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銀座の鐘

「約束する神と百歳の信仰」

説教集

更新日:2025年09月20日

2025年9月21日(日)聖霊降臨後第15主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧 師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙4章13~17節

  聖書は旧約聖書と新約聖書と言われますが、それは古い「約束」(あるいは「契約」)と新しい「約束」(あるいは「契約」)のことだということは多くの方が知っています。オールド・テスタメント、ニュー・テスタメントと言われる「テスタメント」には、「約束」「誓約」という意味があって、聖書は約束する神を語り、神の約束を伝えているわけです。旧約は、主イエス・キリストに向かう神の約束で、主イエスが来られ、その十字架と復活の出来事によって約束は成就されました。その主イエスにあって神の国が開始され、その御国の完成が約束されました。新しい約束ですが、旧約、新約を貫く一筋の神の約束の新しい段階と言うこともできるでしょう。
 旧約聖書の中で神の約束を受け、それを信じ、神との交わりに生きた人生は、アブラハムの中に典型的に見られます。それによってアブラハムは「信仰者の父」と言われ、キリスト者の信仰の模範ともされています。アブラハムが神から約束を受けたのは、一度ならずで、何度も創世記に記されています。最初は、創世記 12 章、アブラハムがまだアブラムと言った頃、神は「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言い、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束なさいました。この約束を受けてアブラムはハランを出発し、新しい人生に旅立ちました。すでに 75 歳であったと記されています。
 その後、神はアブラムに「天を仰いで星を数えることができるなら、数えてみるがよい」(創 15 章)と言われます。東京では星はあまりよく見えません。それでも地方の高原などに行きますと、夜空には夥しい数の星が目に入るでしょう。まして日本とちがって乾燥した砂漠地帯の、それも古代のパレスティナでは、満天の星空は怖いような星の数であったと思われます。そこで「あなたの子孫はこのようになる」と主は言われ、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあります。約束してくださる神を信じる信仰は、その人を義とすると言われるわけです。さらに創世記 17 章では、99 歳になったとき、神はアブラムに「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからだ」と言われます。アブラハムという名は、「多くの国民の父」と言う意味があるわけです。
 今朝のローマの信徒への手紙 4 章 13 節に「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」とあります。「世界を受け継がせる」と言うのは、神の約束は個人のことに尽きないわけです。アブラハムは神の約束を信じて、「多くの国民の父」となり、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたように、神の祝福は世界を包む祝福で、それによって救われた世界を継がせるわけです。わたしたちの信仰も世界のことを回復しなければならないでしょう。神の救いの約束は主イエス・キリストよって成就し、主イエスの福音は、わたしたち個人個人を包みますが、それだけでなく世界を包むのをキリスト者は証言します。「神の国の福音」によって神の国を継ぐ者とされることは「世界を受け継ぐ者」とされることでしょう。
 神が「約束」なさる神であることに応答するのは、その約束に信頼し、その成就を信じる信仰です。何か自分自身で事を成すというのではないので、律法に基づいてではないと言われます。アブラハムのとき、モーセによる律法はまだありませんでした。しかしモーセによる律法はなくとも、人間生活のルールはどの時代、どの社会にもあると言えるでしょう。それに従って実績を積み、成功して名を挙げ、報酬として名誉や地位を得ます。律法に頼る生き方は、人間の業による報酬獲得を目指し、結局、自己救済に努力する道です。自分自身の力による成功を狙うということは、成功しても自慢話にすぎず、失敗すれば失格者になる。成功か失敗かと言った生き方です。それに対し神の約束は成功とか報酬とかの話ではありません。「恵みによって」約束にあずかると言われます。神の約束とその成就は、恵みの御業で、恵みというのは、それを与えるに価しないものに対し、にもかかわらず与えられるわけで、一方的な神の愛の約束です。それを信じて受け取るというのは深い喜びのあることです。律法にはこの愛の喜びがない。
