銀座教会
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銀座の鐘

「命の小道を備える神」

説教集

更新日:2025年06月14日

2025年6月15日(日)三位一体主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 副牧師 岩田 真紗美

創世記6章14~22節

 きょうは三位一体主日です。聖霊降臨の大きな節目を超えて教会は、使徒たちによって益々、福音を語る舌が強められていきました。そして、父、子、聖霊なる神さまの御業によって一体感をもって支えられているこの世に、神さまは今日も豊かな御言葉によって強く、わたくしたちがなすべき働きについて語られます。『創世記』6章はノアの箱舟の物語の始めの部分として、幼い頃から親しんで聞いているという方が多いのではないでしょうか。しかしながら6章の1節のところから順を追って読みますと、改めて父なる神さまの御心が胸の中に、ずっしりと、ある重さをもって「夏休みの宿題」のように置かれていることに気づかされるのです。
 絵本で知る「ノアの箱舟」と初めて出会ったのは、わたくしの場合はカトリックの幼稚園に通っていた時分です。『ひかりのこ』という月毎に出版される薄い絵本が保育室の壁に沢山並んでいて、二歳年下の妹は大抵「ノアの箱舟」を選ぶので飽きてしまうほど一緒に読みました。最後に虹がかかった場面を見て、ホッとして本を閉じると、妹はまた何頁か前に戻って動物が箱舟に二頭ずつ入って行く場面を、今度は一人でゆっくりと味わっていました。ゾウやキリンのような大きな動物から、ウサギやネズミのような小さなものに至るまで、つがいで箱舟の中に入って行く様子は確かに何度見ても良いものでした。
 神さまがあらゆる種類の生き物を等しく愛しておられ、それぞれの名を人間に定めさせ、すべてが調和して平和のうちに生き延びるようにと、それらを管理する務めも人間に与えられたのです。それは思い返せば、『創世記』2章19節以降の出来事ですが、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」のです。神さまは創造の御業を推し進められながら、それをご自分の御旨に適う安定感のある統べ方によって人が管理できるよう導いておられました。それぞれの命が、大きなものも小さなものも生き延びられるように、名付け親として、主は人を選んでくださったのです。「人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった」とありますから、父なる神さまの御前で人が自由に「ゾウ」とか「キリン」などと喜びをもって言葉を発している様子が目に浮かびます。何と平和に満ちた楽しい時なのでしょう。ウサギはウサギ、ネズミはネズミとして、主の創造の御業は人が付けた「呼び名」によって完成されていきました。しかし「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」(2:20)と聖書は告げます。そこで主なる神が男(ヘブライ語/イーシュ)から、女(イッシャー)を造り出されて、この「女」という名前もまた、「人のところへ(彼女を)連れて来られ」(2:22)た神の御前で、男である人が名付けたものでした。この時代、名前を付けるという事は非常に重要な意味を持っていました『創世記』の先を読み進めますと個人の名前は、その者の人生における役割を明らかにするほど大きな役目を持っていくのです。また、本日が 「父の日」だから言うわけではありませんが、名前を付ける権利は聖書の中ではほとんど父親が持っています。ですから父なる神さまは『創世記』2章の段階で、心から人を信じ、愛して教え育て、ほぼ神と等しい権利を分け与えて、言葉の上だけではなく名実ともに人に被造物の管理を委ねておられる事が分かります。その後、助け手である「女」を通して蛇によって罪がこの世に広がり、いよいよ本日共にお聞きしている6章の時代になりますと、とめどもなく広がる罪の状態は、「人」の管理を超えて神の主権によってしか収めることが出来ないほど、 主の目に余る状態になってしまいました。
 神に選ばれたノアには、「慰め」という意味の名前を与えられていました。父親は「『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」(5:29)といいます。また、このノアは神の目からご覧になっても「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」(6:9)と語られます。そして「これはノアの物語」(6:9)であると、本日お聞きしている6章の洪水物語を聖書ははっきりと「ノアの物語」として伝えるのです。つまり今日ご一緒に聞いているのは、「慰めの物語」だということが言えるのかも知れません。
 神に選ばれた者たちが箱舟の中に入って行き、洪水が起きて、救われたものもいれば、それ以外のほとんどは裁かれて海に沈んだというような部分にのみ重きを置いてこの物語を聞き進めるのではなく、或いは先ほど申しました絵本に描かれるようなワクワクする世界に留まるわけでもなく、それらの枠組を超えて、神の教会に与えられた礼拝の御言葉として共に6章全体に聞く時、そこには神が人と初めて「契約を立てる」(6:18)と告げられた時の、緊張感が漂ってきます。神は、「地上に人の悪が増し、(人が)常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」(6:6)のです。神は、主を信じるすべての教会、わたくしたち一人一人の父として、子が父の家に帰って来ないこと、罪の中に蹲り、立ち帰る術をも見失っていることを嘆かれたのです。心を痛めて、「いつか、滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由に」(『ローマの信徒への手紙』8:21)被造物も共にあずかれるように、神は親心で地を嘆かれました。そしてノアを選んで、民全体の救いのための慰めの物語を始められたのです。それが今日ご一緒にお聞きしている聖書箇所であります。この時点でノアに告げられたのは、船の大きさと構造だけでした。まだ目で見ることの出来ない約束を信じて、今日この礼拝の招きの詞でお聞きしたヘブライ書が語るように、彼は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」(ヘブライ書 11:1)信仰を抱いて最後まで主の命令に従いました。
 神は専制君主のように怒りに満ちて人が驚くほどの大声を出してこの世に一撃を加えられたのではなく、ノアに強引に命令に従わせたのでもなく、静かに、その無垢な御心に深い痛みを覚えつつ、地を憐れまれたのです。そして「生き延びるように」(創6:19、20)と命じるために、神を信じ、神の完璧さを身に纏わされた無垢なノアを通して、この世を悪から救われました。ご自分で愛と自由をもって定められた人との「契約を立てる」(6:18)前に、神はまずこの世を平和に満ちた、被造物との調和の整った秩序ある状態に憐れみをもって戻されたのです。そこに、わたくしたちの教会の信仰は繋がっているのです。
 「パラクレートス」とギリシャ語で呼ばれる傍らに呼ばれた者である聖霊はその後も引き続き教会の140年にも及ぼうとする恵みの歩みに、常に寄り添い、慰めを与え、まるで洪水のように激しかった迫害や戦禍からも、疫病のようなコロナの災いからも、わたくしたちを救い出してくださいました。神の御手によって整えられた命に繋がる細い小道が、教会という「箱舟」にはいつも備えられてきたことを覚えて、改めて神さまに感謝をささげます。今後も、 この神へのまことの信仰によって契約を結ばれた者としての道を雄々しく進んで行けますように。神と手を取り合ってわたくしたちも、教会をひとすじに守っていきたいと思います。終わりの日まで主の十字架の愛を証しする群れとして、きょうもここから歩み出しましょう。