「丘のうえに立つ十字架」
説教集
更新日:2025年08月16日
2025年8月 17日(日)聖霊降臨後第 10主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧 師 近藤勝彦
ローマの信徒への手紙3章21~26節
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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キリスト教信仰の中心には主イエス・キリストの十字架が立っています。「丘の上に十字架たつ」と歌われるように、ゴルゴタの丘の十字架です。ゴルゴタという地名には「されこうべ」の意味がありました。それでラテン語では「カルバリの丘」と呼ばれました。そこに立つ十字架、そこで起きたこと、それがわたしたちの救いと信仰の根本をなしています。個人の信仰にとって重大で、深い意味を持っていますが、それだけでなく、今朝の聖書箇所に「ところが今や」(21 節)とか「今この時に」(26 節)といった言葉が用いられているように、十字架の出来事は、神の特別な時の転換をもたらし、すべての人を包む神の救いの歴史の新時代を画しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」と記されていますが、そのすべての人の罪とすべての人の救いが十字架の出来事で扱われています。キリストの十字架を語る聖書箇所はほかにも多くありますが、この箇所は新約聖書の中でも最高箇所の一つと言ってよいでしょう。
そう言い得る理由は、一つには、ここに沢山の重要な用語が使用されていることで分かります。今朝は 24 節と 25 節を中心に見てみたいと思いますが、「キリスト・イエスによる贖いの業」が語られ、それによって「神の恵み」により、「無償で」、つまり人間の側の何の功績もなしに「信仰による義」が与えられると語られています。「キリスト・イエスによる贖いの業」という言葉には、「身代金」という用語が含まれていて、主イエス御自身が語られた言葉を思い起させます。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ 10・45)。そう主イエスはお語りになりました。ここに言われる「キリスト・イエスによる贖いの業」は、主イエスが身代金を払って、罪の重荷に捉えられたわたしたちすべてのものを、解き放つてくださったことを語っています。一人一人を罪の抑圧から、何の差別もなく、解放してくださった。そのようにしてゴルゴタの丘の十字架で主イエス・キリストは今日のわたしたち一人一人のためにも仕えてくださったのです。御自分を身代金として与え、罪の奴隷状態から、また捕虜の状態から、わたしたちを自由にして下さいました。
その上でさらに 25 節が続きます。今度は、丘の上の十字架が、父である神の働きとして語られます。ゴルゴタの丘で主キリストが働かれたと共に、父なる神が決定的な働きをなさいました。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」とあります。この個所を新約聖書中最高箇所の一つと言う理由は、主イエスの業と共に、父なる神の業として十字架が語られているところにあります。主イエス・キリストがご自分を身代金として献げられた十字架は、父なる神からしますと、御自身の独り子であるキリストを立てて、「その血によって」、「罪を償う供え物」となさったことです。丘の上の十字架は、キリストによる贖罪であるだけでなく、父なる神による贖罪でもあります。
神の業としての主の十字架を二つの点に絞って学びたいと思います。一つは「血によって」と言われている点です。神はキリストを立て、血によって罪を償う供え物となさったと言われます。血は命を意味しますが、その命を運ぶ血が流されたことで、犠牲となって血を流す、そういう贖罪死が意味されています。なぜ救いのために「犠牲の死」が必要なのでしょうか。神はなぜその御子を死に渡されるのでしょうか。それは人間の根本問題である罪の本性の勢です。罪とは神に対する反逆で、神との関係を断つことです。生ける神に反逆し、神のみもとで神の命にあずかって生きることを拒絶することです。ですから罪は死をもたらします。自分の力で生きると言えば、聞こえはよいでしょうが、神の命にあずかる意味で本当に生きることはできません。神の怒りに直面して真の命を失うことになります。「罪の支払う報酬は死である」(ロマ 6・23)と言われるとおりです。そこで救いには、死を引き起こす罪を処置することが必要で、そうでないと真の救いになりません。罪を根本的にごまかしなしに処置するためには、身代わりに命を献げる死によらなければなりません。ですから「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない」(ヘブ 9・22)とも言われています。
