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銀座の鐘

「廃墟の丘の上の再建」

説教集

更新日:2020年04月03日

2019年「銀座の鐘」4月号 説教 東京神学大学名誉教授 近藤勝彦協力牧師 

エレミヤ書30章18~22節

廃墟の上の再建

 預言者エレミヤは「禍の預言者」と言われます。イスラエルの民の不信仰を糾弾し、不信仰の結果として北からの脅威とユダ王国や都エルサレムの壊滅が「神の審判」として来ることを預言したからです。しかしエレミヤは「救い」をまったく語らなかったわけではありません。エレミヤ書31章では「新しい契約」の預言が語られます。今朝の箇所には、「見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復し、その住む所を憐れむ」とあります。イスラエルの運命の転換が預言され、神がその民を再建すると語られています。
 ここに「都は廃墟の丘の上に建てられ、城郭はあるべき姿に再建される」と言われます。イスラエルの運命に転換がもたらされ、都は「廃墟の丘」の上に「再建される」と言うのです。都の再建が「廃墟の丘」の上に遂行されるとはどういうことでしょうか。およそあらゆる再建は廃墟の上に遂行されると言えるかもしれません。日本も73年前、廃墟と化した焼け跡から再建されました。東京の廃墟は、一面何もない焼け野が原でした。しかしエルサレムの廃墟はそうではありません。何もない状態に戻すことはまずできないのです。廃墟の残骸が層をなします。それで再建は廃墟の丘の上になされなければなりません。西日本豪雨の被災地で、被災したその上にさらに台風を迎えたとき、もう一度土砂災害に見舞われたら絶望だと被災者が語っていたのは印象的でした。先の土砂の片付けができていないのです。再建するには、取り除くべきものをまず取り除き、廃墟を片付けなければなりません。ゼロからの再建でなく、そこに戻すまでが一苦労なマイナスからの再建です。その再建は神の憐れみの主導によるとエレミヤは語りました。

魂の再建

 20世紀の代表的な福音派の説教者がこの箇所について、エレミヤの言う廃墟の丘の上の再建は「魂の再建」であると語っています。再建は都市の再建でしたが、それだけではありませんでした。それは同時に「魂の再建」でなければならなかったのです。敗戦後の日本も、国や都市の再建だけでなく、魂の再建が必要だったのではないでしょうか。崩壊の真の原因は、魂にあったと言わなければならないからです。そして魂の再建は、都市の再建より一層長い時間と深刻な困難を抱えています。犯した失敗や敗北の原因は深く魂に根差しており、無謀な戦争による敗戦は、魂の敗戦でした。廃墟はただの廃墟ではありません。それは生々しい精神の敗北であり、罪とその傷跡を意味しています。廃墟の残骸処理は、道徳的欠陥や精神的歪みの処理でもあるのです。そもそも神と仰ぐお方が違っていました。まことの神をまことに神とする魂の再建でなければ、道徳の再生も不可能でしょう。そのためにはまず罪が処理されなくてはなりません。取り除くべきものが取り除かれ、その上で精神の住まい、新しい道徳、新しい価値観が再建されなければならないでしょう。そうした魂の再建は、まさに「霊的な作業」であって、私たち自身の人間力の範囲を越えています。神の憐れみがなければ、精神の深みからの再生は不可能でしょう。神が生き返らせてくださるのでなければ、本当の意味での再建は不可能です。
 この再建が果たされるとき、「感謝の歌と楽を奏する者の音が聞こえる」とエレミヤは預言しました。感謝の歌と楽を奏する集い、つまり礼拝の再建が語られているわけです。エレミヤの「救済預言」は、都の再建であると共に、精神の廃墟の上に再び建て直される礼拝の再建であり、礼拝共同体の再建だったのです。それによってはじめてイスラエルの民の再建は成り立ちます。そのとき22節の言葉が語られます。「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる」。神とイスラエルの契約締結の言葉です。エレミヤの救済預言は、神との契約の回復の預言でした。わたしたちが神の民となり、神がわたしたちの神となる。この契約の回復は、神との平和の成就であり、それが魂の再建になって、救済を意味します。

神が起こす仲保者

 この再建を神がどのように進めてくださるか、それがこの箇所の中心的なメッセージです。神はひとりの「指導者」をイスラエルの民の間から起こすと言われます。その「治める者」が彼らの中から出る。「指導者」と言い、「治める者」というのですから、王のことが言われているでしょう。しかしエレミヤは「王」という言葉を使いません。廃墟の瓦礫や残骸を本当に片付けることのできる方、そして町と魂を廃墟の丘の上に再建し、讃美と楽の音の礼拝の集いを再建できる方、その方は確かに神が民の中から起こす指導者、治める者ですが、神はその者を、「御自分に近づける」と言います。そして「彼はわたしのもとに来る」とも言われます。「神のもとに来る」というのは「王」よりも「祭司」を意味するでしょう。エレミヤはこの救済預言の中で、礼拝共同体としての民を治める者でありつつ、神に近づく祭司、しかも「命をかけて神に近づく祭司」、その王的な祭司を神御自身が立ててくださると預言しました。つまり神が「仲保者」を立ててくださるのです。王的祭司である仲保者です。その方が民から出て、命をかけて神に近づき、民のために命がけの執り成しをすると言われます。この仲保者の命がけの執り成しに、廃墟の上の再建はかかっています。「彼のほか、誰が命をかけて、わたしに近づくであろうか、と主は言われる」(21節)とあります。「命をかけて」は、「命の危険を冒して」、あるいは「魂を賭して」とも訳せます。旧約聖書でただここだけに出て来る表現です。エレミヤは神がこのような仲保者を立ててくださると預言しました。そうでなければ、廃墟の丘の上に都を、そして都と共に魂を再建し、神との契約を回復することはできないでしょう。真の再建は、命をかけて神に近づく者のみが果たし得ることです。彼のみが自分自身を捧げ、身を賭してなす、そういう仲保者がいなければならないのです。
 エレミヤの救済預言は、この「仲保者」にかかっています。この仲保者の姿に身近なのは、第二イザヤの「苦難の僕」でしょう。「その打たれた傷によってわれらは癒された」と言われます。同じく詩編106篇の詩人は、モーセをそうした仲保者として描きました。「主のお選びになったモーセは、破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」(口語訳詩編106・23)と歌われています。「破れ口」とは敵の攻撃によって城壁が崩されたとき、一度にどっと敵の軍勢が押し寄せて来る決壊箇所のことです。そこに立つのはどんな勇士もしり込みすると言われます。そこに立って命を賭す、それが神の御前に立つ仲保者の姿です。「彼のほか、誰が命をかけてわたしに近づくであろうか、と主は言われる」。エレミヤが救済を託して預言した仲保者、そして第二イザヤが「苦難の僕」に見た犠牲による贖い、そして詩編の詩人がモーセの中に見た仲保者の至難の働き、それらは皆、主イエス・キリストの姿を指差しているでしょう。主イエスは神の立てた真の大祭司として、御自分の命をささげて、ただ一度、しかも永遠に効力を発揮する十字架の贖いをなし、仲保の業をなさいました。エレミヤの救済預言は主イエス・キリストによって成就した仲保者の業を指しています。
 主イエス・キリストの命をかけた執り成しが、私たち自身であった廃墟の丘の上に私たちの魂を再建し、神との契約の回復を果たしてくれました。讃美と楽の音の礼拝の集いも再建されています。仲保者主イエス・キリストの働きの上に築かれ、再建された信仰の歩みを喜んで前進しましょう。

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