銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘
  3. 「主の真実を信じて」


銀座の鐘

「主の真実を信じて」

説教集

更新日:2025年11月22日

2025年11月23日(日)聖霊降臨後第24主日 終末主日・謝恩日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師  川村 満

サムエル記下12章13~25節

1, 罪の不思議さ
  本日は、旧約聖書のサムエル記下12章から御言葉を聞いてまいりたいと思います。ダビデは、バト・シェバという人妻と関係を持ち、子供が身ごもってしまったことを隠蔽するために、その夫である、部下のウリヤを戦争の最前線に送って戦死に見せかけて殺しました。しかしそのことが預言者のナタンによって知られ、神からの厳しい裁きの言葉を宣告されました。ダビデの罪は甚だしく大きいので、ダビデの家から、今後反逆者が起こるだろう。そして、生まれる子どもは必ず死ぬと言われたのです。しかしダビデはそのとき、心の底から悔い改めたので、死の罰は免れたのです。しかし生まれてくる子供は死ぬ。この預言は変わりません。ナタンの語った通り、バト・シェバとの間に生まれた子は病気になりました。
 ある人がここでこのように語ります。罪というものほど不思議なものはない。そしてとても恐ろしいものだと。恐ろしいだけではない。罪を犯したために神の恵みを知ったということがある。そういう不思議さがある。しかし神は罪を心から憎んでおられるので、罪を犯さないように歩むことが求められている。恵みを、罪を犯す機会としてはならない。自分の犯した罪が他人に影響を及ぼすことはいくらでもある。罪の力が多くの人に伝播していくようなことがある。私たちの内に潜む罪というものはわたしたちが理解できないものの一つであります。ナタンは、悔い改めたダビデに直ちに神からの赦しを宣言します。「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」しかし、ではなぜその子供が死ななければならないのでしょうか。またある人がこのように語っております。……罪の赦しには、犠牲だけでなく、償いも必要なのである。子供の罪を親が償う。部下が罪を犯すと上司も罰を受ける。不合理であるが、親が犯した罪のために子供が罰を受けることもある。そういうところに罪の不思議さがある。私たちはそういう罪とその赦しについてあまりに簡単に考えすぎているのではないだろうか。誰かが罰を受ける、その償いなしに罪の取り返しはつかない。この単純なことを厳粛に受け止めなければならない……と。親の罪で子どもが苦しむなどあってはならないことですが、そういうことはやはり現実にあると思います。罪の連鎖というものもあります。虐待などはその最たるものであるかもしれません。しかしそれは神の恵みのない、罪が支配する状況においてであります。ここでは、神が、神の人であるダビデを裁くのです。しかしその裁きとしての死が、あろうことかダビデ自身ではなく、その子供に向かう。これは何とも説明のつかないことであります。ひとつ思うことは、神は人間を祝福してくださいます。しかし神は、罪を祝福することはあり得ないのです。不倫愛を祝福することはできない。殺人を祝福することはできない。神を侮る者を神は祝福できない。そういう神の義の厳しさがここに現れているのかもしれません。ローマの信徒への手紙の第 6章23節にこのようにあります。「罪が支払う報酬は死です。」生きとし生けるものはみな死にます。しかし人間の死は、動物の自然死とは違う。私たち人間は皆罪人なのであり、その罪のゆえに死ぬのだ、罪には支払わなければならない報酬がありそれが死なのだと。聖書はそのように語っているのです。その罰としての死が、ここでは、ダビデにではなく生まれてくる子供に向けられたこと。それは私たちの理解できないものであります。学者たちも明確に答えず、ただ不思議だと言っている。ただ、神がお定めになったことだと信じて受け止めるほかないのです。

