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銀座の鐘

「奴隷の家から神の家に」

説教集

更新日:2025年09月27日

2025年9月28日(日)聖霊降臨後第16主日 銀座教会・新島教会主日礼拝  副牧師 岩田 真紗美

出エジプト記 20章1~3節 (旧 p.126)

 イスラエルの神の民は、奴隷として働いていたエジプトの国を出てから漸く三月目(みつきめ)の或る日、神が示された「シナイ」という場所に着きました。そしてそこで最初におこなったことは、自らの飲料を探すために井戸を掘り当てることでも、食事を拵えるために竈の火をおこすことでもなく、荒れ野に天幕を張り、シナイ山に向かって宿営すること(出19:2)でありました。
 長く危険な旅路を共に歩んでくださった神は、この日、「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来た」(同19:4)と、山からモーセに語りかけて言われました。そして今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちは「すべての民の間にあって、わたしの宝となる」(同19:5)とモーセに告げられました。山から宿営に戻ったモーセもまた、この神の言葉を民のまとめ役である長老たちの前で語り伝え、民は皆一斉に、「主が語られたことをすべて行ないます」(同19:8)と誓いました。この三日後に主がシナイ山に降られるという約束を、神の民は心から信じて待ちました。それゆえに、神の言葉が与えられることに大きな期待を寄せつつ、礼拝所となる「天幕」を荒れ野の中に先ず、据えたのであります。
 ここに至るまでの歩みを振り返りますと、モーセが率いる神の民というのは、まるで秋の山を登る遠足の子どもたちの隊列のように「喉が渇いた、お腹が空いた、期待通りではなかった…」等々、不平不満の声ばかりを響かせていました。しかし、シナイ山を目前にした今日、自分たちにとって重要な神の言葉、すなわち「十戒」を頂くための準備に民は誠実に心を向けています。祝福の基(もとい)となると神から宣言されたあのアブラムの子孫であるイスラエルの民は、神の霊によって守られて過ごすうちに、神が命じられる言葉を、モーセを通して真剣に受け止める群れに成長していったのでしょうか。ただ、神の約束通りに三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、山全体が激しく震えると、宿営にいた民は皆、震えたと聖書は伝えています。
 このような状況のなかで、心を静かにして今日与えられる神の「すべての言葉」(20:1)、つまり「十の言葉」と言われる「十戒」を授けられるために、神はモーセとアロンだけを選んで山に登らせました。そしてモーセは民のもとに直ぐに下って行き、その内容をすべて彼らに告げたのです。旧約聖書の中で神の約束の言葉、つまり契約が与えられる時というのは、いつも神が先立って契約の相手を選ばれます。またその契約の土台は「神の言葉」であるということに心を向けたいと思います。契約相手である神の民は、神が示される言葉をよく聞いて、従い、その内容を守ることを通して、生ける神との豊かな交わりを繰り広げていくのです。今日の聖書箇所では特に、神の慈しみ深い、憐れみに満ちた民への思いが積み重なって、「雨降って地固まる」という諺のように、神の民を思う涙の量がある範囲を超えて雨のように流れ出し、神のご意思が固まったその時に、神が選ばれた指導者が確かな備えを求められた上で、神の言葉が与えられたと受け止められます。それは、このような重要な務めにモーセ自身が専念できるように、今日の箇所の少し手前のところで舅のエトロが大切な助言を彼に与えている、そのような日常のささやかに見える神の民の情景描写からも伝わってくるのです。
 神が民を救おうと決意なさる時の準備のされ方に狂いはなく、非常に自由で綿密な計画の下に私たちの信仰共同体の安全は、守られているのだということを出エジプト記は語ります。「荷が重すぎて、一人では負いきれない」(同18:18)とされるモーセの務めに対して、ある時、舅のエトロが明確な牧会的指導をしています。18章ですが、モーセが神の民のリーダーとして群れの中の大きな問題も小さな問題も、すべてを把握して仲裁し、裁きの言葉を告げて解決に導いて、その結果として疲労を溜めていた時のことです。背負う必要のあるものと、他人に任せることで済ませられるものの「線引き」が上手く出来ずに、モーセは現代風に言うのであれば潰れそうになっていました。そこで牧会カウンセリングのような導きを、エトロが行ったのです。エトロというのは皆さまも良くご存知の通り、祭司という立場にありながら、モーセの大事な妻や子どもたちを一時的に預かることもする、この教会にも見られるような頼り甲斐のある「お義父さま」です。裁きの場における重荷は、他の信頼に値する人物と「共に分担する」(18:22)ことが望ましいのではないか、という義理の父親からの愛の溢れるアドバイスに、モーセは素直に従いました。そしてこれから「十戒」が告げられるという神の民にとって最も重要な時に向けて、全身全霊で備えをしていったのです。十戒が語られる出エジプト記 20章の直前において、このような非常に家庭的な場面を私たちが聞くとは、聖書が如何に神の愛の言葉に満ち溢れた正典であるのか、ということが分かります。神の与える掟は「蜜よりも蜂の巣の滴りよりも甘い」(詩編 19:11)と詩編の詩人が歌っているように、これが神の掟を受け取る直前の、旧約聖書が描き出す「風景」なのです。
