと願いました。そのときのイザヤの言葉が、「彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」でした。そしてエルサレムを囲んだアッシリア軍は、その夜一夜のうちに 18 万 5 千人を失って、退却したと言われます。「朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」。列王記下 19 章はそう伝えます。アッシリア軍の中に致命的な感染症が猛威を奮ったのかも知れません。エルサレムはかろうじて窮地を脱しました。この出来事の中で語られたイザヤの預言は救いの言葉であったわけです。「たとえ敵軍であれ人間を恐れてはならない。心を乱してはならない。そうでなく万軍の主のみを聖なる方とせよ」。それゆえ初代教会が、復活して神の右に座した主イエスを万軍の主なるキリストと信じた時、このときの記憶も思い起こし、信仰と希望とは、神にかかっていると語ったわけです。
そうすると希望とは何でしょうか。それは万軍の主である神が生きておられるということです。その生ける神が主イエス・キリストにあって働いてくださる。その主なる神を崇め、聖なる方、まことなる神と信じる。そう信じるときに生きる気力が湧いてくる、それが希望です。
それでペトロの手紙は、この世の寄留者であり、仮住まいにいるキリスト者たちがいま置かれている試練の中で、どう生きたらよいか記したわけです。「善に熱心であるように」、「義のために苦しみを受けても、幸いとするように」、そう語って、「人々を恐れたり、心を乱してはいけない」、「心の中でキリストを主とあがめなさい」と言うのです。「キリストを主とあがめる」とき、万軍の主のみを聖なる方とします。それによって希望が湧き、生きる力が湧いてきます。
イエス・キリストを「主」と「あがめる」とは、十字架に死に復活したイエス・キリストが「勝利の主」、「万軍の王」であるとあがめることです。「あがめる」というのは、「聖とする」と同じ言葉です。「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ」の「聖なる方とする」は「あがめる」と訳すことができます。それは主なるキリストが生きておられ、今日も神の偉大な御業、聖なる神の救いの働きをなしておられます。復活のキリストが神の右に座したというのは、主イエスが神の大能を帯びた勝利のお方であり、あらゆる支配、権威、勢力、主権の上にあって、死んだ人にも生きている人にも「主」となられたキリストであるということです。その主を信じ、あがめるのです。
「主とあがめる」と「主を聖とする」とは同じ言葉ですから、主の祈りの最初の祈りも同じです。「御名があがめられますように」は、元来「御名が聖とされますように」という言葉です。神がまことに神、聖なる神であり、聖なる神が全被造物によってあがめられるようにという祈りです。
聖なる神は、生ける神であり、偉大な働きを主キリストにあって、今日もなしておられます。その神を崇め信じる。それが希望に生かします。神が生きておられ、キリストにあって偉大な業を今日もして下さる。だから人々を恐れず、心を乱さない。イエス・キリストを主とあがめて、毅然と信仰の生活を生きる。それが希望の姿です。
「希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」とあります。キリスト者は「信仰の証し」をしますが、同時に「希望の証し」もするわけです。つまり、他の人々と同じ環境、同じ状況に生きて、キリスト者の信仰が目立つ、同様に希望に生きていることも周囲の人たちに気付かれて、その説明が求められます。その時答えられるように備えていなさいというわけです。希望について説明を求められるというのは、他方から言えば、同じ社会、同じ環境に生きて、多くの人々が人生に見切りをつけ、諦めているということでしょう。その中でキリスト者たちが希望をもって生きているのが、不思議に思われるときがあると言うのです。なぜ絶望しないのか、恐怖に捉えられないのか、人々を恐れないのか。なぜ心配や不安で心乱れないのか。喜んで生きているのか。なぜ、忍耐できるのか。どうして人生に臆病でないのか。毅然と生きているのか。なぜ希望をもっているのか。
それは、「心の中でキリストを主とあがめているから」です。私たちのために十字架に架かられた愛の主、イエス・キリストが万軍の主なる神として私たちと共に、そして私たちのためにいてくださる。そのことを穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明しなさいと聖書は言います。「キリストに結ばれたあなたがたの善い生活」をもって弁明目しなさいとも言われています。そのように心がけたいと思います。
天の父なる神様、「心の中でキリストを主とあがめなさい」との御言葉を聞くことができ感謝します。どんな時にも主イエス・キリストを私たちの主、万軍の神と信じ、人々を恐れることも、心を乱すこともありませんように導いてください。信仰を証しするととともに、主にあって希望に生きることができますように。「キリストに結ばれた善い生活」を生きて、神様の御栄をあらわさせてください。特に今、試練の中に置かれている信仰の兄弟姉妹のうえに、神様の憐みと慰めが豊かにありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。