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銀座の鐘

「あなたはどこにいるのか」

説教集

更新日:2025年05月24日

2025年5月25日(日)復活節第6主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 副牧師 岩田 真紗美

創世記3章8~13節

 主なる神さまは、園のなかで「アーダーム、アーダーム…。」と、オロオロしながら豊かな草木を掻き分けつつ「アダム」のことを捜されました。『創世記』3章の8節は、神さまがその御足の裏を大地にこすり付けながらも、右往左往しながら愛する「アダム」を捜し回っておられる様子を表しています。「風の吹くころ」というのですから、夕方の日も沈みかける頃でしょうか。神さまが近づいて来られるその気配を、「アダム」自身が感じ取って木の間に隠れる前から神は彼を捜しておられたかも知れません。8節の「園の中を歩く音」と訳されているヘブライ語の元の言葉は、すっきりとした気持ちで、散歩がてら颯爽と歩く音というような意味ではないのです。どちらかと言えば「歩き回る、巡る、さまよい歩く、彷徨する」と訳すほうがふさわしいような、人間が気持ちを揺らしながら、右に、左にオロオロと、そぞろに歩きで歩いている様子を聖書は伝えています。さらに、そのような時の足音、或いはそのような時の「声」という意味が原文の持つニュアンスであると言えます。ですから神さまは、決して短い時間だけアダムを捜しておられたわけではないのです。例えば、わたくしは動物園が好きで、娘も動物園が好きなので、お互いにあまりにも動物の愛らしい姿に見入ってしまい、はぐれてしまうということがよくあります。そのような時、わたくしは我が子が傍らにいないことに突然気づいて、それから捜し始めるのですが、大抵幾つか先のブースで巡り合うことが出来て、ある程度のあたりをつけて捜すということをします。しかし、創世記の語る神さまは、わたくしどものような場合とは全く違うのです。まるで思いついたように、夕方になって初めて「アダム」を捜し始めたわけでもなければ、一つだけ駄目だと言っておいた命の木に触れたのではないかとアダムを疑って、ある程度あたりをつけて園の中を歩いておられたというわけでもないのです。 どこに行ってしまったのだろうか…、もう日が暮れてくるというのに…、と、獣たちが動き回るような時刻になってもまだ捜し回らなくてはならないほど、神さま御自身がここで気を揉まれておられたことが分かります。しかも、この8節の「足音」の「音」という言葉は、先ほど触れましたように「声」と訳すことも出来る言葉ですから、「アーダーム、アーダーム」と神さまはアダムの名前を呼びながら、その返事が草むらの中から微かにでも聴こえてくることを待ちつつ、耳を澄ませながら捜されたかも分かりません。
 創世記の2章の16節付近に話は戻りますが、「園のどの木からでも取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、取って食べてはいけない。取って食べると必ず死ぬことになる。」(2:16b-17、『聖書協会共同訳 聖書』より)と、主なる神は確かに言われました。どの木からでも取って食べなさい、と神さまはアダムに自由に食べ物を取って、代価を払うこともなく、その豊かな恵みを共にいる「女」と一緒に喜ぶことを得させてくださったのです。しかし結果としてこれだけは「取って食べてはいけない」と命じられた「命の木」(3:22)の実を、彼はいとも簡単に食べてしまいました。これだけは駄目だと言われたら、他にどれだけ沢山の恵まれた美味しいものが周りにあっても、その禁止されたひとつのものが、わたしたちは気になって仕方なくなるのでしょうか。しかしこの時点では、アダムにも、彼に「命の木」の実を与えてしまった「女」にも、そのような思考力はありませんでした。聖書が「野の生き物のうちで、最も賢い(3:1)ものとして描いている「蛇」がそそのかす、そのしたたかな問いかけを受けるまでは、男も女も神の豊かな恵みを素直に享受していたのです。
「蛇」に唆されて初めて「女」は、神さまの言葉に懐疑心をよぎらせるようになってしまいました。きょう共にお聞きしている3章8節の少し前ですが、「蛇」はこのような問いを「女」に投げかけます。「神は本当に、園のどの木からも食べてはいけない、と言ったのか。」(3:1b)と旧約聖書の原文のヘブライ語は、「本当に、あの神がそんなことを言われたのか?」という強い疑いのニュアンス、強意を伝えています。この問いに誠実に答えようとすればするほど、「女」は自分で言っていることに自分自身が狂わされていってしまうのです。初めは神の恵みを充分に喜んでいたにも関わらず、神さまの愛のゆえの忠告に疑いを抱いていくようになっていきます。神さまが本当におっしゃった言葉は、「園のどの木からでも取って食べなさい。」という恵みに満ちた言葉でした。「わたしたちは園の木の実を食べることはできす。」と2節で「女」は答えます。