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銀座の鐘

「イサクの嫁探しとは」

説教集

更新日:2025年08月02日

2025年8月3日(日)聖霊降臨後第8主日 銀座教会・新島教会 平和聖日礼拝 牧 師  髙 橋 潤

創世記 24章1~8節

 本日与えられた御言葉は、アブラハムが息子イサクの結婚相手を全権を委任している僕に捜すように命じたことが記されています。アブラハムは老いていました。主なる神は老いたアブラハムに対して「何事においても」祝福をお与えになっていたと記されています。しかし、イサクには嫁がいないのです。老いたアブラハムにとって自分自身のことよりもイサクに嫁が与えられることが気がかりでした。神がアブラハムに約束した「あなたの子孫にこの土地を与える」は、どうなるのか。子孫が途切れてしまうのでしょうか。
 「手をわたしの腿の間に入れ、3 天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、4 わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」
 アブラハムはイサクの嫁探しのために信頼する僕にこの役を命じました。この僕はとんでもない大役を仰せつかりました。この僕は「もし娘がこの土地に来たくない」といったらどうするのかと聞きました。この僕はアブラハムの命令がどれだけ難しい課題であるのかよく分かっているのです。神はどこで何をしているのでしょうか。
 私たち聖書を読むものとしては、イサクの結婚相手を捜そうとする父アブラハムの親心は理解できるとしても、金庫番ほどの僕を遣わして捜させるということはどういうことなのかと思います。現在、私たちが親心丸出しで息子の嫁を信頼する人に捜させるということは、公にすることではないし、息子に任せる部分も小さくないでしょう。ましてや、嫁となる相手の人権をどのように尊重するのか、このような方法は慎重にしなければならないと考えます。現在、教会内でも結婚相手探しは当事者抜きで話を進めることは、大きなお世話、余計なお世話とされてしまうことになっているのではないでしょうか。
 そもそも、創世記が族長アブラハム物語において、イサクの嫁探しを記しているのは、どのような意味があるのでしょうか。
 新約聖書において約 20 回登場するイサクの名は、そのほとんどで「アブラハム、イサク、ヤコブの神」というように、族長三人の名前を用いて神を指し示すために用いられています。族長の人格や業績ではなく、この三人と共に神がおられること、彼らは神に守られ導かれ、共に旅をしてきたことを言い伝えています。
 人間的にはアブラハムの息子の嫁探しは、大きなお世話であり余計なことに思えますが、アブラハムの神への信頼は、神は約束を実現し、家族を守ってくださることにあります。そして、このアブラハムの神への信頼は、神が私を用いて約束を必ず実現してくださるという具体的な出来事を最後の最後まで待望することです。7 節に目を向けます。
 「7 天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」
 アブラハムは、全権を任せている僕に対して、神が御使いを遣わしてイサクの嫁を連れてくることが出来るようにしてくださると信じているのです。もう信じるしかない土壇場に置かれているのです。アブラハムは神を信じる以外にこの先の人生はないという事です。アブラハムは絶望から希望へ闇から光へ導かれた経験を何度もしてきました。創世記12章から24章まで、アブラハムは父の家を離れて「祝福の源となるように」祈られて、神が示す地へ旅立ちました。エジプト滞在の時は、妻サライを妹だと偽って、大問題を起こしてしまいました。エジプトを後にしたアブラハム一行はネゲブ地方で甥のロトと分かれました。その後様々なことがありました。そして、子が与えられていなににもかかわらず「国民の父となる」との約束だけが与えられました。そして高齢の時、人間的には絶望のただ中で、息子イサクが与えられました。神はせっかく与えられた一人息子イサクを「焼き尽くす献げ物」として献げよとの命令を告げました。アブラハムは、この時も神は焼き尽くす献げ物の小羊を備えて下さると信頼して祭壇を築きました。神は最後の決定的瞬間に小羊を備えて下さいました。23章において妻サラの死を経験し、埋葬しました。24章においてイサクの嫁探しに至っているのです。
 聖書は、サラの死後、アブラハムからイサクを通して、その後ヤコブへの神の約束がどのように実現していくのかを語っています。イサクや嫁の人権が問題なのではなく、神の約束が実現する道をよく見て知ることを求めているのです。これは、私たちの信仰生活においても、私たちの自己実現が問題なのではなく、私たちをお用いになる神が約束をどのように実現して下さるのか、孤軍奮闘しつつも最後の最後まで神の御業を見続けることが求められているのです。
 神の約束が実現されるところには、神の慈しみと祝福が与えられます。神の約束はいまやアブラハムからイサクへ受け継がれていきます。そのために神はアブラハムを用いて、神の約束を実現するためにイサクの嫁探しをさせているのです。イサクの嫁探しが神の御業であるならば、決して嫁探しは大きなお世話でかたずけられないのです。余計なお世話ではなく、神の約束が実現する希望に満ちた出来事なのです。神のご計画の中で、アブラハムもその僕も、そしてイサクにも与えられた神の訓練と理解できるのではないでしょうか。私たちにとっても、神の御業抜きで、この世の結婚や様々な問題を考えるとき、個人的な問題であり、プライベートだと考えることがあります。しかし、そのような場合でも、必ず、まずは祈り求め、神の御心を求めることを忘れないようにしたいと思います。神がお与えくださる約束の実現は、私たちの思いをはるかに超えたところに用意されています。その約束の実現は、結婚ではないこともあるでしょう。しかし、私たちの大切な問題を神抜きで考えたり神の御前に、神を入れない部屋を作ることがないようにしたいと思います。
 聖書がアブラハム、イサク、ヤコブの神という御言葉を通して、私たちは神の約束の一端を知らされていると思います。それは、聖書がアブラハムだけとかイサクだけとかヤコブだけを大切にしているのではなく、アブラハム、イサク、ヤコブを同時に重んじているということです。これは、どういうことでしょうか。
 神の約束は、アブラハムに対して明らかにされていた「祝福の源」となることです。神の祝福の源はアブラハムだけではなく、イサクを通してヤコブも含めて、神の祝福の源が形成され、そこから神の祝福が限りなく広がっていくのです。イサクの嫁探しは、個人的な問題ではなく、神が神の民を形成し導くために祝福の源となるべくイサクの嫁が与えられようとしている神の出来事なのです。
 日本の宗教を考えるとき、神道というのは、村が形成され地縁共同体がいわば祝福の源となります。ある土地に鎮守の森があって聖なる土地とされ、周囲の村が中心になります。仏教は個の宗教、個人が悟りを開くために修行し、祝福の源は個人になります。しかし、旧約聖書の世界は、村の宗教でもないし、個の宗教でもないのです。そうではなく、左近淑先生の言葉を用いると「民の宗教」と表現します。神が一つの集団を相手に契約を結んで、その集団がどのように生きるかということを中心に見ていくのです。アブラハム、イサク、ヤコブとその子どもたちが祝福の源となって、神の民が形成されていくのです。神は村と契約を結ぶのではありません。個人と契約を結びません。神はアブラハムと契約を結んだことが創世記17章に記されています。神はアブラハムに対して、あなたを多くの国民の父とするといって、アブラムからアブラハムと名を与えました。これが神がアブラハムに与えた契約でした。私たちにとって教会こそが神の祝福の源です。教会が形成されるとき、神の祝福と慈しみが広がっていくのです。神はアブラハムの内に神の民、教会を見ているのです。神の眼差しは、私たち一人を通して、教会を見てくださっているのです。神はアブラハムとイサクを見つめながら、水がめを肩に載せて来られるリベカを見ているのです。ここでも神は神の教会を見つめているのではないでしょうか。。
 創世記24章、アブラハムが遣わした僕は、アブラハムの神に祈り続けます。僕は神の慈しみを祈り求めます。祈って目を開けるとリベカが水がめを肩に載せてやってきました。泊まる場所を用意してもらったときにも、この僕はひざまづいて主を伏し拝み、主の慈しみとまことを感謝して祈りました。リベカがイサクの妻となるためどうぞお連れくださいと申し出ます。僕はこの旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですと祈ります。
 神はアブラハムの物語を通して、教会が形造られること、教会こそが祝福の源となること、そのために私たちが絶体絶命と思える人生の土壇場で、神が生きて働き、祝福を広げてくれることを信じるのです。神の約束は、神の民である教会にこの祝福が与えられていることとして受けとめなければなりません。神の約束は神の国への道へ導いてくださいます。神の民である教会を通して神は必ずその約束を実現してくださいます。
 本日は平和聖日です。平和は祈り求め続けるものです。戦争に目をくぎ付けにされて、神の祝福を見失わないようにしなければなりません。ペトロの手紙一3章には、
 「10 「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、11 悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。12 主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」とあります。本日はこのみ言葉に聴き、信仰者としての姿勢を正したいと思います。アブラハムが人生の絶望の淵で神の御業に与かったように平和を願って祈りつつ追い求めたいと思います。アブラハム、イサク、ヤコブの神が祝福の源を備えてくださったことを感謝して、本日の礼拝の招きの言葉テサロニケの信徒への手紙二3章16節を読んで終わります。
 「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。」

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