2, 断食して祈るダビデ
 しかし、ダビデはここで諦めませんでした。ダビデは、神の憐れみの大きさを信じ、また願い、罪を赦してくださったのなら、我が息子の命を取り上げないでください!癒してください!と祈り続けたのです。そのためにダビデは一週間もの間、引きこもって、寝床で寝ることもせず地面にじかに横たわりつつ、徹夜で祈り続けたのです。心配した長老たちが地面から起き上がらせようとしてもそれを拒み、食事もしなかった。恐らく一週間飲まず食わずの断食をして主の憐れみを請うたのです。主よ、どうか我が子を癒してください、とそのことだけをただひたすらに願い続けたのでしょう。私は思います。自分の不義で生まれてしまった子供です。最初、ダビデはバト・シェバのお腹に自分の子供がいることを知ったとき、ただただ焦って、ウリヤに押し付けようとしただけでありました。孕ませてしまったことを後悔したような子供であります。なぜ、ここでこれほどに、生まれてきた子供を愛せるのだろうか。ダビデほど子煩悩な王はいないのではないだろうかと思います。恐らくダビデは、不倫とはいえバト・シェバを心から愛したのでしょう。そして結婚という形で責任を取ったのです。もはやダビデにとってバト・シェバは正妻であり、この子供は自分の愛する妻の子供なのです。ダビデはもしかすると他のどの妻よりもバト・シェバを愛していたのかもしれません。それゆえの幼子への愛情でありましょう。しかし、一週間の断食の伴う祈祷の甲斐もなく、子供は死んでしまいました。

3, 礼拝するダビデ
 さて、その状況を見た家臣たちは、心配しました。まだ幼子の死んでいなかったときに、あれほどの苦しみながら祈り続けていた王であるから、死んでしまったことがわかれば、悲嘆のあまり自殺してしまうのではないだろうか。ひそひそと話している家臣たちの様子を見たダビデはそれを察してしまいます。息子は死んだのだと。家臣の心配とは裏腹に、ダビデは身を清めて、顔に油を塗り、身支度を整えるのを見ます。そして第一にしたこと。それは礼拝でありました。全てを受け止めたダビデは神に礼拝をささげる。そこではおそらく、神を賛美したのでしょう。礼拝が終わるとダビデは、普通に食事をします。そのようなダビデに家臣たちは尋ねます。納得できなかったのでしょう。本来なら、死んでしまった時にこそ子供のために嘆くのに、なぜまだ死んでいない時に嘆き、死んでしまった時にそんなに平然とするのだろうかと。いぶかって尋ねる家臣にダビデは答えます。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」
 ここに、私たちが見倣うべきダビデの神への姿勢があります。単に、子供を癒してください、という願いだけであるならば、もし癒されないならば信仰を失い、神に不平、不満を言うだけになってしまうでしょう。礼拝する心などそこで失ってしまうのです。御利益信仰としてだけ神を信じているならば、そのようにならざるを得ません。その場合、あくまで信じている自分が主体なのです。しかしダビデは、もちろん子供を癒してもらうために断食し、主の憐れみを乞うたのですが、長い長い一週間もの厳しい祈りの闘いの中で、主なる神を信じぬくための祈りをしていたのではないでしょうか。祈りの中で、何が何でも子供を癒してくださいという祈りから、ダビデ自身が打ち砕かれて、神が子供の命を取り上げることも、生かすことも、全て、主の真実であると信頼して、その結果を信仰において委ねて行く者とされていったのではないでしょうか。ダビデは、神を信頼し、神の御心としての子供の死を、信仰において受け止めたのです。ここには悲しみはありますが、しかし不平はありません。悔いもありません。ダビデは神への信頼のゆえに、全てが終わったのだということを受け止めたのです。自分はまた、神を信じて、元の生活に帰りさえすればよい。一切を神に任せる。そういうことなのであります。旧約聖書のヨブ記の主人公、ヨブも、一切を奪われたときに、このように語っております。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記 1 章21)つまり礼拝とは、自分が主体であることを止めて、神を主とする。そしてその主の御心を受け止めることであります。ダビデは、神を主とすることをわきまえておりました。ある人は言います。すんでしまったら今までのことは忘れてしまったように神に全てをゆだねたものの晴れやかさに帰ることができるのだと。しかし、その前にダビデには、苦しみ抜く祈りがありました。わたしはこのダビデの祈りに、主イエスのゲツセマネの祈りを思い起こします。深い苦しみの祈りの果てに、全てを委ねる信仰が与えられていくのではないでしょうか。私たちはそこまで深く、主の御心に自分を委ねるための祈りができないかもしれません。しかしそのような私たちのためにも主イエスが今も、私たちのために執り成してくださっていると思うのです。ダビデは王でありましたが、失敗の多い人生でもありました。私たちと同じ弱い人間でありました。しかし神に対する真実を貫く信仰。神を神とするということはよくわかっていた人でありました。そこにおいて、主に対して誠実であったのです。

