「バベルの町を見つめる神」
説教集
更新日:2025年05月31日
2025年6月1日(日)復活節第7主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
創世記11章1~9節
1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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創世記 11 章には、バベルの塔として有名な物語が記されています。9節に記されている「バベル」は明らかにバビロニア帝国を思い描かせる言葉です。同時にヘブライ語バーラル(混乱、乱す)がバベルと語呂合わせで用いられています。創世記の背景には、神の民が遠いバビロニア帝国に連行され、捕囚民となり、神の言葉を聞くことが出来なくなったという御言葉の飢饉が問題になっているのです。これまでは当たり前のように神の声を聞いていた人々が、バビロニア帝国の王、政治家、兵隊の声に聞き従わなければならなくなりました。そのようなバベルの町が記されています。
1節の「1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とは、どういう意味でしょうか。現在世界の人口は80数億人、原語の数は約 7000 語と言われています。すでに死語となった原語も少なくありません。創世記が関心をもっているのは、何千もの原語の中で何語が最初の言葉であるのかということではありません。そうではなく、これまで創世記が語ってきたように、神の言葉を人が聞き、人が神と対話してきた御言葉です。
問題は神の声が遠いバベルで聞こえなくなったのです。現在の私たちがこの世の声だけに捕らわれて、み言葉を聞くことも神の御名を呼ぶこともしない状態と似ています。み言葉を聞かなくても良いと考え、祈らなくても問題ないと思い、時の支配者の声だけに振り回されている状況です。
朝ドラ「アンパン」で愛国の鏡と呼ばれる軍国主義教育の若い教師が妹の婚約者の戦死の知らせを聞き動揺します。妹は、軍国主義の兵隊さんの死は立派、お国のために英霊になったという言葉を何度も聞かされ、とうとう「そんなことは嘘っぱちや」と叫びます。軍国主義教育の教師として子どもたちに教える自信を失い混乱している教師の姿が描かれていました。まさにバベルがバーラル、混乱している様相です。
創世記の世界は、昔だけではなく、現代でも起っている現実なのです。会社のために命を惜しまない、政治家を守るために死んでも真実を語れない官僚などということがあるならば、それはバーラル、混乱しているのです。神を見上げずに、神以外の人の顔色をうかがい生きる時、私たちは混乱するのではないでしょうか。
バベルの町づくりは、一見新しい都市開発、技術革新、文明開花を思わせる華々しい計画でした。彼らは、それまでの弱いレンガではなく、十分に焼き固めたレンガを手に入れました。重い石を運ばなくても、石の家に匹敵する堅牢な建物を建設することが出来るようになりました。焼きレンガやアスファルトが発明されました。技術革新です。バベルの町は近い将来、世界に誇る天まで届く塔のある町になることを夢見ていました。希望にあふれています。バベルで高い塔を作ろうとしたことの背景には、バビロニアのジグラットという高い塔を備えた神殿のことであると言われています。ゆえに「散らされない」という言葉によって、バビロニア帝国の誇りと自信が表現されています。すなわちどんな国にも負けない、堅固な要塞のような町、高い塔の神殿から敵をいち早く見つけて、攻撃の先手を打つことが出来ると自信に満ちていたのです。
しかし、神は「散らされる」という言葉を通して、このような人間の意に反して「散らす」のです。具体的には「散らされる」とは、バビロン捕囚のように祖国を失い連行されることです。しかし、同時にもう一つの大切な意味があります。この「散らす」の原語は創世記 10 章 32 節「地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。」の「地上に分かれ出た」と同じ言葉です。捕囚で「散らす」は否定的ですが、ノアの洪水後、救われた民族が救われ「分かれ出る」のです。神の裁きと神の祝福が同じ言葉で表現できるのです。諸民族が世界に散らされ広がっていくという救いの御業を表現しているのです。「散らす」という語は、神の裁きと神の救いがコインの裏表のようになっている旧約聖書の特徴を示しています。「散らされる」ことで神の審きと救いが神の御業として広がっていくのです。祝福の源となるために散らされるのです。
バベルの都市開発、技術革新は、現在の私たちにもあてはまる問題ではないでしょうか。焼きレンガのような技術が新たに開発され、高層ビルが建設されます。しかし、どんなに高い塔を建てようとしても天に届くことはないのです。
時代と共に人間は進歩しているように見えます。しかし、神のみ前で本当に進歩しているでしょうか。原語の統一によって、神の支配を排除して、人間の支配を実現しようとして御言葉の飢饉を招いているのではないでしょうか。
都市開発や技術革新が悪いのではありません。しかし、どんなに都市開発されても、神の言葉を聞き続けなければならないのです。現在の技術革新は、医療の向上など人命尊重より、原子力爆弾、最新兵器の開発などの武器開発の方がより進んでいるように思われます。昔も今も御言葉の飢饉という危機と背中合わせで生きているのです。