どれでもいいよ、でもあれだけは駄目だよ、と言われた神さまの言葉のニュアンスは、この時すでに含まれなくなってしまいました。どちらかというと「女」は「わたしたちには何を食べることも可能だ、できます」という主旨で「蛇」に答えています。何でも可能なのになぜ、あれだけは駄目なのかと、そう思い始めたら、人の命を守るために神さまが愛のゆえに定められた掟が、何だか神御自身が神であることに固執するために言われたことのように、「女」には思えてきてしまいました。その心を「蛇」の言葉がこの後、膨らませていきます。「いや、決して死ぬことはないさ。それを食べれば目が開かれて、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているんだよ。」(3:5、私訳。)と、「蛇」はまるで赤子の手をひねるように彼女を騙しました。
 この箇所から、わたしたちは本当に、悪に対して弱い者であることが見えてまいります。神さまに与えられたたった一つの掟も守り通すことが出来ない愚かさが、見えてまいります。「女」は、神さまが共にいるように与えてくださった園の中の唯一の友である「アダム」のことまでも「命の木の実」を与えることで罪に招いてしまいました。わたくしたちが教会で毎月、聖餐式の度に唱えている「悔い改めの祈り」を思い起こします。「わたしたちは罪の虜であり、自らその縄目を解くことができない」のです。そうであるからこそ、悪の声を聴いたならば、それには断固として応じることなく、その瞬間に神さまから与えられた口で、神さまから与えられた祈りを唱えて、「神さま助けてください」と祈りたいと思います。
 「神さま、何だかよく分からないのですが助けてください。あなたはどこにおられるのですか」と、「女」はまず、神のかたちに似せて造られた「男」(1:27c)と共に、神のかたちの「口」で神を呼べば良かったのかも知れません。特にこの創世記が記された時代には、バビロン捕囚がありましたから、この時代を生きた預言者イザヤの事を思い浮かべるのですが、彼はこのような罪の虜になって離れられない神の民に対して、あの「モーセ」に働きかけてくださった神さまを思い出せと告げている事に、信仰者としての姿を示されます。『イザヤ書』63 章 11 節以降ですが、「どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。」(63:11)、「どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。」(同)、「どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは」 (63:15)と、預言者は立て続けに神に問いかけ、神を呼びます。小鳥の雛が、巣の中で真っ赤な口を開けて親鳥を呼ぶように、造り主であり贖い主である神さまを呼ぶのです。
 しかし今日ご一緒に創世記からお聞きしているように神さまは、そのようにする事も出来ない迷い出た羊のような者にも、「あなたはどこにいるのか」(3:9、私訳。)と、罪の虜になっているわたしたちの状態を一早く捜し出そうと声を発せられます。神にのみ、この土のかたまりから造られた「アダム」は罪の赦しを乞わなくてはならないからです。造り主であると同時に、わたしたちの唯一の贖い主でもあられる神さまは、「アダム」に悔い改めの「口」を開かせるために、今日最初にヘブライ語からのニュアンスでお伝えしたように彼を、オロオロしながら捜し回られました。「どこにいるのか」(3:9)と。一緒にいて共に罪の虜になった「女」には、「何ということをしたのか。」(3:13)と言われました。この神さまの声は今ここで御一緒に安息の日を覚えて礼拝をおささげしているわたしたちへの声でもあります。悔い改めの『詩編』の数々を歌ったあのダビデ王は、主の僕として神のこのような「声」に祈りをもって繰り返し応えています。最もわたしたちが良く知るものは『詩編』51編かも知れません。「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」(51:6a)とダビデは十戒の一つを破った罪を悔い改め、「わたしの内に(中略)新しく確かな霊を授けてください。」(51:12)と神に直訴して祈ります。罪を犯した経緯を述べて、まず言い訳をした「アダム」とは、神への応答の言葉が大きく違います。また、ダビデの犯した罪で直接害を受けた人間に対する「謝罪」とも違う、この唯一の神への祈りが、聖書の伝える「悔い改め」の姿であることを最後に覚えたいと思います。自分自身では罪の虜になっていくことしか出来ないわたしたちが呻きながら被造物として生きる、あのパウロがそのように表現したこの世に、神は御子イエス・キリストを降されました。その主が十字架におかかりになってまでして成し遂げてくださったわたしたちの罪からの解放の力は、やがて主が再び来られる終わりの日に、わたしたちをもう一度あの「命の木」(『ヨハネの黙示録』22:14)に至らせてくださいます。 『創世記』から『ヨハネの黙示録』へと、今日も共に祈り合いながら、主の御声を聴きつつ歩み出したいと願います。お祈りをいたします。