「前もってわたしの体に」
説教集
更新日:2025年11月15日
2025年11月16日(日) 聖霊降臨後第23主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 ― 子ども祝福・家族礼拝 ― 副牧師 岩田 真紗美
マルコによる福音書 14章3-9節
3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて食事の席に着いておられた時、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来てそれを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
今日は、「子ども祝福・家族礼拝」を守っています。また、この礼拝の前にはいつもの通り教会学校の礼拝がささげられました。メッセージはサムエル記の下巻でした。ダビデが長老たちによって、頭に油を注がれたお話です。ダビデは 30 歳という若さで大きな国を治める王さまになったんでしたね!この時代のヘブライ語の表現では、油を注がれた者は「メシア」と呼ばれていました。それは、私たちの救い主イエスさまのことを意味する言葉でもあります。だから「油を注ぐ」という行いは、ただのパフォーマンスではなく重要な意味を持っています。イエスさまが救い主であるということを表すと同時に、イエスさまが平和の王さまであるということを表すのが「油注ぎ」です。今日は教会学校で旧約聖書から聞いた「油注ぎ」の出来事を、ここでは新約聖書からも聞いて、私たちの心の中で旧約と新約が繋がって一冊の聖書になるといいな、と思います。
さあ、今日ご一緒に聞いているマルコによる福音書には、ある女の人がイエスさまの頭に注いだ油の、とってもすてきな特徴が一つ出てきました。それは何だったでしょうか。そう、「香り」です。この油はとっても良い香りがするので、みんな小犬のように鼻を小さく、そしていそがしく動かしています。お家で晩御飯に、お父さんやお母さんがカレーを温めてくれることがあるでしょうか。あのいい匂いは嗅いだだけで、お腹がグーグー鳴ります。そしてそのように、良い香りというのは瞬く間に家中に広がって私たちを幸せな思いにしますね。幼稚園や学校でちょっとつらい思いをして家に帰って来たとします。でもお家の扉を開けた瞬間、晩御飯の香りが胸の中に飛び込んできて、「ただいま!」と言ったらすべてを忘れることはありませんか。私は小さい頃、よくそういうことがありました。
福音書記者のマルコが話している「油」は、このカレーの匂いはしませんが、とっても良い香りのする油で、「香油」と言います。3節に書いてあるように、純粋で非常に値打ちが高い油です。インドで作られている「ナルド」という樹木の根っこから取り出すこの油は松のような立派な樹から、僅かしか取れないそうです。普段私たちがイタリア料理の時に、最後に飾りのように香り添えでちょっと良いオリーブ油をかける、あの時の油より高価なものです。何だか大人も子どもたちも、お腹がすいてきますね。とにかく、キッチンの奥から出してきて、ちょこっとだけ最後に振りかけるようなものよりも、もっと貴重な尊いものが香油であるようです。この香油は実は、昔から貴重なものとして覚えられています。例えば旧約聖書の中の『雅歌』という麗しい歌の中にも出てきます。そこでは王さまが食事の席に着いている時、女の人が「私のナルドは香りを放ちました」(雅 1:12、聖書協会共同訳)と歌います。髪の毛に香りをつけるために使ったナルドの香油が宮殿中に香るのです。しかもそれは、ひとりの人が自分のためだけに使うというよりも、その場に一緒にいる仲間や家族に「あなたのことがとっても大事だよ、愛しているよ」ということを伝えるために使う物でした。また病気の家族がいたならば、塗り薬のように塗ってあげると病が治るとさえ言われる、癒しの力がある油でした。さらには、今日マルコが語っているように、亡くなった人の体を守るために使うこともあったようです。
イエスさまは、このような貴重なナルドの香油を目一杯ご自分に注いでくれた女の人の行いを見て、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(14:8)とおっしゃいました。イエスさまは、とっても喜んでおられます。どうして埋葬の準備をしてくれたことが、そんなに嬉しいことなのでしょうか。あの、長老たちから油を注がれたダビデも、さっき触れた雅歌の歌い手も、死ぬこととはあんまり関係ないところで油に触れています。喜んでも当然の場面で、油に触れています。しかし今日、イエスさまは「埋葬」、つまり「死ぬ」ということを大事に覚えてする葬りのわざのために、高価な油が注がれた事を喜んでおられるのです。ここにこそ、今日は注目したいと思います。どうしてイエスさまは、死ぬことを大事に思ってした女の人の行動を、こんなに喜ばれたのでしょうか。
