銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 「聖霊が降るとき」


銀座の鐘

「聖霊が降るとき」

説教集

更新日:2025年06月07日

2025年6月8日(日)復活節第8主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝 家庭礼拝 副牧師 川村 満

使徒言行録2章1節~13節

1、 主イエスの約束を待ち望みつつ

 本日は、聖霊降臨日。ペンテコステであります。ペンテコステとは、キリスト教会がお祝いいたします三大祝祭の一つであります。クリスマスは、主イエスの誕生を祝う祝日。イースターは、主イエスが三日目に死からよみがえられたことを祝う祝日。そしてこのペンテコステは、簡単に申しますと、キリスト教会の誕生日であります。すなわち、弟子たちが、復活された主イエスの約束してくださった聖霊を待ち望みつつ、祈っていた時、天から聖霊が注がれ、弟子たちは力強く、聖霊によって福音を宣教する者へと変えられました。そして、全世界に、キリストの十字架と復活の福音が宣べ伝えられていったのであります。そのようにして、キリスト教会は2000年以上の歴史を経て、今も続いております。プロテスタント教会は、150年ほど前に宣教され、今、わたしたちの教会もその流れの中にいるのですね。
 そして、今も聖霊はわたしたち信じる者たちの内に生きておられます。わたしたちの心の中に、聖霊がおられるのです。それが、「神共にいます」という、わたしたちの信仰の根幹をなす霊的な事実なのです。この聖霊の力によって教会が誕生したいきさつを、今日与えられました御言葉から聞いてまいりたいと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」主イエスの弟子たちが、ユダヤ教の大きな祭りであります五旬祭の日(これは、小麦の収穫のお祝いの祭でありますけれども)に、エルサレムを離れるな、約束の聖霊を降すから、と命じられたのを信じて、心を一つにしてお祈りしておりました。この一同というのは1章の15節に記されております。120人ほどの人々。随分と多くの人々が主イエスの弟子として戻って来ていたのです。十字架の時には使徒たちだけでなく、それ以外の弟子たちもいなくなってしまいましたが、その一人一人に、復活された主イエスは出会ってくださったのかもしれません。そして、聖霊を与えるという、主イエスの約束を信じて、使徒たちを中心にして集まって祈っておりました。

2、 聖霊の降臨

すると、そのとき不思議な出来事が起こります。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」約束の聖霊が120人の弟子たち、一人一人に降ります。そのとき、それは目に見える出来事として現れるのです。まず、音が聞こえる。激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、
そして炎のような舌として分かれて一人一人にとどまった、とあります。こういう、目に見える不思議な現象として聖霊が降るということは、わたしたちの経験においてはまずあり得ないことであります。しかし、神の霊である聖霊は、目に見えるような、あるいは音として聞こえるようなかたちで人間に現されることがあるのだということです。
聖霊が全ての弟子たちにとどまったとき、さらに不思議なことが起こります。彼らは聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したというのです。

3、 ひとつの福音が多くの言葉で語られる

そのとき、エルサレムには、世界各地に散らばっていたディアスポラと呼ばれるユダヤ人が、巡礼の旅に帰ってきておりました。彼らは、それぞれの国の原語で暮らしながらも母国語であるアラム語をも知っていて、エルサレムではアラム語を使っていたのでしょう。あるいは公用語でありますギリシャ語であったのかもしれません。いずれにせよ、普段はその、住んでいた国の言葉を使っていた。しかし久しぶりに、母国エルサレムに帰って来たと思ったら、彼らは自分たちの住んでいる国の言葉。エジプトの言葉や、アジアの言葉、あるいはメソポタミアの言葉で、神を賛美する言葉が語られているのを聞くのです。これはなぜだ。全く不思議なことが起こったと、皆びっくりしたのです。話している人たちはガリラヤ地方の者たちであり、そういう外国語など知っているはずもないからです。
この出来事がなぜ起こったのか。それは、旧約聖書の創世記11章にあります、バベルの塔の出来事への答え、とも言えます。高慢になって、自分たちの文明、自分たちの力を頼みとして、神に逆らった人々が、その力の象徴として立てた塔を、神はお怒りになって、彼らの言葉を混乱させ、世界に散らしておしまいになられました。それゆえに、この世界は、数多くの原語があるということです。しかし、このバベルの塔の物語を乗り越えて、ここでは神が、その救いの言葉を、数多くの原語によって語る力を弟子たちに与えておられるのです。そしてそれは、イエス・キリストの福音が、ユダヤ人だけではなく、全世界の異邦人にも宣べ伝えられていくということのしるしでありました。
今、聖書はこの世界のほとんどの国の言葉で訳されております。旧約聖書は、もともとはヘブライ語であり、新約聖書はもともとギリシャ語でありますけれども、英語やドイツ語、日本語、韓国語、などなど、世界各国のさまざまな聖書があり、誰もが御言葉をその国の言葉で読み、信じることができるようにされております。ここにおられる皆さんはヘブライ語やギリシャ語などは御存じない方がほとんどであると思いますけれども、かなり難しい言葉だと思います。もしわざわざ、言語を学び、そこから福音を学んでいかなければならない、などということになったら、信じる人は本当に少ないと思うのです。牧師や神学者になる人は、そのような学びをしなければならないと思いますけれども、信徒として生活するには、そんなことは必要ない。私たちの言葉でわかる、福音が教会で語られるからであります。神は、わたしたちの生活している言葉を用いて、御言葉を語ってくださっている。わからない言葉ではなく、分かる言葉。届く言葉で、わたしたちの内に語りかけてくださっている。主イエスは日本語でわたしたちに語りかけてくださるのです。そこまで、近い所に来てくださってる。
ペンテコステの出来事の最も大きな意味は、聖霊が弟子たちに降り、世界の言葉で御言葉が語られ、世界中に、教会が誕生していく、そのための出来事であったということであります。