 約束する神に対するアブラハムの信仰を、パウロは二つの言い方で語りました。一つはアブラハムは「死者に命を与える神」を信じたと言います。そしてもう一つは「存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じたというのです。一方は、復活の信仰、もう一つは創造の信仰と言ってもよいでしょう。しかし少し違いもあります。アブラハムは自分に与えられた神の約束を信じました。それが「死者に命を与える神」を信じたと言われるのですが、確かに復活の信仰に通じていますが、この場合の「死者」と言うのは、すでに死んだ死者のことでなく、アブラハム自身のことでしょう。およそ百歳になったアブラハムのことです。誰だって百歳にされば、自分の衰えを感じるでしょう。彼は年老いて体の衰えた状態で、妻のサラ共々自分たちの力で新しい命を産むことはできないわけです。しかし神の約束は、この言わば死んだ状態にある自分に将来を与え、多くの子孫とさらに世界の諸民族の祝福を約束するわけです。それを信じる百歳の信仰がアブラハムの信仰でした。それは神は「死者」のような自分、死を抱えた自分に命を与える神を信じたのだとパウロは言ったわけです。もう一つの「存在していなものを呼び出して存在させる」とはイサクを始め、アブラハムの子孫のことを言っています。
 神の約束は恵みであって、自分からは何も産み出せない、いわば死んだような状態にあったとしても、なおその約束を受けとることができ、それを信じる信仰も与えられます。信仰においては、律法による人生のように自分の力量は決め手にならないのです。わたしたち自身の力量や才覚でなく、神の大能の力が発揮される舞台にされる、百歳の自分をお用いになる神に信頼することができます。そうなると信仰は、自分の力で何とか信じることでさえないでしょう。信じる者としてくださることを受け容れるだけです。生ける神を信頼する信仰を与えられて、神との交わりに入れられ、しかもその信仰が義とされるということは、その神との交わりの中で「正しい者」にされるということです。神の約束を信じる者にされることは、死者に命を与える神を信じ、その信仰の中で正しく生かされると言われているわけです。
 神はたとえわたしたちが死んだような状態にあるときにも、その愛の恵みにより約束を与え、その約束の神を信じて生きる信仰を呼び出してくださいます。信仰によって神との交わりの中で命を与えられ、神の御前に正しく生きる者にしてくださいます。そして、神の約束を信じる信仰は、今は無いものをも恵みによって将来の中にあるのを見ます。神の御手の中に未来を見まるわけです。神の約束があるので、それを信じて喜び、希望に生きることができます。それが、アブラハム百歳の信仰でした。わたしたちも神の約束を信じます。主にある御国の完成と朽ちることのない天の資産、栄光の主イエスの体に与ること、そして御国の多くの民の集い、世界を受け継がせる神の約束を信じます。
 あるとき主イエスが、アブラハムの信仰のことを語られたことがあります。それをヨハネによる福音書が伝えています。「アブラハムはわたしの日を見るのを楽しみにしていた。そしてそれを見て喜んだのである」(ヨハネ 8・56)と主イエスはおっしゃたのです。神の約束の成就をアブラハムは望み見ていました。それはやがて来る主イエス・キリストを見ていた。それでアブラハムはイエス・キリストの日を見て喜んだと言われたのです。神の約束を信じる信仰は、百歳になっても、行く先に主キリストを仰ぐ信仰です。わたしたちも将来の主イエス・キリストを仰ぎ見ることができます。わたしたちのために苦難を負い、復活し、罪と死と悪魔的な力に勝利した主の栄光の姿を仰ぎ見ます。栄光の体をもって来られる主キリストによって、神の約束が成就し、神の国を継ぐ民の中に私たちも加えられるでしょう。

 天の父なる神様。あなたが恵みの約束にわたしたちをあずからせてくださると御言葉に聞き、感謝して、御名をほめたたえます。どうかあなたの真実な約束に対し、真実な信仰をもってお応えすることができますように。あなたに信頼し、約束を信じて生きる喜びのうちに、新しい週の一日、一日を歩んで行くことができますように。死んだような者にも命を与え、新しい命と存在を与えてくださるあなたの御力をほめたたえます。主イエス・キリストにあるあなたの恵み、その憐み、そして創造の御力を証し、宣べ伝えていくことができますように。御子・主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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