「アブラハムの信仰とわたしたちの信仰」
説教集
更新日:2025年10月25日
2025年10月26日(日)聖霊降臨後第20主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧 師 近藤 勝彦
ローマの信徒への手紙4章18~25節
18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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キリスト教信仰は、主イエス・キリストにあって神を信じる信仰です。主にあって神を信じるのは、生ける神が愛の神であることを信じるとともに、神の大能、神の御力を信じることでもあります。現代の世界にあっては戦争で破壊された地域や自然災害を受けた地域が一つや二つではありません。神の力はどこに働いているのかと思われるかもしれません。皆さんは神の力を信じているでしょうか。
アブラハムの信仰は、彼に子孫が与えられ、その子孫を介して神の祝福がすべての民に及ぶという、神の約束を信じる信仰でした。彼は今のわたしたちが置かれている情況と比べて、信じやすい状況にいたわけではありません。「彼は希望するすべもなかったときに、なお望みを抱いて、信じた」と言われています。状況は今日と同様、希望するすべもなかったのです。年老いたアブラハムは自分自身が無力な状況にありましたし、それだけでなく辺り全体をぐるっと見まわしても、どこにも神の大能の御力が働いている様子は、目に見える仕方ではなかったのではないでしょうか。しかしアブラハムは「不信仰に陥って、神の約束を疑うようなことはなかった」と言われ、かえって「信仰によって強められ、神を賛美した」とあります。そして「神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと、確信していた」と言われます。
アブラハムの信仰に学ぶのは、神の祝福の約束を信じる信仰に学ぶのですが、同時に神はその約束を実現する「力」をお持ちの方だと信じることを学ぶわけです。アブラハムの信仰は「約束を実現する神の力」、「神のデュナミス」を信じる信仰でした。神の力を信じるその信仰によって、彼自身も強められ、「確信していた」と言われます。
時代情況や世界情勢、そしてわたしたち一人一人の生活状態が、希望するすべもない状態であるときがあります。それにもかかわらず、神は約束したことを実現する力、デ゙ュナミスをお持ちだと信じる、それが信仰だと言われます。
神がまさしく最高の仕方で救いの働きをなさったゴルゴタの丘の情況を思い返しますと、それこそ信仰なしに見る人には、神などいない、まして力ある、デュナミスの神がおられるとは思われなかったでしょう。希望するすべのない状況だったに違いないと思います。しかしその中で神の偉大な力は最高度に働きました。神が御子をさえ惜しむことなく与えた出来事、そして主イエス・キリストがあの十字架でわたしたちの罪を負い、わたしたちの僕の如くになってわたしたちに仕えて下さり、悲惨な事態が、実は大逆転して、神の愛の偉大な働きの時であったのです。偉大な力は、神が主イエスを死者の中から復活させて、あらゆる勢力を足もとにおく勝利の王とし、わたしたちの頭、わたしたちの主なられたことに現われています。
アブラハムはおよそ百歳になり、身体は衰えていました。百歳になって、衰えない人はいないでしょう。しかし神の力を信じる信仰は衰えの中にある人間にも与えられ、信じた神のその力によってその人自身が「強めらる」ことが起きました。「信仰によって強められる」と言うのは、信仰そのものが強められ、確かにされることですが、その強められた信仰によってその人自身が強められ、確かさに満たされます。そして「神を賛美した」と記されます。神を賛美したのは、強められたしるしです。
パウロの記述はこのアブラハムの信仰が「義」と認められたことに注目しています。アブラハムを「わたしたちの父」と言うのは、「その信仰が義とされた」ことに注目してのことです。アブラハムの信仰の特徴である神の力、神のデュナミスを信じる信仰で言いますと、その神の力が、命がなくなりかけている自分に命を与え、いまだ無い者をある者へと呼び出し、約束したことを実現する、そういう神の力、神のデュナミスであり、それを信じる信仰によって義のない人に義が与えられるというのです。「強められる」というのは、「義とされる」ことなしには不可能でしょう。義とされるのは、良しとされ、肯定されることです。それがなければ誰も、不安を抱え、良心の疚しさを抱えて、本当の意味で強められることはできません。それでパウロは「その人を義とする信仰」に注目しました。