4,聖霊によらなければ

今も、聖霊は、全世界の教会に働いてくださり、信じる者を興してくださっております。聖霊が与えられなければ、私たちの内に信仰は芽生えて来ません。コリントの信徒への手紙12章3節にこのようにあります。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」皆さんの内に、聖霊は来てくださっている。だから、主イエスが、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えてくださったということを、本当に、喜びをもって信じる者とされているのです。信じる人、全てに、聖霊は注がれております。いつも聖霊が共におられます。そして聖霊が与えられている人は皆、等しくキリストの福音を証しする者として召されているのです。
教会は、キリストの福音を証しするために立ち続けます。皆さん一人一人が、毎週、この礼拝に集う。礼拝をささげ、礼拝を守り続ける。そこに、キリストの福音が証しされているのです。聖霊が今も私たちの内に働きかけてくださっているのであります。

5,聖霊による伝道の業

実に伝道は、私たち教会を通して、聖霊が為される御業であります。そしてそうであるならば、わたしたちが何をしようか、わたしたちがその努力によって教会を保ち続けるか、などと、いうことを心配しなくてもよいのだと思います。しかしわたしたちは聖霊の御業に期待して、待たなければなりません。主イエスが、この時、約束の聖霊を与えると言われた。その約束を信頼しきって、120人が心を一つにして、祈ったように、私たちもまた、心を一つにして、聖霊が私たちの銀座教会に伝道の御業を為してくださることを期待して、祈らなければなりません。皆さんは、銀座教会がどのような教会になることを望んでおられるでしょうか。それぞれの思いがあり、一致していないところもあろうかと思います。しかし、私たちの教会がもっと豊かな礼拝をささげること。わたしたちが霊的に成長していくこと。そして一人でも多くの方が礼拝に導かれることを、願っておられる人は多くおられると思います。そして何より、天の神が、わたしたちの思いをこえて、わたしたちの教会に何が必要であるかをよくご存じであり、問題や課題をよくご存じなのでありましょう。そうであるならば、わたしたちは、神の御心がこの教会になりますように、と心から祈り続ける者となっていきたいのです。そのために、私たち一人一人が、銀座教会のえだとして、しっかりと主イエスの恵みに根差して歩んで行くことができますようにと、祈っていきたいと思います。伝道にはさまざまな障害が起こります。何か、疲れを感じたり、喜びを感じないような時もあるかと思います。そこで、何か虚しくなったりすることがある。小さな教会に仕える人たちはこういう思いを持つかもしれません。今年も受洗者など与えられないのだろうな。今年も同じ人数で礼拝をささげるのだろうな、と。そんなふうにどこかで諦めがあるのではないでしょうか。しかし伝道は、究極的には、私たちの業ではなく、神様の業なのです。聖霊の御業なのです。そうであるならば、私たちは、もっと期待しなければならないと思うのです。聖霊が、私たちの教会に充満してくださいますように。一人一人の心に聖霊が満たされていきますように。そしてキリストの証し人として用いられますように。私たちを通して、信仰に導かれる人が与えられますように。そのことを深く期待して祈っていきたいのです。私たちが、聖霊を与えられ、それだけでなく、聖霊に力強く満たされていくとき、教会に伝道力が与えられていきます。全ての教会の方々の上に聖霊が注がれていくように。満たされていくように。わたしたちが聖霊によって日々、新しくされて生きる時、私たちの家族もまたその霊的な良き感化を受けていくのです。聖霊によって、わたしたちが地の塩、世の光とされているからです。あの人を見ていると、神様が見える。そういう一人一人に、皆さんはすでになっているのです。そんなふうにはなっていないかもしれないと、後ろめたく思う必要はないのです。聖霊が与えられているということ。私たちの祈りが聞かれるということ、私たちを通して神が伝道を為されるという事実は、私たちの弱さや、罪にもかかわらず、事実であるからです。現代でも、聖霊の御業を、そこに神の働きを信じないで、あれは新しい酒に酔っているだけだ、などといって嘲る人はいると思います。しかしひるむことなく、神の御業に参与していきたいのです。わたしたちが聖霊に従い、聖霊によって歩むとき、絶えず、天において主イエスが微笑んでくださっているからです。お祈りをいたします。

 教会の頭であられる主イエス・キリストの父なる御神。聖霊降臨の御業の歴史に連なり、わたしたちの教会も立ち続けております。聖霊が今も、私たちの内に生きて働いてくださっていることを感謝いたします。この世の終りに至るまで、私たち銀座教会が、主イエスの福音を力強く証していくことができますように。私たち一人一人を聖霊によって満たし、強めてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン