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銀座の鐘

「神の御計画の中に」

説教集

更新日:2025年09月13日

2025年9月14日(日)聖霊降臨後第14主日・敬老祝福礼拝 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師  川村満

出エジプト記3章1~12節

1, モーセの40歳までの歩み
先週より、出エジプト記から御言葉を聞いております。モーセの誕生から時が経ちまして、モーセは大人になり、そして本日の箇所では、もう80歳の高齢者となったモーセの召命の物語が描かれておりますけれども、それまでの物語。2章で描かれております出来事をかいつまんで話すこともまた許していただけるかと思います。エジプトでイスラエル人が増えていくのを恐れたファラオは、二歳以下の男の子を殺すように命じましたけれども、ちょうどその時に生まれたモーセは、家族に守られる中、ナイル川の葦の茂みに置かれました。そこにちょうどファラオの娘が通りかかり、泣いているモーセをかわいそうに思い、育てることになりました。そして、モーセはファラオの宮殿で育てられたのでした。40歳まで、モーセは貴族の教育を受けて、王の下に仕えました。しかし大きな転機が訪れます。ある時、エジプト人が、奴隷のヘブライ人を鞭打っているのを見て、自らの出自がイスラエルであるモーセは深い憤りをもってエジプト人を襲い、殺してしまいました。そして別の時に、ヘブライ人同士が喧嘩をしていたのを仲裁しますと、一人のヘブライ人にこう言われたのです。誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」こう言われたモーセは恐れました。このことを告げ口されたら自分の命はない。もはやここにはいられない。ファラオの権力を恐れて、逃げたのです。ミディアンという地方に流れたモーセはそこでミディアンの祭司であるレウエル。またの名をエトロという祭司の娘を妻にして、その地に住み着いて、ずっと羊飼いをしていました。そしてそのまま、羊飼いとして月日が経ち、とうとうモーセは80歳にもなったのでした。おそらくモーセはこんなふうに考えていたのではないでしょうか。昔はわたしもエジプトの宮殿で一流の学問を学び、王に仕える身であったけれども、正義漢ぶって同胞を助けようとして、逆に裏切られてこのざまだ。しかしこの田舎での羊飼い暮らしも悪くない。このままわたしの人生はここで終わるのだろう。毎日、太陽が東から上って、西に沈んでいく。都会のエジプトとは違い、時間の流れも穏やかに、何事もなく過ぎていく。そのような繰り返しの中でモーセの心も優しくなり、自分の人間としての限界を悟り、達観したようであったのかもしれません。モーセは自分とその人生にこれ以上の期待もなく、いつ終わりを迎えてもよいと思っていたことでありましょう。すでに、40歳の時に、命を狙われて、エジプトを離れた時に、モーセの心は打ち砕かれたのだと思います。どれほど自分が正義を貫きたくとも、巨大な権力には打ち勝つことはできないのだと。絶望して、世捨て人となったのです。何もできなかったという悔しさも、正義も捨てて、いわば世捨て人となったのです。

2,神の語りかけ
しかしそのあと40年も経ったときのことです。あるとき、羊を追って、ホレブ山(シナイ山の別名だと言われております)に来ました。すると、不思議な光景に出会います。燃えている柴がありました。しかしその柴は燃え尽きずに炎の中で輝いているのです。そのような不思議な風景をよく見たいと思ってモーセは近づいて来るのを、主なる神は御覧になっておられました。もっといえば、主が、このような不思議な、燃え尽きない柴をモーセの前において、モーセを御自身のところへと招かれたのだと言えます。モーセは導かれるままに柴の方に来ると、ふいに主はモーセに語りかけます。「モーセよ、モーセよ」何気ないように語られておりますが、モーセはこのとき、この神秘的な、神の臨在に深い畏怖の念を感じたにちがいありません。主はモーセに命じられました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
そして神は続けてモーセに言われます。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」―あなたの父、つまりモーセの父祖たちのことであります。他の聖書の翻訳では、先祖とあります。モーセにとって、そしてイスラエルの人々にとって、アブラハム、イサク、そしてヤコブはまことに近い親しさを感じる、父祖たちでありました。かつて生きていたというだけでなく、今も彼らは天において生きている。眠っているのです。神と関りをもった人々は永遠に生きるからです。そのように、人間とかかわりを持ってくださる神であるということを現しているのです。

ブレーズ・パスカルという人の名前を聞いたことのない人はほとんどないと思います。フランスの哲学者であり数学者。物理学者でもある人です。大気の圧力を表すヘクトパスカルという単位は、このパスカルの名前からとられています。彼が年を取ってから、大きな霊的な体験を経てキリスト者になり、のちにパンセという信仰的な書物を書いたことは有名な話であります。このパスカルがキリストと出会い、回心した時に、その喜びを羊皮紙につづり、それを自分のジャケットの裾に縫い込んでいたという逸話があります。そこにはこのように書かれていたのです。少し抜粋して読みます。「『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』哲学者や学者の神ではない。確実、確実、直感、喜び、平安。イエス・キリストの神。『わたしの神、また、あなたがたの神』。『あなたの神は、わたしの神です』。この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。神は、福音書に教えられた道によってしか、見出すことができない。人間のたましいの偉大さ。『正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知りました』。よろこび、よろこび、よろこび、よろこびの涙。わたしは、神から離れていた―、どうか、永遠に神から離れることのありませんように―」

このような言葉が綴られていたのです。このパスカルの回心の言葉が示すことのひとつは、神様とは、アブラハム、イサク、ヤコブの神。歴史に働かれ、人間の歩みに働きかけてくださる愛の神である。その神が私たち一人一人の人生にも介入してくださる。主イエス・キリストという方を通して神は私たちの本当の神となってくださる。そういう出会いがあるのです。この喜びへと、神はここにいる私たちをも招いてくださっているのです。さて、しかしモーセは神が語りかけたとき、彼の生活の中にふいに神と出会ったとき、神を見ることを恐れて顔を覆った、とあります。それほどに神の臨在というものは恐ろしいのです。神を知るということ。それは神に知られている自分を畏れと驚きをもって知るということだからであります。私たちはしかしそのような恐れをほとんど持たずに、主なる神を礼拝しているのではないでしょうか。なぜ恐れがないのか。私たちの神に対する信仰や、神認識が甘いのでしょうか。どこかで甘えているのでしょうか。そういうことも言えるかもしれません。けれども、このようにも言えるのではないでしょうか。すでに、神は、私たちの心から恐れを取り除いてくださったのではないか。キリストにおいて、私たちの内に、恐れずに来るように招く神様なのではないだろうか。新約聖書のヘブライ人への手紙10章21節以下にこのようにあります。「私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」私たちが神を知るというとき
に、もう、顔を伏せなくてもよいのです。主イエスの恵みにおいて、私たちは天の神を父よと親しく呼びまつる者とされたからであります。信頼しきって真心から近づくことを許される。それが十字架と復活を通して始まった新しい時代だからであります。ペンテコステを通して始まった聖霊の時代であるからです。

3, 神の御計画
神の臨在の前に、恐れて御前に顔を伏せているモーセに神は語りかけます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、へト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」ここでは神御自身が自らどのような方であるかを私たちに示してくださっております。主は、イスラエルの痛み、苦しみを知ってくださる方であります。そしてイスラエルをエジプト人の手から救い出して、乳と蜜の流れる土地に導いてくださる方であります。また、イスラエルの祈り、叫びを聞いて、応答してくださる方であります。かえりみてくださる方なのです。その憐れみ、慈しみは今も現代に生きる私たちにも注がれています。そして今を生きる私たちの苦しみ、悲しみを知り、その叫びを聞いてくださる方であります。そのために、モーセがイスラエルのために遣わされたように、わたしたち教会を、神の御下に召し集め、そしてこの世に遣わしてくださるのです。そこにおいてわたしたちもまたモーセと同じ使命が与えられ、神の御名によって生きる者とされているのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」主はここでモーセを、神の民イスラエルを導く指導者として任命されました。
しかし、モーセは気後れしてこのように言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか。」わたしは何者でもありません。一介の田舎の羊飼いにすぎません。そんなわたしに、そのような大それたことができるはずもありませんとモーセは言うのです。これは謙遜に見えて、不信仰な態度でありました。主の約束と恵みを信頼できずに、自分の弱さ、愚かさだけを見つめて、神の召しに応えないでいるからです。なぜモーセはこんなに憶病なのでしょうか。おそらく、40年前の失敗が彼の心を押しとどめているのではないでしょうか。彼は自分の力で、エジプト人の手からイスラエルを助けようとしましたが、一人のエジプト人を殺し、そのことを同胞であると思っていたイスラエル人に指摘されてうろたえました。モーセは過去の失敗によってすっかり自信を失い、無気力になっていたのです。しかし神はここでモーセに言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。」恐れ、尻込みしているモーセに、全能なる神御自身があなたと共にいると確かに約束してくださっているのです。そしてモーセを、エジプトからイスラエルを導く指導者として任命されたのです。
わたしたちもまた、「今、行きなさい」と言われることがあります。自分の内を見つめると、まだ足りないと思うのです。力不足だと思うのです。しかし、主が行けと命じてくださるならば、主は必ず共にいてわたしたちを助けてくださるのです。
逆に、私たちは、主なる神が、行きなさいと言っておられないのに、自分だけの判断で行こうとするならば、40歳の時のモーセと同じ過ちを冒してしまうのではないでしょうか。それゆえに、私たちは、祈らなければなりません。祈りの中で、神の遣わされる時。用いてくださる時を知らなければなりません。今は、まだ備えの時なのか。あるいは、「今、行きなさい」という御声を聞くことかもしれません。あるいは、道は開かれているけれども、なおその道を歩む中で艱難が待ち受けているかもしれません。しかし、とにかく主なる神はモーセと共におられたように、わたしたちと共にいてくださり、日々、助けてくださる神なのです。そのような主に、従いたいのです。従う者と主は共におられる。それが聖書が告げる確かな約束であるからです。私たちの人生には、様々な時があります。今がどういう時であるのかわからない。そういう時があります。ちょうど、エジプトを追われたモーセがミディアンの地でただ羊を飼うだけの40年間を過ごしたように。
しかしその時は無意味な時ではなく、モーセの心を打ち砕き、謙遜な者とするために必要な時間でありました。同じように主はわたしたちをその大いなるご計画の中に置いてくださっています。私たちが、主の深い御摂理とその御計画の中にいない時などはなく、わたしたちの人生の全ての時。苦しみの日にも、悲しみの日にも主の恵みとお計らいはあるのです。意味の分からない苦しみや、いつまでなのかわからない、暗いトンネルの中を歩み続けるような経験などを通して、私たちの信仰は練り清められていきます。そこでわたしたちは、自分の能力や考えだけで自分の人生を歩もうとする者ではなく、神の力に寄り縋り、神の恵みと憐みを心から信頼し、御心を尋ねて歩む者となったときに、つまり打ち砕かれていったときにこそ、わたしたちは神の栄光を表す器として用いられるのであります。主は、聖霊を与えてくださった者ひとりひとりの魂の成長を見守り、御自身の栄光の器として用いられます。そして主はその御自身の神の国のご計画を今も推し進めて行かれます。私たちはそのような深い憐みに基づいている、御計画の中にあるということを深く受け止めて、主の御国のために。その御栄光を表す者とされていることを感謝して歩んでいきたいのです。

祈り
天の父なる神様。わたしたち一人一人の人生を特別なお計らいの内に置いてくださっていることを信じて感謝いたします。今、なぜこのような状況にいるのかわからないという悩みや苦しみの中にあっても、主が、何か、私たちを信仰を成長させ、神の御国のための働きのために用いるために鍛えてくださっているのだということを信頼して、今為すべきこと。できることだけをしていくことができますように。またいつまで続くのかと思えるような状況の中でも、あなたが私たちと共に生きてくださっていることを信頼して今日を大切に歩む者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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