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銀座の鐘

「恐れることはない」

説教集

更新日:2025年11月29日

2025年1 1 月30日(日)待降節第1主日 銀座教会・新島教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤

ルカによる福音書1章26~38節

キリスト教会の暦では、本日のアドヴェント、待降節から新しい一年がはじまります。毎年迎える待降節は、救い主を待ち望む季節の始まりを告げます。しかし、なぜ教会の暦は主イエス・キリストがお生まれになったクリスマスから始めないで主イエスが生まれる前から暦を始めるのでしょうか。キリスト教会は、主イエスを救い主と信じて洗礼を受けて教会に加えられた人が集まっているのですから、主イエスが生まれる前、主イエスの不在から、暦を始めることにはどのような意味があるのでしょうか。
それは、私たちが神を疑ったり、神がいなくても生きていけると考えたり、神のみ前に傲慢になっていた姿勢を思い出すためではないかと思います。救い主がおられない世を生きてきた私たちが救い主を待ち望む心の飢え渇きを思い出すためではないでしょうか。そして、私たちに救い主が必要なのだということを新しく心に刻み、真の救い主、主イエス・キリストをお迎えする姿勢を整えるためではないかと思います。本日、私たちは神のみ前に姿勢を正して、待降節を歩み出したいと思います。
毎年、待降節を迎えるとルカによる福音書やマタイによる福音書を開いて、約 2025 年前の最初のクリスマスの出来事を思い起こします。主イエス・キリストの降誕に至るいきさつを聖書が丁寧に記しています。もうすでに最初のクリスマスを何度も読みながら、主イエスが母マリアからお生まれになったことなどクリスマスの物語を確認して、救い主の到来を待ちます。では、主イエス・キリストを迎えている現代の教会は、何を待っているのでしょうか。
主イエス・キリストの誕生以前は、救い主の到来を待っていましたが、現在のキリスト教会は、再び来てくださる主イエスを待っています。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは、12人の弟子たちと共に神の国の福音を宣べ伝えました。そしてガリラヤからエルサレムへ進み、エルサレムで十字架刑に処せられました。私たちの罪のために身代わりとなってくださいました。十字架の死から三日目に主イエスは復活され、復活の主イエスはお姿を40日間現され、天に昇っていきました。その時に、主イエスが再び来てくださるという約束を残して天に帰られました。
主イエスが再び来てくださることを再臨といいます。私たちが待降節を毎年繰り返し繰り返し新たな思いで迎えるのは、最初のクリスマスを思い出すことを通して、新しい信仰をいただき、地上の教会生活を通して再臨のキリストを迎える備えをしているのです。
最初の教会は、再臨のキリストがいつ来るのか、今日なのか、明日なのか、来月には来るだろうと熱望していました。しかし、待てど暮らせど再臨の主イエスは来られないのです。いつの日かキリストを待望する熱も冷めてしまいました。そのうちに一緒に待っていた教会の中から一人二人と召天してしまい、再臨の前に死んだ者の救いはどうなるのか心配するようになりました。一緒に再臨のキリストを迎えることが出来ない絶望を経験しました。キリストが再臨するという約束をめぐって混乱しはじめました。
再臨の約束を信じた自分が愚かだったと考える者がいたり、もはや再臨を待つことに意味はないと考える者もいました。聖書の言葉への疑いまで生まれてきました。再臨のキリストを待つために天を見上げている人々は、そんな暇があったら、目の前を見てしっかり働きなさいとたしなめられるということまで起こったようです。
初代教会は再臨のキリストについて正しい教えを再確認しなければなりませんでした。そして、再臨のキリストがいつ来るのかは、人間が勝手に遅いと判断してはならないこと、神の言葉ではなく自分の考えを基準にして、遅い遅いと言っていた愚かさに気付いたのです。私たちも再臨の約束の御言葉を確認しましょう。
マルコによる福音書13章26節「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」 、 使徒言行録1章11節「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあ
なたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 この約束がいつ実現するのか、それはコリントの信徒への手紙15章20~24節に記されています。ここには、「世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」と記されています。この世が終わり、神の国が完成する時です。そのとき再臨のキリストが来られるのです。キリストの復活にあやかって私たちが復活し、永遠の命を生きる者とされるという、私たちの救いが完成する時、再臨のキリストとお会いするのです。