4, 祝福に変えてくださる神
 その後、主はダビデとバト・シェバの間に生まれた次の子供を大いに祝福してくださいました。主は、不倫から始まった関係をも、その罪を赦し、正式な結婚として認めてくださり、それを救い主の系図の中に入れてくださったのです。主はどんなに忌まわしい罪でも、恵みのきっかけに変えることがおできになるのだということがここでわかります。罪は確かに赦されたのです。しかし地上においては、私たちは自分の蒔いた種を刈り取らなければなりません。ガラテヤの信徒への手紙第 6章 7節にこうあります。「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」良い種も、悪い種も刈り取るのは私たちの責任であります。私たちに帰って来るのです。罪の赦しと、罪の結果を刈り取ることとは別であるとわかります。しかし、悔い改めに生きる者にとっては、そこにも祝福があるのです!主がダビデとバト・シェバの関係を祝福に変えてくださったように、たとえ罪の結果を刈り取るような苦しみの中でも、主が共におられ、その一つ一つを益に変えてくださる。主の恵みの中にある私たちは、そのように期待することをも許されているのであります。なぜなら、主イエスがわたしたちの人生の全ての罪を十字架において贖い、私たちの歩みの全てを祝福の内に置いてくださったからです!だから、私たちは、たとえ悪い種であっても、自分ひとりで刈り取るのではありません。主イエスと共に刈り取るのです。主はここで、お前ひとりで自分の罪に向き合いなさいとおっしゃるのではありません。主がそこでも支えてくださるのです。主がわたしたちの人生の尻拭いをしてくださるのです。そこで、私たちと共に苦しんでくださるのです。誰かに頭を下げなければならない時、主が一緒に頭を下げてくださるのです。私たちの犯した罪からも、そこから祝福を創り出すことのできる神です。しかしそれは私たちが、罪の中にとどまっていてよい理由になどはなりません。ある人が言います。主が自分に向かって微笑んでくださっていると感じられるのは、明日に向かって歩む、何よりの力となるのだと。

5, マタイの系図
 ところで、新約聖書のマタイによる福音書の第 1章には、主イエス・キリストの系図があります。アブラハムからキリストに至るまでのこの系図の中で 6節にこうあります。「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」。この一言によって、そこに何かおかしなことがあったということがすぐにわかります。そこには確かに罪がありました。そして、この出来事だけでなく、この系図の中にはもっとたくさんの罪があったに違いありません。しかしそのような人間の罪が含まれた系図の一番終わりまで、主イエス・キリストが担ってくださっているのであります。つまり、この系図。人間の罪の系図が、全てキリストの十字架の中に。そしてキリストの命の中にあるということです。つまり主イエスが人類の歴史の罪。また私たちの過去の全ての罪を克服してくださるということです。
 この主イエス・キリストによって、わたしたちの人生は、いつでもやり直せるのです。過去を克服できるのです。私たちの人生にも多くの失敗があったと思います。やってしまった。もうやり直すことのできない、取り返しのつかないものであるかもしれません。しかし主イエスにあって、私たちはどんな人生であっても受け止めていただけるのです。キリストにあって、私たちの人生はいつでも、新しい出発があるのだということです。過去の罪の重荷に苦しむ全ての人々に、主イエスは新しい人生を回復させてくださる力をお持ちなのです!そのような恵み深い方が、私たちの人生の土台となって、共に生きてくださる。まさにこれを信じて、主イエスに全てを委ねつつ、新しい一週間を歩んでいきたいのです。お祈りをいたします。

 
 天の父なる神様。これまでの人生の全てをあなたに委ねます。善いことも悪いことも、全てあなたはご存じであります。あなたと共に刈り取るわたしたちの歩みを、祝福してください。どれだけの罪を犯しても、あなたは私たちを御国の民として決してお見捨てにならず、私たちの人生を肯定してくださっていることを信頼し、与えられた時を最後まで一所懸命に歩むことができますように。今日から始まります一週間を、あなたが恵みの内に伴ってくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

最新記事

アーカイブ