「ヤコブの選び」
説教集
更新日:2025年08月09日
2025年8月10日(日)聖霊降臨後第9主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村満
創世記 25 章 19 節~34 節
19アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。20イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。21イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。22ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。23主は彼女に言われた。
「二つの国民があなたの胎内に宿っており
二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。
一つの民が他の民より強くなり
兄が弟に仕えるようになる。」
24月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。25先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。26その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
27二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。28イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物であったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。29ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れ切って野原から帰って来た。30エサウはヤコブに言った。
「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。31ヤコブは言った。
「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
32「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。
「では、今すぐ誓ってくだい。」
エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。34ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1、 イサクの祈り
「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。」イサクとリベカ夫婦が結婚してから、随分と長く約束の子どもは与えられませんでした。21 章の 12 節で主はアブラハムにこのように約束しておられます。「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」主なる神はイサクを通して御自分の民を造るとここで確かに約束しておられます。そのことはアブラハムを通してイサクにも知らされていたはずであります。しかしアブラハムの妻、サラが不妊の女であったように、イサクの妻であるリベカもまた、不妊のまま 20 年という歳月を迎えます。イサクとリベカは、この 20 年間、ずっと主に祈り続けます。どうか神様、子供をお与え下さいと。神はおそらくアブラハムとサラの信仰を、約束の遅延を通して試し、忍耐させたように、イサクとリベカにもそのようになさったのでありましょう。イサクもリベカも、信じ、待つということ。耐え忍ぶことをそこで学ばなければなりませんでした。そして、彼らもまた祈りの人とされていったのであります。
2、 エサウとイサクの誕生
この切なる祈りを通して、彼らの願いは聞き入れられました。20 年も待ち続けた甲斐がありました。リベカの胎に宿った子供は双子であったのです。しかし、その子供がお腹の中で押し合い、リベカは不安になり主に尋ねます。すると主は彼女に言われます。「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」主はリベカに、二人の息子が二つの国の先祖になることを告げます。イスラエル人とエドム人です。そしてのちにイスラエルは栄え、エドムは衰退していくということをも預言しておられます。
月が満ちて、ヤコブとエサウが誕生したとき、エサウは全身に毛が生えていて赤い皮膚をした子どもであったとあります。のちに彼は、野を走り回り、狩りをする野生的な人へと育ちます。そしてエサウの後に生まれてきたヤコブは、エサウのかかとをつかんでいました。そのようにヤコブは後に兄エサウの足を引っ張り、エサウを躓かせてしまうのです。そのことを象徴するような生まれ方であります。のちに読み進めて行くとわかりますように、ヤコブはエサウの持っていた長子の権を奪い、祝福は弟を通して注がれていくのです。しかしそのことがすでにリベカのお腹の中に二人がいたときからの神の御計画なのでありました。
さて、ここでエサウとヤコブの性格について見て行きたいと思います。エサウは一言でいうと、豪胆で野性的で、活発に動く人物であります。しかし深く物事を考えるということはなく単純な性格をしていたようです。将来のことをよく考えず、今が良ければそれでよい。そういう軽率で、刹那的な生き方をする人でもありました。それはエサウの欠点でもあり、それゆえにヤコブに出し抜かれてしまうのです。ヤコブは、エサウとは正反対の性格でありました。穏やかで、静かな人物。深くものを考える性格であったようです。彼は、天幕の周りで働いたとありますので、農耕、牧畜などに生きた人であったようです。しかし、その賢さは時に狡猾さや打算的な生き方に通じるものであり、ヤコブの欠点でもありました。このように彼らの性格は、長所がまた短所でもあったと言えます。彼らがお互いに足りないところを補い合うならば、素晴らしい兄弟となったと思うのですが、おそらく彼ら兄弟はそれほど仲が良いとは言えなかったのではないでしょうか。
のちに決定的になる兄弟の確執は、その背後に二人の両親の偏愛があったと思われます。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛したとあります。なぜ二人は、性格の違いなど気にせずに、二人を平等に愛そうとしなかったのでしょうか。しかし、それが人間の親の弱さであると思います。兄弟がいれば、どちらかに偏った愛情をかける。過度な期待を寄せる。自分の成し遂げられなかった夢を投影してしまったりする。そう言うことは今も昔もよくある話であるようです。必ずしも、「子はかすがい」とは言えないのが家族の難しいところであります。子どもが与えられたがゆえに、教育の考え方や、関わり方によって夫婦関係にひびが入ることもあるようです。イサクとリベカはそこのところで本当に一致していたのでしょうか。ヤコブの狡猾さも、エサウの、忍耐力の低さも、イサクとリベカの偏った愛情の注ぎ方や、教育の不徹底によると言えるのかもしれません。
しかし、私たちの子育てもまたそういうものではないでしょうか。自分には確かな子育てができた。皆、立派になって私のもとを離れていった。そう言って胸を張れる人がいったいどれだけいるでしょうか。どこかで私たちもまたそこで間違いをおかしているのかもしれません。
しかし、たとえわたしたちの子育てが不確かなものであったとしても、与えられた子供は、私たちの子どもである以上に神の子供なのです。どれほど心配し、大切に育てても、その子供はいずれ自立し、たとえ半人前であっても社会にでなければなりません。失敗したり苦しんでいたりするのを、いつも側にいて助けてやることなどできない。まして、彼らに信仰を伝え、神様を信じなさい、教会に行きなさいと言って無理やりに行かせることなどできないのです。しかしその子供が私たちから離れても、神がその子供の真実の親であるならば、神はその子の魂に責任を取ってくださるのであります。もしかすると、神は愛のゆえに、まことの愛のゆえに大胆に子供を千尋の谷に突き落とすこともあるのかもしれません。そこから引き上げる力も、癒す力も持っておられるからです。わたしたちは子供にとって本当に何が良いものであるのかわかっていないことがしばしばあります。
しかし主はその子にとって何が本当に良いかをご存知であるばかりでなく、彼らを御自身の栄光のためにどのように用いるべきかをすべて御計画しておられるのです。神の、そのような確かなお計らいの内にある。神に選ばれている人とは、主なる神が確かな恵みの中で導いてくださる。その確かな導きに生かされていく人々のことであります。ヤコブは兄の祝福をだまし取るような狡猾さと自己中心的なところがありましたが、そのあと、リベカの故郷に逃げてから起こる様々な試練によって砕かれ、謙遜な人物へと変えられていきます。
ヤコブを変えることができるのは神様のみです。それは神が、ヤコブの神となってくださったからです。同じように、わたしたちもまた、神がわたしたちの父となってくださっている。肉親よりも確かな愛で、私たちのことを本当にわかってくださっている方が、日々、わたしたちの霊的な成長を促してくださる。そしてこの地上での必要を与えてくださっております。そのことを信頼しきってゆだねていく。自分を委ね、自分の子供たちのことも委ねてしまうのです。委ねることを主は私たちに望んでおられるのです。
3、 長子の権を求めるヤコブ
さて、長子の権を巡って、弟ヤコブと兄エサウの諍いが始まります。その事の発端がここに記されます。
ある時ヤコブが、煮物を作っていると、狩りをして、すっかり疲れ切ったエサウが帰って来ました。彼はヤコブに、煮物を食べさせてほしいと願います。するとヤコブは「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と願います。たかが一杯のスープとの交換条件で長子の権利を譲ってほしいなど、あまりにも厚かましいヤコブです。しかしヤコブは計算していたのでした。エサウは単純で、今が良ければそれでいいと、後先を考えない男であるということを。長子の権とは、単に家族の財産を相続する権利というだけでなく、神の民イスラエルにおいてそれは、神の祝福の継承という意味が含まれております。エサウはそのような長子の権の重大性をどれほど理解していたのか分かりませんが、一時の空腹のために、ヤコブに、それを譲ると誓って約束してしまいます。ヘブライ人への手紙ではエサウは不名誉にもこのように記されて