再臨のキリストを待つ教会の混乱は、御言葉と信仰によって落着き、終わりの日は私たち人間が決めることはできないこと、終わりの日を神の救いの時として待つことを大切にするようになりました。落ち着いて再臨のキリストを待つ姿勢を整えたキリスト教会は、神の国の完成を待望しながら、最初のクリスマスを思い起こすことを通して、神の国の完成を思いめぐらすのです。これが待降節、私たちに与えられる救いの完成を待つ信仰の姿勢です。
私たちは、最初のクリスマスの出来事を神の救いのみ業として思い起こし、終わりの日、神の国の完成を通して与えられる救いの完成を望み見て歩みます。私たちが待望するのは、神の救いです。私たちだけの救いではありません。世界が教会を通して救われることを待望して、神の国を待っています。そのために、神の救いの御業が開始されていることを知っている者として、神の御名を心から讃美し、喜ぶのです。
日本基督教団信仰告白は、救い主の降誕と再臨について、このように記しています。「御子は我ら罪人の救いのために人と成り」、「主の再び来たりたまふを待ち望む」と告白しています。そして、使徒信条においては、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と告白しています。
現代を生きる私たちが救い主を待ち望むのは、罪にまみれた私たちを罪から救い出してくださるお方の到来を信じて待つことです。聖霊なる神の救いの御業は、処女マリヤに主イエスを宿らせ、神が人となって地上に生まれるという仕方でした。私たちの罪は、人間の力によってではなく、神の御業を通して救われるということです。
本日の御言葉は、救い主をお与えくださる神の言葉とマリアの姿を示しています。神の救いの第一歩、聖霊なる神がマリアに主イエスが宿ることを伝えています。ルカによる福音書1章は、本日のマリアの事と対比して、祭司ザカリアとその妻エリサベトを示しています。祭司ザカリアは天使によって与えられた妻エリサベトが男の子を生むという言葉を疑いました。天使の言葉を疑い受け入れなかったことが記されています。マリアの姿と対照的な出来事です。祭司ザカリアの不信仰とマリアの信仰が対比されて記されています。ルカによる福音書は救い主を待ち望む姿勢として、私たちが救い主を疑いつつ待つのではなく、「お言葉どおり、この身に成りますように」という信じる姿勢を与えられたこと、神のみ前に立つふさわしい姿勢を喜んでいるのです。罪深い私たちがへりくだり、謙虚になって神の御前に立つ姿勢が実現したのです。私たちはザカリアのように疑い深い者です。しかし、疑い深い私たちもマリアの姿を知ることを通して、疑う者から信じる者へ変えられるのです。神の御前に、聖なる時間を与えられるのです。 信じない者ではなく信じる者へと招かれているのです。
クリスマスの母マリアは、 世界の人々のために、 罪を赦し神の救いのご計画へと招かれて、神に応答しているのです。
28節、神が天使ガブリエルを通してマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と挨拶しました。この天使の言葉に対して、マリアはこのように答えました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」このマリアの声を聞くことが、本日の礼拝の中心です。大切なことは、天使ガブリエルとマリアの御言葉を聖なる物語として心に刻む事です。私たちはマリアに代わることは出来ません。私たちはマリアの返事を通して、神の御業を目撃し、この出来事を通して神を信じるのです。
天使ガブリエルはマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を生む」と語りました。
神の救いの御業がはじまりました。 神がこの地上に来られるのです。 神なき世界ではなく、神が共におられる世界です。
罪深い者は神のみ前では恐れおののくのです。自己中心に生きていた者は恐れるしかありません。神のみ前に恐れなくてよい人はいるのでしょうか。この地上には、神のみ前に胸を張って立つことが出来る人は一人もいないのではないでしょうか。恐れるしかない私たちに対して、にもかかわらず、神の深い恵みによって、「恐れることはない」との御言葉が響いているのです。神の御言葉をいただいて、神の御心に信頼することが出来るのです。
恐れなければ生きることができない私たちに、神は「恐れることはない」とお語りになりました。救い主のご降誕への道を開いてくださった神は、この道へ招いてくださっているのです。主の招きに感謝して、神を仰ぎつつ、待降節を共に歩みだしたいと思います。

祈り
天の父なる神さま。待降節を迎え、御前に礼拝をささげ、祈りをお聞きくださることを感謝いたします。誰よりもあなたは私の罪をご存じであるにもかかわらず、恐れることはないと、御言葉をくださいました。感謝いたします。あなたのみ言葉に従って神の御業をしっかりと仰ぎ続ける待降節を過ごします。御国を待望しつつ、御救いへとお導き下さい。キリストの御名によって祈ります。アーメン

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