そのような都市開発によって見えなくなってしまった背後にある危機、浮足立った人間は気付くことが出来ないのです。バブルの時に踊りまくっていたときに、バブル崩壊後の姿を予想できなかったように、私たちは明日のことが全く見えないのです。そのようなバベルの町を神は見つめ続けていました。5節には、こう記されています。「5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、」と。このみ言葉は、神の憐れみ、神がバベルの町で空回りしている人々のところに降り、神の愛を示しています。バベルで働く人々は、その後の危機を知ることは出来ません。しかし、神は神のみ言葉の飢饉という危機を誰よりもよく知っているのです。天に届く塔を計画して浮かれている人々が、神を忘れ、神なしで生きることが出来ると考え、神に愛されなくても生きることができるかのようにふるまっている姿を神は憐れんでくださるのです。もはや、ノアの洪水の時のように浮かれた人々を排除してノアたちだけに期待をするのではなく、バベルの人々がどこに散らされても真実の神に目を向け生きる道を歩けるように「主は降って来て」くださいました。神は塔のある町に降りてきてくださいました。神の声に耳を貸そうともしない私たちのところまで自ら来てくださったのです。旧約聖書のクリスマスの出来事ではないでしょうか。神が降ってくるということは、地上の人間を滅ぼすためではありません。そうではなく、み言葉の飢饉から私たちを救うためです。
聖書の神は、高度な技術を手に入れて傲慢になった人間の鼻をへし折り、懲らしめて満足するお方ではありません。そうではなく、神はいつの時代でも人間が傲慢になるときに落ちてしまう落とし穴をご存じなのです。そのために神は私たちを傍観しているだけではなく、危機の中で、主なる神は私たちを見つめてくださっているのです。
神のまなざしは、人間の技術革新、都市開発の背後にある、人間の忘れ物に目を向けさせようとしておられるのです。それが6節以下です。
6「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。」
バベルの町はバビロニア帝国であり、バビロン人とされ、バビロンの言葉で支配されていました。古代社会では言語の統一こそ隣国支配として原語支配を強力に進めました。現代でも同じです。私の両親は敵国の言葉を教えない教育を受けました。現在では、第二外国を選択するように相互理解のために自ら進んで多数の原語を学びますが、聖書の時代の問題は、バベルではバビロンの神々の言葉で礼拝することを強制されていたのです。捕囚の神の民は、神を忘れさせられる町において、都市開発に従事させられていたのです。
神はバベルの町の人々を懲らしめるためではなく、救い出すために「彼らの言葉を混乱」させたのです。ここに神の救いの先手があります。神は神の民がどのような支配者の下に置かれても、神のみ声を聞き続けること、神のみ声を聞くことにこそ生命線があることを伝えるために、降ってきてくださったのです。
「7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
このみ言葉は、神の裁きと救いの決断です。「直ちに彼らの言葉を混乱させ」ることは、バベルの支配者の言葉だけを聞かされていた神の民をバベルの支配者から救い出すための手段です。神は神の民がこのままで都市の発展と文明開化の陰で、使い捨てられてしまうことから救い出すためであり、同時に神の御声を聞くことができるようにするための愛の決断なのです。
バベルの塔を描く絵本などは、まっすぐに建つはずの塔が傾いて描かれています。神が怒り、まっすぐに立っていた塔を壊したという理解も広がっていたようです。しかし、このような神の破壊は、聖書には記されていません。神が破壊したのではなく、バベルの町の人々が「この町の建設をやめた」のです。
バベルの塔の物語は、神の一方的な審判を語っているのではないのです。そうではなく、異文化、異教の地でみ言葉を聞くことができずに、神の言葉の飢饉で飢えて死にそうな神の民に対する救いの物語として読むことが出来るのではないでしょうか。
もちろん、神の恵みも神の創造の御業も忘れてしまって、都市化、文明開花に心を奪われてしまい、神に背を向けてしまう人間の罪の問題があります。神の言葉を求めないし聞こうともしない人間の罪と傲慢さがあります。私たちは神のみ前では、悔い改めなければ神のみ前に立つことの出来ない者です。そのような私たちを神は憐れんでくださり、天から降ってきて、私たちの飢餓状態を見て、救い出してくださるのです。
私たちは来週、聖霊降臨日を迎えます。使徒言行録2章の聖霊降臨の御言葉に聞きます。バベルの町で混乱した言葉を思い起こし、聖霊降臨日には神の言葉を自分の故郷の言葉で聞く出来事が起こるのです。み言葉を求めて祈っていた人々は聖霊降臨によって御言葉を聞く経験をするのです。激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえました。多くの国々の言葉で語られた「霊の言葉」を聞きました。故郷の言葉で神の言葉を聞きました。神の偉大な業を聞くようにされるのです。御言葉の飢饉は、私たちを襲う命と信仰の危機です。御言葉を聞き続けましょう。主イエスの福音とともに歩みましょう。私たちに与えられる審きを受け止め、救いへの道が与えられることを信じて6月を過ごしましょう。
私たちは、み言葉を求めて、神のみ声を聞き続ける者とされるのです。