「大空の星を数えて見よ、あなたの子孫はこのようになる」と言われてアブラハムは「主を信じた」と聖書は言います。そしてその直後に「主はそれを彼の義と認めた」(創世記15 章 6 節)と記します。この御言葉にパウロは注目し、しかもこれをアブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されていると言いました。
神の力を信じる人は、その信仰によって確かさに満たされます。信仰には両面があって、「わたしが信じる」、これが重要です。しかし信じたいけれど信じられない場合もあるでしょう。いきなり信仰があるのではありません。信仰は神様への応答で、第二に起きることです。第一には神様がいてくださって、恵みをもってお働きくださる。そして約束を与えてくださり、その約束を実現してくださる。それを信じて応答するのが信仰です。そのとき、信じたいけれど、信じられないならば、信じられることを求めます。「信仰を与えてください。信じる者にさせてください」と祈ります。洗礼を受けた後でも、確かな信仰を与えてくださいと祈り続けるのが、キリスト者ではないでしょうか。信仰が与えられたのは、神の恵みです。それはまた、主イエス・キリストの御業により、そして聖霊の働きの賜物です。
信じる者にされたことは、神との関係、それも義と平和な関係に生きる者にされたわけです。神我らと共にいます。神との和解の中に、義と平和な関係の中に容れられました。そして神の命に与る者にされた。死んだ状態から生き返らされ、不信仰な罪の者から神の義にあずかる者にされ、罪にもかかわらず義とされる神の恵みを与えられたのです。
ある注解者は「義人は信仰によって生きる」と言われていることに注目して、「義とされる」とは「命を与えられ」「生きる者にされること」だと解釈しています。確かに「義とされる」のは、罪の宣告を受けて外に放り出されるのでなく、神との平和な関係の中に生かされることです。しかし「義」は「正しさ」を意味しますから、「神との関係の中に、それも正しい者として生かされる」ことで、「神の本質である義にあずかって生かされこと」です。義とされたことで、神の御前に深く安心してよいのです。そして揺るがぬ救いの確信の中に置かれます。
アブラハムに言われたことは、わたしたちのためにも記されているとパウロは語って、当時の教会の信仰告白を引用しました。それがこの段落の最後、25 節です。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」とあります。主の十字架によってわたしたちの罪は裁かれました。その罰も負われました。わたしたちの罪は決定的に処理されました。そして復活の主イエスによって新しい命に、罪の処理を潜った新しい命、神に対して正しく生かされ、義に生かされています。死者に命を与える神は、罪の者に義を与えて下さる。そういう神の力が主イエスの復活に示されています。
復活の主イエスは今日もわたしたちと共におられて、十字架上での罪に対する勝利を発揮してくださり、わたしたちに主御自身の義を身に纏わせてくださいます。「わたしたちが義とされるために復活させられた」というのは、神の力を表現し、死者に命を与える力ある神は、義のない者に義を与えるということです。復活の主イエスと共に今日を生きることは、神の力の中に生かされることです。「復活の主イエス・キリスト」を「わが主、わが神」と信じる時、わたしたちは主イエスを身に纏い、主の義を身に纏います。それは神の恵みの力の中にいることです。主イエスは、わたしたちの罪のために死に、わたしたちが義とされるために復活させられました。主の復活によってわたしたちは義とされ、神との平安の中で強められています。強められたしるしとして神を賛美しましょう。
義と大能の天の父なる神様、「イエスはわたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」との御言葉を聞き、感謝いたします。主イエスの十字架に示されたあなたの愛と、主イエスの復活に示されたあなたの御力を信じて、希望するすべもないときにも、なおあなたに望みを置き、信仰に生きることができますように。希望するすべもない情況の中でも、どうか教会があなたの恵みの御支配による救いの福音を生き生きと証し、伝道していくことができますように、導いてください。わたしたちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。