おります。
「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気を付けるべきです。」
エサウはヤコブに長子の権をだまし取られた被害者であるとは聖書は伝えていないのです。ヤコブが狡猾であったにせよ、そんなヤコブに簡単に、大切な長子の権を譲ってしまうエサウが悪いと伝えるのです。それは、神の救いというものがどれほど大切であり、わたしたちはその人生において、こと自分の救いに対して曖昧な態度であってはいけない、そういう決定的な時があるのだということです。エサウはそこで神の恵みを軽んじてしまったのです。私たちは罪人であり、それゆえに地上において多くの罪を犯します。ヤコブもまた多くの欠点を持った人でありました。
しかしエサウになくてヤコブにあったもの。それは、神の恵みに対する鋭い目でありました。今がどういう時であるのかを見極める目。信仰において自分と将来を見据えて行く目。神の祝福を心から願う信仰。それが私たちにも求められているのではないでしょうか。
私たちはこの世のことに貪欲になりがちであります。しかし霊的なこと。永遠の命と神の祝福や栄光を求めることにどれほど熱心でしょうか。わたしたちもヤコブのように、主の祝福を執拗に求めていく心を持って行きたい。祝福してくださるまでは離しませんと言うほどに神にしがみついていきたいのです。
4、 ヤコブの選び
この物語と合わせまして、ローマの信徒への手紙 9 章11節から12節を読んでいきたいと思います。そこでパウロはこのヤコブとエサウについてこのように語ります。
「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。」
神の自由な選び。神は自由に、救いに与る人々を定め、選ばれます。そして、ヤコブがエサウの祝福を奪い取り、ヤコブから神の祝福が流れていき、継承されていくのであります。ここには、神の恵みがわたしたちの思いをはるかに越えたところで働かれることが記されております。ヤコブが選ばれたという出来事の裏には、エサウが退けられたという事実があります。それは、ダビデが選ばれた裏に、サウルが退けられたという出来事や、イサクが選ばれ、イシュマエルが退けられたという出来事にも通じるのです。神の恵みの選び。それは、選ばれない者。退けられるものが存在するという、まことに不可思議な、躓きの石とも言える事柄が暗に含まれております。そういういわゆる二重予定と言われる救いに関する神学用語を用いることは、ここではあまり意味がないかもしれません。多くの神学者が論じておりますが私自身、まだ深く理解できていませんし、理解したとしても、ここで詳しく論じるいとまもありません。
ただ一つわたしたちが覚えておきたいことは、私たちは本来、その罪のゆえに退けられて打ち捨てられても仕方のない者でありましたが、わたしたちが打ち捨てられないために、身代わりとなって神に打ち捨てられた人。神に呪われ、十字架におかかりになった人がおります。主イエス・キリストであります。この主イエスの愛の業のゆえにわたしたちは救われたのです。救いへと選ばれたのであります。なぜ選ばれたのかはわかりません。そこに神の自由の選びがあるのです。私たちの罪を知れば知るほどに、なぜ自分のような者が神の救いに選ばれたのかわからないほどです。わたしたちに救われる理由はない。むしろ滅びる理由しか存在しないことに気付かされていきます。しかし私たちは洗礼を受け、信仰を告白しました。誰も聖霊によらなければイエスを主と告白することはできないのです。その聖霊を与えられたのです。
そこで確かにわかりますことは、神はこの自由な選びをもって、御自身の最も愛しておられる御子を、私たちの身代わりとして十字架にかけるという、そこまでして私たちを愛し、選んでくださったという、絶対的な神の愛の御意志が見えてくるのです。御子イエスの十字架の死。そしてそれまでの全生涯を見つめていくとき、わたしたちの選びは、本当に確かなものであること。決して覆されることの無いものであり、愛に満ちた御決定であることがわかります。神の、この自由なる選びの中で救われ、今も私たちを成長させてくださる神に一切をゆだねていきたいのです。お祈りをいたします。
天の父なる御神。あなたの無限の愛と大いなる自由において私たちを選び、栄光を表わす器としてくださいました幸いを心から感謝申し上げます。あなたがわたしたちの神となってくださり、私たちと共におられることの幸いを喜びつつ、この喜びがわたしたちの周りにおります人々にも伝わっていきますようにと切に願います。この町には、あなたに選ばれている多くの人々がおられます。どうかその人々をこの教会に導き、あなたの救いに与らせてくださいますようにお祈り申し上げます。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン