「開始された神の新しい計画」
説教集
更新日:2025年09月06日
2025年9月7日(日)聖霊降臨後第 13 主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 振起日・十歳児祝福式 牧 師 髙 橋 潤
出エジプト記1章22~2章10節
22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」
2章
1 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。2彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファル
トとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
4 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、5 そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。6 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。7 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」
8 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。9 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその子を引き取って乳を飲ませ、10 その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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先週まで創世記を読み進めましたが、本日から出エジプト記の御言葉に聴きます。
本日の聖書箇所はエジプトの王ファラオによる恐ろしい命令が記されているところです。それは「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。」という極めて乱暴な命令です。エジプトにおいて王さまはファラオといい、半分神であり半分人間であると信じられていました。ゆえに王は神として崇められ絶対的な権力を持っていました。ヨセフが大臣だった時代から年月が流れ、もはやヨセフを知らない時代です。エジプトにいるイスラエルの民ヘブライ人はエジプト人の奴隷になっていました。そのような時代に、ヘブライ人の男の赤ちゃんがエジプトの王女に拾われ、養子として育てられるという、モーセ誕生のいきさつが記されています。旧約聖書の偉大な指導者となるモーセ誕生物語です。
創世記において、神はアブラハム、イサク、ヤコブの神として、族長と呼ばれる一人一人と関わって、危機の中でそれぞれの家族が神によって救われる信仰の物語が続いていました。しかし、出エジプト記のはじまりは、族長たちの家族ではなく、奴隷となったイスラエル民族の物語に変わっています。イスラエルの子孫は、エジプトで奴隷となっていて、アブラハムが信じた神との交わりはどこかに消えてしまったかのように思えます。
神がアブラハムに約束した「わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように」(創世記 12:1-2)という言葉は消えてしまったのでしょうか。族長たちに引き継がれたあの約束はエジプトでは継承されていないのでしょうか。
出エジプト記を読み始めるために思い出さなければならない御言葉があります。創世記15 章の御言葉です。
創世記 15 章「13 主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。14 しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。 15 あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。16 ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」
驚くべき事に、将来イスラエルの神の民が異邦の国エジプトで奴隷となり、寄留者となることが、神のご計画であると記されているのです。神はイスラエルの神の民を奴隷としてエジプトの王に仕えることを予告していたのです。同時に、神の民だけを苦しめるのではなく、エジプトの国民をも裁くと記されています。
創世記15章の御言葉によって、奴隷としての苦しみには意味があること、神の御心とご計画を理解して読み進めたいと思います。その神の御心は 16 節「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」によって知ることができます。「アモリ人の罪」が極みに達するということは、エジプトの奴隷であるヘブライ人もエジプト人も自らの罪を神の御前で十分知らなければならないということです。エジプトの王ファラオに仕えるエジプト人も奴隷であるヘブライ人も、神の御前で自らの罪を知るまで苦しむと理解することが出来ます。そうであるならば、エジプトにおける奴隷となった神の民は、神から見捨てられて奴隷になっているということではなく、神の御手の中で奴隷になっていることになるのです。神の守りと導きの途上で奴隷になっているのです。エジプトにおいて神の民が大切な訓練を受けていると理解出来るのです。モーセはヘブライ人として生まれ、エジプト人として育ちました。成人したモーセはヘブライ人からもエジプト人からも信頼されない二重の苦しみを与えられました。神はモーセに二重の苦しみを与える決断をしたのがモーセ誕生のいきさつです。モーセは王宮で育てられ、王女のもとで育てられたことは大変恵まれた半生に見えますが、実は神はモーセにイスラエル民族の罪、エジプト人の罪を知らせ、神の民をファラオではなく、真の神の御前に立ち帰らせるために、苦難の道を与えたのではないかと思います。
創世記から出エジプト記への移行には大切な意味があります。それは、イスラエルの歴史の新しい時代のはじまりを示すことです。これまでは、創世記は家族の歴史です。出エジプト記はイスラエル民族の歴史です。家族史から民族史への移行が行われているのです。出エジプト記は、創世記からはじまった歴史につながっています。出エジプト記1 章 7 節「5 ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフは既にエジプトにいた。6 ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、7 イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」 家族の歴史から民族の歴史に移行して、イスラエルの神の民が信仰に立ち帰る物語です。自らの罪に気付き、神を畏れるように変えられなければなりません。
7節「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」の言葉は、創世記 1 章 28 節「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という神の祝福の御言葉がこうしてエジプトにおいて成就したようにと思われます。しかし、出エジプト記の始まりには「神の祝福」が告げられていません。新しい時代を迎えたのですが、ファラオを恐れる事はあっても信仰が見えないのです。自らの罪も信仰も、神を仰ぐ姿勢も見当たらないのです。
出エジプト記は新しい時代についてこう語ります。1 章「8 そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、9 国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。」新しい時代、イスラエル人という民は、どうしたら神にお会いできるのでしょうか。どうしたら自らの罪、神を忘れている罪に気が付くことが出来るのでしょうか。
出エジプト記 1 章、新しい時代の幕開けは、明るい幕開けとはいえません。エジプトの王ファラオがいつかこの民が一致団結してエジプトに立ち向かってくると恐れました。そして彼らに重労働を課して虐待しました。しかし、イスラエルの民は、虐待されればされるほど、増え広がっていきました。とうとうエジプトの王は、助産婦に出産時に男の子ならば殺せと命じます。しかし、助産婦は、王にこう説明しました。ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で助産婦が行く前に産んでしまうのですと。神は助産婦たちに恵みを与えたと記されています。王は、全国民に命じます。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」と。
こうして王が神になった時代、真の神の御手が動き始めたのです。王の足もとで、生かしておけないはずの三ヶ月の男の子が王女に拾われて、王女が養子として受け入れ、モーセと名付けました。信仰なき時代、神が動き始めたのです。
出エジプト記が私たちに伝えている主題は、イスラエル民族を思う神の計画とエジプトの王の思惑が鮮やかに描かれることです。
1章に登場する 2 人の助産婦の国籍ははどこであるかという学者の間の議論があります。1章「15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。」この2人の助産婦はヘブライ人であったのか、またはヘブライ人担当の助産婦であったのかという問題です。「ヘブライ人の助産婦」という言葉がヘブライ人を取り上げる助産婦という読み方が出来るからです。この助産婦たちの国籍がもしヘブライ人であったなら、奴隷となったヘブライ人の助産婦が「神を畏れた」ことになります。この助産婦がエジプト人であったなら、エジプト人の助産婦が「神を畏れた」ことになるのです。いずれにしても、助産婦が神を畏れたゆえに、助産婦に男の赤ちゃんを殺させる計画が失敗に終わったのです。ここにこそ神の新しい時代の幕開けを見ることが出来るのではないでしょうか。神は、信仰なき時代に 20 節に記されているように「助産婦たちに恵みを与えられた」のです。この御言葉に神の救いの先手を受けとめたいと思います。
「17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。18 エジプト王は彼女たちを呼びつけて問いただした。「どうしてこのようなことをしたのだ。お前たちは男の子を生かしているではないか。」19 助産婦はファラオに答えた。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」20 神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。」
神は助産婦に続いて、王女の心にヘブライ人の男の子であることを承知の上で「ふびんに思う」心を与えました。防水の籠に寝かせナイル河畔の茂みにおきました。水浴びをしていた王女が籠を見つけ、泣いている男の赤ちゃんを見つけ、「ふびんに思い」、赤ちゃんの実の母親が乳母として雇われて、乳離れするまで実の母がモーセを育てることができました。神のご計画は、川面に浮かぶ何も出来ない無力な幼子を川に流す御業によってはじまったのです。籠の幼子を通して、神の民を救う計画がはじまります。静かな小さな出来事です。しかし、神のご計画は、この恵みの先手で驚くべき救いの出来事を実現していくのです。
新約聖書においてモーセの誕生物語と重なるのは、マタイによる福音書の占星術の学者たちの訪問と新しい王の誕生を恐れたヘロデ王による男の赤ちゃん抹殺計画です。出エジプト記のモーセの誕生とマタイ福音書の主イエスの誕生に関する御言葉は関連し合っていると指摘されきました。モーセの誕生は、主イエス誕生の時代のヘロデ王が真の王の誕生に脅えたように、エジプトの王が、増えてきた神の民に恐れおののきはじめたことを物語っているのです。地上のファラオが王なのではなく、モーセを遣わす神こそが真の王なのです。
私たちの世界は、エジプトの王、ヘロデ王のような脅え恐れに取りつかれたような指導者がくり返し登場しています。しかし、そのような指導者ではなく、真の救い主を見分ける信仰の目を与えられ、神を仰ぎたいと思います。
主イエスが再び来たりたもうことをしっかりと心に刻み、この世の指導者に心を奪われることのないように信仰生活を全うしたいと願います。いつの時代も自分の地位や名誉が奪われることを恐れ、幼子を犠牲にするような過剰な暴走をする指導者が現れます。しかし、私たちは神の御前に立ち続けること、そして神のみを神として礼拝し、神のみを正しく畏れる信仰生活を進めてまいりましょう。