このことは、主イエスが身代金となると語られた時にも覚悟されていました。身代金で解き放たれる者には、当時、奴隷や戦争での捕虜もいましたが、それだけでなく、死刑の判決を受けた死刑囚もいたと言われます。それで主イエスは、「多くの人(つまりすべての人)の身代金として、命を捧げる」と言ったわけです。ですから主イエスの「贖いの業」は、ただ「苦難」を忍ばれただけでなく、「身代金として命を献げる」と言う仕方で「死」をもってなされました。主の愛というのは、命を献げた愛であって、そういう仕方で主イエスはわたしたちに仕えてくださったわけです。
ですから「血によって」とは御子であるイエス・キリストの死によってということで、そこに主イエスの愛と共に、父である神の厳しさとその愛が示されています。それで神は、キリストを立てて「血によって罪を償う供え物」とされたのです。神は「その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ8・32)とも言われます。御子は父なる神に取ってもっとも尊い存在であって、その御子の「血によって」、父なる神はわたしたちの罪の処置をなさったわけです。わたしたちのために御自身の独り子を死に渡した父なる神の義と愛の業が語られているわけです。
ゴルゴタの丘の上での神の働きとしてもう一つ注意を向けたいのは、神はキリストを立て「罪を償う供え物」となさいましたとある表現です。「罪を償う供え物」とは何でしょうか。この言葉は新約聖書ではもう一か箇所使われているところがあります。ヘブライ人への手紙 9 章 5 節です。そこでは「償いの座」と訳されています。「償いの座」は、シナイ契約で十戒が与えられたことと関係しています。イスラエルの民は荒野で幕屋(テント)の生活をしていました。十戒が刻まれた二枚の石板を「契約の箱」に入れ、その「契約の箱」を納めた幕屋は、聖所とされました。その際、その幕屋の奥に垂れ幕で隔てをつくって至聖所として、そこに「契約の箱」を納めました。やがてソロモンによって神殿が造られた時にも聖所の奥の至聖所に「契約の箱」は納められたと言われます。その「契約の箱」の「上蓋」が「償いの座」もしくは「贖いの座」です。そこに引き裂かれた犠牲の血を注ぎ、犠牲の獣を備えたわけです。その時「償いの座」の上から神が臨み、また語ると言われ、契約の箱の蓋である「償いの座」は、神の啓示の場所、神との出会いの場とされました。しかし契約の箱はバビロンの王ネブカドネツアルによるエルサレム攻撃で紛失し、その後エズラやネヘミヤによって再建された第二神殿には欠けたままでした。これに対し神が意図した本来の「償いの座」は十字架の主イエスであると言うのです。それでルターは「償いの座」と訳しました。
これに対し、ピューリタンたちの時代の King James Version (欽定訳)では、ここを「座」ではなく、その座に捧げられる「犠牲の供え物」と訳しました。新共同訳聖書はその訳を継承しています。神は御子キリストを「犠牲の供え物」としてお立てになったのか、それとも「契約の箱の蓋」(贖いの座)として立てられたのでしょうか。血の注ぎによって「犠牲の供え物」は「贖いの座」に備えられます。そして神との契約を破った者の償いがなされ、神はその者の罪を赦し、義となし、平和な関係を再建してくださいます。どちらの訳でも大きな違いはないとも言えます。しかしヘブライ人への手紙では「償いの座」でキリストを指してはいませんから、キリストを「償いの座」とする用法はここだけになります。それに対し主イエスは「犠牲の供え物」であることは、多くの箇所で語られます。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ 1・29)と主イエスは言われます。それはイエスこそ世の救いのためのまさしく「犠牲の供え物」ということでしょう。しかしどちらにせよ、あるいは両方の意味を持って、神は十字架の主イエスを「贖いの座」にし、かつそこに備えられた犠牲「神の子羊」とされたとも言えますでしょう。神は御子であるキリストの十字架による贖いを立て、わたしたちとの出会いの場となさり、我らと共なる神でいてくださいます。丘の上の十字架の下で、今日もわたしたちは罪を贖われ、そして赦され、神との平和な交わりに入れられ、生きる喜びと力を与えられます。感謝したいと思います。
天の父なる神様、ゴルゴタの主の十字架によって、主イエス・キリスト御自身がわたしたちのための身代金として御自分をお捧げ下さったと共に、あなた御自身が、尊い独り子をわたしたちの救いのために立てて、血を流す贖いの供え物としてくださり、わたしたちの罪の処置をしてくださいましたことを感謝いたします。信仰が薄く、あなたに対する信頼も曖昧なわたしどもですが、神様どうか、あなたの赦しの中で回心することができますように。主イエスの召しに応えてあなたとの平安な、また命に満ちた交わりに力づよく生きることができますように。またわたしたち教会の枝が、生けるあなたの恵みの御支配に背き続けているこの世にあって、あなたの恵みを証し、主イエスの十字架の福音を伝える教会であることができますように、聖霊のお導きをお願いいたします。教会の頭である主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。