女の人が、これからイエスさまが進んでゆかれる「十字架の死」への道を備える準備を「前もってわたしの体にしてくれた」からだ、とイエスさまは言われます。イエスさまが喜ばれたのは、イエスさまの死が、みんなを救うための死だとこの女の人が分かっていたからです。イエスさまは、今日のマルコによる福音書に出てくるような、人が喜んでする「良いこと」を、例えば頭から否定したり、人のする「良いこと」に対して妬んで恨みを抱いて、終いには憤ってしまうような人々を、諫められました。そして、そのような人間の罪ゆえの弱さを、父なる神さまと一緒にずーっと長い間、見てこられました。イエスさまの溜息、というのは、たくさんの嘆きが籠っていたと思います。私たちのお父さんやお母さんが、宿題をしていない私たちのことを嘆いてつく溜息よりも、うんと深いものです。
そんな罪の苦しみによって、暗い闇のような死の世界のなかに埋もれていってしまう人間たちを心から憐れに、かわいそうに思って、神さまは何とか救い上げたいと願ってくださいました。私たちを新しくして、神さまに素直に従う、子どもたちのような心に、私たちの魂を造り変えてくださるために、やがてイエスさまは十字架にお架かりになりました。イエスさまが私たちのために死んでくださらなくてはならなかったほど、私たちの罪は深かったのです。でもイエスさまは、弟子たちに約束した通り、十字架で罪と死を完全に滅ぼされたあとに、復活されました。今日出てきたこの女の人は、私たち一人一人をそこまで愛し抜いて、新しい命に生き生きと生きるようにしてくださるイエスさまの復活の力を、信じていました。だから、その大きな恵みの喜びの時の準備のためにも、十字架の死の準備を、イエスさまに喜んでして差し上げることができましたし、イエスさまもこの女の人のした「良いこと」を父なる神さまと一緒に、喜ばれたのです。
高価な香油の麗しい香りでいっぱいになったシモンの家には、「重い皮膚病」(14:3)を患っていた家族や、昔イエスさまに手を取っていただいて、高熱から奇跡的に救われたお姑さん(マルコ1:30)がいました。実は、このお家はイエスさまに救ってもらった喜びを知っている人が住んでいたのです。香油を注いだ女の人も、昔イエスさまに罪から救い上げてもらったことがある人です。聖書は、私たちの中には最初から神さまを愛する愛も、隣り人を愛する愛も無かったと語ります。みんな神さまからいただいた「良いこと」が元になって、それと反対の方向に進む罪が、どんなに苦しくつらいものであるのかを知りました。そして自分の情けないところや、弱いところ、どうしても悪に勝てない罪の深さを思って、神さまの前で悔い改めて祈る時、神さまは赦してくださるということも私たちはイエスさまの十字架によって知りました。ただ神さまの愛と恵みだけが、私たちには注がれています。それをこの女の人は喜んで、香りの良い「香油」をたっぷりと神さまのご用のためにささげ、感謝の気持ちを表しました。
「そんな勿体ないことをして、まるで無駄遣いだ。この香油を売ってお金にしたら貧しい人たちのお腹を満たしてあげられるのに」(14:5)と言った人たちがいましたね。でも、この人たちのこともイエスさまは、やがて十字架によって救われました。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたたちと一緒にいるし、もしそのような施しの気持ちがあるならいつでもしてあげられるでしょう。でも、わたしは」(14:7)と、この時イエスさまは、いつまでも一緒にみんなといられないよと言われました。既に十字架にお架かりになる覚悟、心の準備がおありだったからです。だから尚更、女の人が昔イエスさまから救われたこと、自分にとって一番良いことをしてくださったことを思い出して、今度はその愛をイエスさまのためにささげる「良いこと」を喜ばれたのです。みんながイエスさまのなさる良いこと、イエスさまの周りに広がる良い香りを伝えていく時、イエスさまはいつも一緒にそこにおられます。この「良いこと」というのは新約聖書が書かれたギリシャ語では「美しいこと」という意味です。今日みなさんは、牧師先生の手を通してこの「良いこと」、「美しいこと」をしていただきます。香油のように祝福の祈りが注がれますよ。みなさんも今日の嬉しい出来事をいつまでも覚えていてください。そして、神さまの子どもとしてイエスさまが喜ばれた「良いこと」、「美しいこと」を体の中に染み込ませてキリストの愛の香りを伝え歩くステキなおとなに成長していってくださいね。(祈祷)