 神はこれまで、奴隷としてエジプトで命を、まるで物のように軽く扱われ、蔑まれてきた人々の痛みと、神の民の嘆きを「つぶさに見て」(出3:7)来られました。民の苦しみを、ただ傍観するのではなく、自分の目の前で我が子が痛めつけられているかのように、親身になって「その痛みを知った」(同)と神は言われました。そのお与えになる言葉と、それを受け取ってそのまま一言一句違わず伝えるモーセには、神の心からの熱い思いと愛が込められています。
 「十戒」と聞きますと私たちは「戒め」という文字の部分が先に目に飛び込んできて、何かこれを守らなければ神から戒めとして罰が与えられるような印象を強くする方があるかもわかりません。しかし今日、出エジプト記 20章の入り口、つまり十戒の序文のところの前提になっている神と民との備えの「景色」を眺めてもわかるように、ここでは制裁や脅しが約束を守らせる力を持たないのです。神の熱情と愛のみが、私たちの視線を神の山に向けさせます。私たちの神は、ご自身で自由な愛をもってこの「すべての言葉」(同 20:1)を告げる場を定め、こう言われます。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(同20:2)と。あれほど神の民の全体を導き、民の信仰を養い、どんなに悪態をつかれても神の民を見放さずに忍耐強く、「鷲の翼に乗せて」(同 19:4)親鳥が雛を背に負うように私たちを導かれた神ご自身が、ここのところに至って、「わたしは主、あなたの神」と言われるのです。「あなたたちの神」ではなく、しっかりと一人一人の顔の前に立たれて、神は「あなただけの神」だと言われます。また続けて神は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(20:3)と言われます。これは、ヘブライ語の原文通りに訳せば、「あなたの顔の前には、わたしの他に神なるものがあろうはずがないのだよ」という神の強い思いが込められた言葉になります。或いは「他の神々」というのを主語にしてこの部分を翻訳し直すならば、「他の神々が、あなたのために、わたしの面前にあってはならない」と解釈することも可能な神の言葉です。私ひとりのために、神は私の瞳の前に現れてくださり、私の命を永遠に保護し、奴隷なるものから解放するための約束の言葉として、「十の言葉」をくださったのです。私たちを縛るためでも凸凹した部分を矯正するためでもなく、神に応答するように造られた最初の、本来の人間の姿において私が神との自由な愛に満ちた関係を豊かに保つ為に、神は生きた言葉で私と約束を結んでくださったのです。それが十戒です。
 現代では「奴隷」という言葉は古めかしいかも知れませんが、私たちは時に金銭の奴隷になったり、上役の奴隷になったり、支配欲の奴隷になったり、罪の奴隷になったり、神以外のものに心を支配されてしまう過ちに陥ります。その時に、この神の言葉が、私たちへの愛の籠った約束事として胸に響いてくるのです。神は私たち一人一人のことを心から愛し、「わたしの宝」(同19:5)として御心に留めてくださる「わたしの主、わたしの神」です。ここが聖書の最も嬉しいところ、喜びの知らせの詰まった尊い「みふみ(御文/聖書の古語)」であるという所以だと思います。
 神の他に誰が、この小さな私に対して、何の功もなしにこのように愛の言葉を投げかけてくださるでしょうか。それも完全な準備をして、最も相応しい状態でこんなに尊い言葉をお与えくださるのです。
 「十戒」は、このような神の真剣な愛の眼差しの中で与えられた神の言葉のすべてです。私たちを「奴隷の家」から「神の家」である教会に導き上らせ、今日もまた凸凹した土の器である私を、その導きの中心に置いてくださっている主なる神の言葉です。この神が、今日はじめにこの礼拝への「招きの詞」でお聞きしたように、主イエス・キリストを「神の言(ことば)」としてこの世に人間の姿で降らせてくださいました。あのヨハネ福音書1章が告げるように、神は天地創造の始めから「言」として存在され、「わたしは在りたいように在ることができる者である」(出3:14)とご自身の自由を言葉によってモーセに語られました。更に十戒を与えられながらも神に背き、罪の奴隷になっていく人間を神は最後まで愛し抜かれ、ご自分の律法を完成する愛するひとり子を十字架にお架けになってまでして、私たちを罪の縄目から解放し、赦し、救ってくださったのです。新しい掟であるキリストは私たちを「友」と呼んでくださるほどに私たちを愛してくださいます。父なる神の教えを愛し、聞いて行う者は皆、主の友なのです。救いようのない私をつぶさに見て憐れみ、父なる神の子として正しい命の道に導き出して神の家に住まわせ、その上「友よ、」(ヨハネ福音書 15:15)と呼んでくださる主が、昔も今も、そして永遠に私たちの眼の前におられる唯一の神なのです。共にこの神にのみ拠り縋り、感謝の祈りの言葉で応答したいと願います。(祈 祷)

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